ガラテヤの信徒への手紙講解
13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
パウロは、これまで、救いは神の恵みによるものか、それとも人間の善きわざによるのか、という議論をしています。即ち、救いは、信仰によって与えられるものか、それとも律法を行うことを通して与えられるものかどうかという問いとなって表わされましたが、2章16節において、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということをパウロは明らかにしています。
パウロは、その信仰に生きた例としてアブラハムという人物を指し示しています。6節において括弧にして引用されている言葉は、創世記15章6節の言葉です。アブラハムが神から召し出されたときのことが、創世記12章1‐4節に物語られていますが、アブラハムが神から信仰へと召されたのは、75歳のときであったといわれています。その少し前の11章30節を見ますと、アブラハムの妻サライは「不妊の女」であったといわれています。この二つの事実は、アブラハムに与えられる約束は、約束が与えられる時点で、人間の側ではそれが実現する必要な条件が全く整っていない不可能な状況であることが示しています。その中で、アブラハムに与えられた神の約束は、「あなたを大いなる国民にする」というものです。アブラハムはこの約束を、信じて、それを約束する神に自分の存在をすべて委ねて生きるか、そんなことはありえないといって、聞かないで自分でその人生をそれなりに生きるか、どちらを選択するか信仰の決断が求められたのであります。アブラハムはこの約束する神を、不可能を可能にする全能の神と信じ、「あなたを大いなる国民にする」という約束には、自分の子孫を多く増し加えられるという意味を含むものと信じて、父の家を離れて、「わたしが示す地へ行きなさい」という命令に従って旅立った、そのようなことが創世記12章1-4節の物語には語られています。それだけではありません。アブラハムにあたえられた約束には彼の血のつながりのある子孫だけでなく、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と述べられていますので、彼の信仰のあり方は、彼とその子孫だけの問題ではなく、「地上の氏族すべて」を含む共通した信仰の問題であることが述べられています。7節のパウロの言葉は、まさに創世記12章3節の言葉を前提にして語られています。
しかし、神の約束にもかかわらず、アブラハムに対する約束は一向に成就する気配が見られません。信仰というのは、神の約束を信じるということを内容としている限り、信じるという行為は、実に単純です。しかし、神の約束がなかなか実現せず、子供がなかなか与えられない状態が長く続きますと、その信仰はぐらぐらゆらいできます。創世記15章の物語は、そのようなアブラハムの信仰の揺らぎ、心の揺らぎを示しています。神の約束は絶対だと信じて、何もかも捨てて神の示す地を目指して歩みだしたのですが、神はどのようにしてその約束を実現してくださるのだろうかと、日がたつにつれて不安が募り、やがてそれは、恐れへと変わっていきます。聖書に記されている信仰の問題として、「恐れ」という言葉は、しばしば、神への信仰の欠如を言い表さす言葉として用いられます。ガリラヤ湖の嵐の中で、弟子たちが恐れた行為は、信仰の薄き行為として非難されていますように(マタイ8:26、マルコ4:40,ルカ8:25)、創世記15章のアブラハムの恐れもまた、そのような信仰の問題として語られています。だから「恐れるな、アブラハムよ。」(創世記15:1)という主の言葉は、「信じなさい、アブラハムよ。」という主の呼びかけでもあります。ますます神の約束が実現しそうにない状況へ向かう中で、それでも恐れず、信じ続けなさいという呼びかけがここにあります。
しかしこの神の呼びかけにもかかわらず、ここでアブラハムが示した応答は、変わらない現状に対する神への抗議と、その現状を自ら変え、自らの力で神の約束を得ようとする道であり、それ以外にないという判断でありました。
アブラハムは主に向かってこういっています。
「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」
これに対する主の答は、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」というものです。
神の約束を聞く人間の心は、それがすぐに実現しないと、揺らぎ、不安になり、本当にこれで大丈夫だろうかと恐れを抱くようになります。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムでさえ、そのような弱さをしばしば示しています。パウロは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と創世記15章6節の言葉を引用していますが、アブラハムの信仰というのは、全くどの様なときも揺らぎを示さない、確固不動のものであったわけでない、というのがむしろ聖書が実際に明らかにしていることです。わたしたちの信仰は、実際には絶えず風に揺らぐ葦のような弱さを持っています。人間の現実の可能性をいつも見ながら、神の約束を自分なりに計算している、それを知らず知らずのうちにしてしまっている現実がいつもつきまとうものです。そのように弱い存在であるからこそ、わたしたちはいつも神の語りかける声を聞く必要があるのです。神の声を聞き続けないと神の約束を信じて生きる、という恩恵の道を踏み外してしまう弱さをわたしたちは持っています。主は心惑うアブラハムに夜空を見上げさせ、満天に輝く星空を見せ、その星を数えることができるなら、数えてみよ、と語りかけています。そこに輝く数え切れない星たちは神の創造された存在です。神はそのかなたにありそれ以上大きく偉大な方です。その神が、アブラハムにはその星の数を数え切れないことを承知の上で、そう呼びかけておられるのです。そして、「あなたの子孫はこのようになる。」という約束を神は与えられるのです。
聖歌の中に「数えてみよ、主の恵み」という歌詞のある歌がありますが、数え切れないほど豊かな恵み、子孫を増し加えるという主の約束を聞き、人間的な手段を講じて、自己満足する救いを得ようとしたアブラハムは主の前に恥じ入る思いであったのではないでしょうか。人間の小さい理解で主の恵みを捉えようとしても、それは捉えきることのできないほど大きなものです。
そしてそれがどの様に実現するか私たちの目にはいつも隠されていて、捉えることはできません。人間の目には見えませんが、それを約束する神の確かさを信じるところに信仰のあるべき姿があります。アブラハムはその途上においては、多くの疑いや弱さを示しましたが、最後には、神の約束の言葉に耳を傾け、神の約束する恵み、祝福の受け取り手となっています。この信仰による神の約束する恵みを受け取る道こそ、人が神の前に正しいとされる道であることを、聖書はアブラハムの信仰を通して明らかにしています。これはユダヤ人だけでなく、異邦人も含めて信仰のあるべき方として示されていることを、ガラテヤ書3章7節において、「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である」と、パウロは語っているのであります。
今日の御言葉の主題を「信仰こそ人生の基」としましたが、実は7節の「信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子である」という題にすべきかどうか考えた末での題です。7節の言葉を元にすると、教会に来てすでに何度も説教を聞いている人にはわかりやすいのですが、未信者の人には、わかりにくい、自分とのかかわりのない説教がなされていると判断されやすいのです。だからこのような題を選んだ、という面もありますが、それ以上の意味もこの題によって伝えたいという祈りもありました。
それは、聖書でいう信仰というのは、神と、その言葉、神の約束に対するものです。神の約束の中心は、イエス・キリストにある救いであります。それは、神が与えてくださる救いに生きる道であり、神に生かされるゆるぎない人生を意味します。イエス・キリストと結びつく信仰には確かな命が約束されています。その意味で、イエス・キリストに結びつく信仰こそ人生のゆるぎない土台、基になれるです。そのことを、主イエスのことを知らないで生きている多くの人にも知ってもらいたいという祈りがこの題を選ばせさせたのす。
ですから信仰といっても、わたしはこう信じるというものではありません。あくまでも神が示される恵みの手段を信じるということであります。イエス・キリストを通して約束される神の救いを信じることであります。信じるということは、その恵みに自分を委ねるということであります。アブラハムが約束する神の恵み信じた、ということは、その恵みに人生を委ねたということであります。神の約束を信じる信仰を、神は人生の基としてくださるのです。その土台と結びついて、信仰の家がたちます。その土台はどこまでもイエス・キリストです。イエスを土台とする生き方は、わたしたちの人生を希望あるものに変え、永遠の命の喜びで満たす、そのようなものに変えます。かつて、私たちの教会で特別伝道集会の説教をされたある先生は、水を飲まなければ、のどの渇きはいえず、そのすばらしい味わいを知ることができないと言われましたが、わたくしは、信仰というのは神の恵みの中に身をゆだねて実際生きなければそれを知ることができない、ということを申し上げたく思います。
それはちょうど水泳をするようなものです。水に体を委ねないと、体は浮きませんし、泳ぐことができません。そして泳ぐことができるためには、水の中で、思いっきり息を吐き出す必要があります。そうしないと、水中では呼吸できません。息をしたくても、吐き出さないと空気を吸うことはできません。神に向かって息を吐くとは、自己否定です。自己の力でなく、神の力、神の恵みに身を委ねるには、自分の力で息を吸い、生きようとする、そういう生き方を捨てることです。そして、自己で生きるという呼吸法をやめ、吐き出すと、神の恵み、喜びの力が私たちの心を満たすことになります。キリストの御霊がわたしたちの中に生きるからです。パウロがわたしたちに与らせたいと祈り願うのは、この信仰の道であります。
新約聖書講解
- コリントの信徒への手紙講解
- 序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質
- 1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
- 2.コリントの信徒への手紙第一1章4-9節 『キリストにある豊かさ』
- 3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』
- 4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』
- 5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』
- 6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』
- 7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』
- 8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』
- 9.コリントの信徒への手紙一3章10-15節『この土台の上に』
- 10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』
- 11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』
- 12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』
- 13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』
- 14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』
- 15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』
- 16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』
- 17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』
- 18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』
- 19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』
- 20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』
- 21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』
- 22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』
- 23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』
- 24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』
- 25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
- 26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』
- 27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』
- 28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』
- 29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』
- 30.コリントの信徒への手紙一14章26-40節『共に学び共に励ます』
- 31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』
- 32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』
- 33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』
- 34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』
- 35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』
- 36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』
- 37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』
- 38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』
- 39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』
- 40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』
- 41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』
- 42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』
- 43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』
- 44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』
- 45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』
- 46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』
- 47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』
- 48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』
- 49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』
- 50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』
- 51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』
- 52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』
- 53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』
- ガラテヤの信徒への手紙講解
- 1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』
- 2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』
- 3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』
- 4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』
- 5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』
- 6.ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節『神が讃美される人間の革新』
- 7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』
- 8.ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節『福音の真理に生きる』
- 9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』
- 10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』
- 11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』
- 12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』
- 13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
- 14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
- 15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
- 16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』
- 17.ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節『キリストが形づくられるまで』
- 18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』
- 19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』
- 20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』
- 21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』