コリントの信徒への手紙講解
1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
1章1-3節は、この手紙の挨拶の部分に当たります。
パウロは、ここで「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ」といって自己紹介しています。ここに自分が使徒であることを強く主張しています。使徒言行録によりますと使徒というのは、生前のイエスと共に生活した者であり、イエスから選ばれた「十二人」を指しますが、この手紙の9章5節や15章7節では、パウロはもっと広い意味で用いています。パウロは、ガラテヤの信徒への手紙1章1節では、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」と言って、組織や人脈によらず、直接神の召しによって、復活の主と結びつけられたと言って、使徒の権威を主張しています。
この使徒権の主張は、今から書かれるこの手紙がどういう性質を持つかを示す主張ともなっています。使徒というのは、彼を遣わす方の力と権威を代表する全権大使であります。使徒は、十字架につけられ、復活された主イエス・キリストの証人であります。使徒はこの方との関係において、使者であり、奴隷であり、管理人であるに過ぎません。そのことを深く自覚するパウロは、決してどの教会に宛てても個人的な私信を書くことはありません。キリストに遣わされた者、つまり「公職にある」者として「使徒」の手紙を書くのです。
言い換えれば、なぜ、使徒の手紙がそのまま神の言葉としての聖書になりうるのかという理由も、使徒職の持つこの独自な意味と深く係わっています。そうであるなら、この手紙を読む者は、パウロという一人の人物が書いた個人的な私信として読むことは許されません。真剣な態度で神の言葉として読み、聞くことが求められています。キリスト信徒にとってこれは神の言葉であるという信仰が求められているのであります。パウロはそれを読む側に要求するだけでありません。パウロが書く内容もまた、この自らの使徒権と切り離すことができないのです。2章2節で、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決め」、ただイエス・キリストにおいて神がなされたこと、イエス・キリストがしてくださったこと、イエス・キリストとの関係においてキリスト者がどうあるべきかだけを語り、人間の知恵で何も語ろうとしなかったことを述べています。
キリスト者にとって、教会にとって何が大事かというと、神と神との関係が全てであり、イエス・キリストが全てであり、このお方との関係が全てであります。1章1-3節までの挨拶のなかでも、イエス・キリストの名が5回も出てくるのはそのためです。パウロは自分の使徒権の主張について神とイエス・キリストからの召しということを強調するだけでなく、コリントの信徒たちについても、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々」と呼んでいます。使徒職にしろ、信仰にしろ、全て神とキリストからの召しという事実がないと生まれない、この召しを自覚することによって本物の正しい信仰が初めて生まれる、パウロの揺るぎない主張がここにあります。従って、教会の一致の基礎もこの関係を抜きに考えることができません。わたしたちの信仰のあり方もこの関係を抜きに考えることができません。コリントの教会は、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくという者が現れて分裂の危機にさらされていました。また、道徳上の乱れや、キリスト者の自由の誤用により教会は混乱していました。教会生活や教会の職務や働きについて不一致や混乱が見られました。パウロはこれらの難しい多くの困難な問題に応えねばならなかったのです。その混乱の全ての原因は、見るべき方を、教会がちゃんと見ていないことをパウロは深く洞察していたのであります。
(注)パウロは、兄弟ソステネの名を自分と並べている。使徒18:17によれば、同じ名の会堂司がいるのでそれと同一視されてきたが、断定はできない。パウロは各手紙の初めに名を挙げられた同労者(シルワノとテモテⅠ・Ⅱテサロニケ1:1、テモテⅡコリ1:1)はその手紙の共著者ではないが、同労者として権威あるものとして、その教会に紹介している。
パウロは多くの誤りと問題の多かったコリントの教会のことを、「コリントにある神の教会」(2節)であると呼んでいます。これは非常に重要な意味を持つ言葉です。教会というのは日本語では教える会という字を書きますが、ギリシャ語では、「エクレシア」と言います。これは、実は旧約聖書をギリシャ語に翻訳するとき、「カーハル」というヘブル語を翻訳した言葉であると言われています。カーハルというのは、神の民、すなわちこの世から神によって呼び出された者たちの集まりという意味があります。ギリシャ語のエクレシアも「神によって呼び出された者」という意味があります。コリントの教会の人達は人間的には多くの問題がありましたし、多くの欠点がありました。しかし、神によって呼び出されたものの集まりとして「聖なるもの」でした。聖徒の集まりでした。そして、コリントの教会は「神の教会」と呼ばれています。これは教会の帰属がどこにあるかを示す言葉であります。教会は神の所有に属するのです。コリントの人たちは神に属するものとして「聖なる者」です。かれらは自ら聖なる者ではなく、神によって聖とされた存在です。そして、その聖化はキリストとの交わりを通して起こるのです。神によって召された者だけが聖とされるのです。キリストに属する者は、聖霊を与えられてこの聖化の実際的な恵みに与っていくのであります。
本来、「神の教会」は神に召された者の集まりとして、キリストの体に属するということにおいて「一つ」です。しかし、「コリントにある」といわれているように、エクレシアは「地方教会」として存在します。しかし、わたしたちは本来のキリストの体に属する教会の「一つ性」を信仰として持つことが、教会の一致を考える上で非常に重要です。わたしたちは、それぞれ所を異にして礼拝を捧げ教会生活に励んでいるのは、人間性の限界の故です。しかし、神の教会は幾つにも別れているのではなく、本来は一つです。しかし、地方教会は、立派にこの一つのキリストの体なる教会を構成しているという事実も忘れてはならないのです。互いに別れ離れている教会がではどうやって一致を保ちつづけることができるでしょうか。
パウロはその可能なことを2節おいて「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人々と共に」と表明することによって示唆しております。教会はどれだけ遠く離れていても、キリストに属する者は互いに、「主イエス・キリストの名を呼び求めている」礼拝において一致し、一つとなることができるのです。この神にある事実に目を向け、共に祈りつつ礼拝を守ることが大切です。神からの召し、主イエス・キリストの御名を呼び求める礼拝の一致を第一としないどのような一致の努力も失敗するほかありません。しかし、どのように一致が困難に思われても、どのように問題があるように見えても、わたしたちがこの大切な点を見失わずに教会生活を続けるなら、神が一致へと必ず導いてくださるのであります。
そして、パウロが最後に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(3節)、と祈っています。このことがわたしたちの内に必ず実現します。そのことを信じる信仰がまた何より大切なのであります。
「平和」(シャロ―ム)は、パウロにしばしばみられる慣用句(Ⅰコリ14:33、ローマ15:33,Ⅰテサロニケ5:23)で、ユダヤ人の間であいさつの言葉として用いられていました。預言者の言葉においては、メシアの到来する救いの時の賜物を意味し、メシアによる救いを表す言葉となっていました(イザヤ9:5-6、32:17-18,52:7,54:10。ローマ8:6,14:17、ガラ5:22など)。
新約聖書講解
- コリントの信徒への手紙講解
- 序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質
- 1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
- 2.コリントの信徒への手紙第一1章4-9節 『キリストにある豊かさ』
- 3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』
- 4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』
- 5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』
- 6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』
- 7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』
- 8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』
- 9.コリントの信徒への手紙一3章10-15節『この土台の上に』
- 10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』
- 11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』
- 12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』
- 13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』
- 14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』
- 15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』
- 16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』
- 17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』
- 18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』
- 19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』
- 20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』
- 21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』
- 22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』
- 23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』
- 24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』
- 25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
- 26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』
- 27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』
- 28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』
- 29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』
- 30.コリントの信徒への手紙一14章26-40節『共に学び共に励ます』
- 31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』
- 32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』
- 33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』
- 34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』
- 35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』
- 36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』
- 37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』
- 38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』
- 39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』
- 40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』
- 41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』
- 42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』
- 43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』
- 44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』
- 45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』
- 46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』
- 47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』
- 48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』
- 49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』
- 50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』
- 51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』
- 52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』
- 53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』
- ガラテヤの信徒への手紙講解
- 1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』
- 2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』
- 3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』
- 4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』
- 5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』
- 6.ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節『神が讃美される人間の革新』
- 7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』
- 8.ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節『福音の真理に生きる』
- 9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』
- 10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』
- 11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』
- 12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』
- 13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
- 14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
- 15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
- 16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』
- 17.ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節『キリストが形づくられるまで』
- 18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』
- 19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』
- 20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』
- 21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』