ガラテヤの信徒への手紙講解

12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』

わたしたちの人生は、多くのことに心を動かされ、惑いの中で生きています。聖書を開き最初のページから読み進んでいきますと。創世記の2章に人間の創造のことが書かれています。エデンの園における人間、アダムとエバは、互いが裸であったが恥ずかしいとも思わないで生きていた姿が描かれています。人が一人でいるのはよくないと神は考え、彼に合う助けるものとして、動物たちを与えますが、人は自分に会うふさわしい助ける者が得られなかったので、女が与えられたと書かれています。このようにして与えられた女を、「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」といって喜んだ姿が記されています。

神が最初に人間に語った言葉は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という言葉です。この言葉が意味しているのは、神が造られた世界の中で、すべての地の実りあるものから食べて生きる自由を享受する者となれという積極的な生き方です。そこには何の惑いもない、神の祝福に生きる自由が語られています。しかし一つのことが禁じられています。園の中央にあるたった一つの木からはとって食べてはならない。それを食べると必ず死んでしまう。という禁止命令が語られています。この実に単純な短い言葉の中に込められている大切なことは、人は、命を与えた神の言葉に聞いて生きるとき、その命を喜びの中で全うして、死を知らずに永遠に生きるものとなるというすばらしい約束です。

しかし、3章まで読み進みますと、蛇に誘惑される人間の姿が描かれています。誘惑者となった蛇の言葉は、神の言葉の意味をトーンダウンさせ、それを歪曲し、神が過酷な要求をしたかのように、人の心を惑わします。そして、ついに、その誘惑に負けて罪を犯した人間、アダムとエバは神の足音をおびえ、身を隠し、その誘惑に乗った責任を、他に転嫁する醜い姿に変わってしまっている、そういう現実が記されています。これは、遠い過去の人間のことではなく、神の言葉とそこからそらす惑わしの言葉の間で葛藤して生きる、現実のわたしたち人間の姿として描かれているのであります。

それは、神との親密な交わりに生きていた人間に語られている言葉です。神の言葉を神の言葉として聞く、そこに人間の目で見てよいかどうか、そのような判断をさしはさまないで、ただ神が約束し、語られるとおりに聞く、それが、聖書が語る信仰の問題として一番大切な点であることが、この人間の創造物語の中で語られていることであります。

パウロは、ガラテヤの信徒たちに情熱を込め、命をかけて語ってきたのは、イエス・キリストの十字架についての説教です。それは、わたしたちのために死なれたキリストに関するものです。それは、すべての人を分け隔てせず、ただ恵みによって救うための神の業でありました。それには、人間は何もしなくてもよい、ただ神の恵みに感謝して、それを信じる、十字架の福音を信じて、キリストに委ねていくだけでよい、パウロはそのようにガラテヤ人に語ってきたのであります。

そうであるのに、彼らのところにやってきた人たちが、人が救われるためには、割礼が必要だということを言い出し、彼らの信仰を揺さぶり、惑わすようになったのです。キリストの救いに与るためにそのようなものが一切必要ないことをパウロはこれまできっぱりと語ってきたのであります。

そして、ここでパウロは感極まったように、「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。」という言葉で、その激しい言葉で語りだしているのです。もし、教会の牧師が自分の教会の信徒にこんなことを言い出したら大変なことになります。それは昔も今も変わらない、そう思います。パウロは、ガラテヤの信徒たちが、理解力が乏しい頭の悪い人間であると思ったからこんなことを言ったのでしょうか。そうではないでしょう。知性や理解力が乏しいことがわたしたちのキリストへの信仰を難しくするというのであれば、話はもっと簡単かもしれません。むしろ、信仰というのは、本当は非常に単純な問題であるのに、神が私たちにしてくださる救いを信じるということは非常に単純な問題であるはずなのに、あれも必要、これも必要と人間が勝手に考えて、複雑にしたがる、頭のよい人の陥る「物分りの悪さ」ということが、むしろここで問題になっているのであります。

わたしたちの信仰の惑いというのは、いつもそういうところから入ってくるのです。ではなぜ、わたしたちの信仰はそのように惑わされることになるのか、その原因も実は、非常にはっきりしています。パウロは、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。」という言葉で、その原因を知ることへ注意を促しています。ここの原文の意味は、「公に描き出す」ということです。それは絵に描いて描くということではなく、プラカードに字を書いて、公に掲げて歩くという意味です。パウロは、十字架の福音をこっそり秘密の集会で語ったのではなく、はっきりと十字架の血が滴り落ちるように、神の恵みによる救いを語ってきたというのです。それは、キリストを指し示す説教のわざとして行われたということであります。いつも心に十字架の言葉を刻みつけていれば、私たちは、教会生活をそれだけで十分喜んですることができるのであります。教会はいつも喜びに満ち、十字架の福音に心をひとつにして聞く教会は、いつも一致があり、平和があるのであります。

教会においては、キリストの十字架の福音以外何もなくても、不自由に感じるものはない。神の恵みの力、その手段を大切にするとき、人間の何かが問題になることが教会では起こりえないのです。しかし、律法主義というのは、これがないとだめだ、といって人を裁くのです。裁き合って、福音から人間を遠ざけ、教会の交わりを分断していくことになるのです。悲しいことですが、その信仰さえ、わたしたちは人間の知恵で、福音本来の言葉を塞ぎ、自分流の信仰のようなものに変えてしまうことがあります。

パウロはそこで、「あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」といって、わたしたちの信仰のあり方について、どこによって立つべきか、確認を求めています。

キリストの福音を聞き、信じるようになるのには、聖霊の導きが必要です。カルヴァンは、あの人類の最初の殺人者になったカインは彼に刑罰を通告した神を百回も信じたけれども、それは彼が義を得ることにはなんら役立たなかった、といっています。信仰というのは、神の真理について人間が持ちうる確信ではない、信仰というのは、人間が身をゆだねて、そこに休らい憩いうる神の言葉に呼応し関連することだとカルヴァンは述べているのであります。

「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。」という3節の言葉は、信仰というのは、神の恵みに委ねることを学んだはずなのに、パウロは確かにそのことだけを語ったのです。聖霊の導きに委ね、十字架にかけられて死なれたキリストを見上げ、復活されたキリストがわたしを死の力から救い命を与えて生かしてくださっているという現実を固く信じ、その恵みの力が聖霊によっていつも豊かに与えられていることを喜ぶ、そういう生き方を学んだはずです。肉によって仕上げる、生き方というのは、人間の力で、人間の思いで、その信仰を自分なりに変えてしまうことです。そこに律法主義が顔を出すきっかけを与えることになります。

そこからわたしたちの信仰は、だんだん歪んでくるのです。恵みにゆだねる信仰というのは、本当に楽で自由で喜び大いに平安に満ちたものであるのに、反対に、律法でがんじがらめに縛る信仰というのはしんどくて苦しいものであるのに、人はなぜ律法主義に突き進むのか、それは結局自分で救いの確証を得ようとするからです。十字架のキリストを掲げて生きないからです。キリストを掲げて生きるということは、パウロが2章19,20節で述べているように、キリストと共に死に、内にキリストが生きる、キリストの恵みに突き動かされて生きる、そういう信仰を忘れてしまうからです。

勿論わたしたちをキリストの恵みから目をそらす問題は、ほかにもあります。この世における様々な戦いがあります。世の有様、世の原理というのは、キリストにしばしば敵対します。そこでキリスト者がうまく生きようとすると、キリストの十字架に委ねる生き方から遠ざかり、二元的に考えて福音に生きない生き方をして惑わされていく問題を、主イエスは、種まきのたとえ(マタイ13:18-23、マルコ4:13-20、ルカ8:11-15)で明らかにしておられるのであります。

惑わされない生き方というのは、結局のところ、キリストにある赦し、その十字架の赦しをいつも見つめていないとできません。神にそむいて生きているわたしの罪は、あのキリストの十字架においてわたしは死んだことを知り、そういう意味で十字架をいつも背負って生きる必要があるのでありす。しかし、そのわたし自身はキリストに救われ赦され、すべてのものから自由にされている、キリストにあるわたしは何者にも惑わされない自由と尽きない永遠の命が約束されているという平安が与えられているのであります。世にあるものは失われますが、キリストに結びついている命は失われないのです。福音を聞いて信じるということは、そういう命の確かさ、神の恵みを覚えていつも、繰り返し覚えて生き続けるということであります。「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。」とパウロが問うているのは、そういう生き方の根本問題であります。

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