コリントの信徒への手紙講解

50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』

パウロは、自分に委ねられている神の言葉を「和解の福音」として語っています。この言葉に自分がどう生かされ、どう受けとめて生きているかを語った上で、使徒の語る「和解の福音」を、受け入れるべきことを、その福音を聞く人々に向かって語っているのであります。

5章14節の原文に忠実な訳は、「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が迫ってくる」であると、前回述べました。パウロはキリストの十字架の言葉をその様に受けとめる信仰の大切さを語り、使徒である以前に、自分自身が語るべき福音に如何に生かされているかを語っています。その委ねられた言葉を、自分自身が心から信じ、その言葉に全存在を委ねて、その言葉の力に自ら生かされている存在であることを深く受けとめている人間が、使徒に値する人間であることをパウロは語るのです。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである、と判断するわたしたちに、キリストの愛が迫ってくる」と語るパウロは、毎日、キリストの愛に包まれて生きているのです。昨日も、今日も、そして、永遠に変わることのない方、キリストが、わたしのために死んで復活し、今、わたしの生きている場所で、その命に与らせようという変わりない愛を持って迫ってくるのを、ジーンと心に感じて信仰をもって受け止めて立っている、人間パウロがそこにいます。もし人が、自分と同じ判断に立つなら、みんな自分と同じ信仰に立ち、同じ思いに支配されるはずであると、パウロは語るのです。

信仰の言葉というのは、それを体験し、その言葉に日々生かされている人によって伝えられるものです。福音は生きています。ですから、福音は知識ではありません。パウロはイエス・キリストにおける和解の出来事を、人生を一新する出来事として語っているのであります。

神の罪に対する敵意、怒りと呪いがキリストの十字架において取り除かれ、神の義がキリストを通してもたらされ、和解の言葉が神の恵みとして、わたしたちに与えられていると、パウロは語っているのであります。罪ある人間を、神が一方的に愛してくださり、この和解の福音に与らせようと欲しておられるのです。

神との和解は、イエス・キリストの十字架を通し、神の恵みとして実現しています。だからパウロは、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(1節)と語ります。

和解が実現した現在は、「恵みの時」であり、「救いの日」です。神の救いは、遠い将来に与えられる約束としてのみあるのでありません。現在既に実現しているのです。だからパウロは、イザヤ書49章8節を引用して、イエス・キリストにあって和解が実現した今こそ、「救いの日」であると語るのです。

この喜ばしい告知を持って、パウロは和解の福音の務めを担う者の現在の働きの姿を、4-10節にかけて語っています。

第一に、使徒の奉仕的な務めが忍耐をもってなされるべき事が語られています。パウロは、自分の救いに働いた神の忍耐の大きさに心を向けています。キリストの和解のつとめは、わたしたちの救いのための奉仕であり、忍耐でありました。使徒のつとめは、この和解の言葉を委ねられた者として、「奉仕のつとめが非難されないよう」心がけ、「どんなことにも人に罪の機会を与えない」よう細心の注意を払って、「あらゆる場合に神に仕える者としてその実(じつ)を示しています」とパウロは語っております。

御言葉の宣教に携わらせられている者は、「神に仕える者としての実」が伴っていなければ、その宣教を真実なものとすることはできません。パウロはそう語っているのです。本当にドキッとする言葉です。御言葉に仕える者として、自分にそんなふさわしい実質があるか、と思わず胸に手を当てて考え込まざるを得ない言葉がここにあります。「あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています」といえる牧師となれるよう努力を惜しみなくしているか、牧師として立っているものに告げられています。

大会の教師試験に合格し、教師任職されることによって、教会的にその人が御言葉の教師である事が外的に召命されます。しかし、その人がそれによって、その日から、ふさわしい御言葉の教師になるのではありません。そう呼ばれるにふさわしい神に仕える者としての実を示す生き方、研鑚が、その日から始まるに過ぎません。

パウロは、使徒の奉仕的つとめが忍耐の要することであると、4-5節において九つの項目を挙げて語っています。ここに見られる困難は、今日そのままの形で、御言葉に仕える者に襲ってくるわけでありません。

「欠乏、行き詰まり」は、教会の問題として起こる事もありますが、本人の問題として感じさせられる事が多くあります。十分聖書の学びをし、神学の研鑽に励み、御言葉を取り次ぐ者としてのふさわしい器に整える努力の足りない事を、本当に強く感じさせられます。自らが欠乏していて本当に神の慰めを語る事ができるのか、その内なる欠乏に気づかないなら、その伝道者は愚かであると思います。パウロは物質的・外的な欠乏の事をいっていますが、御言葉に仕える者としての内的な欠乏の事を、同時に意識しながら語っているはずです。

「行き詰まり」は、いろんな形で襲ってきます。社会的状況の変化、教会的状況の変化などによってもたらされる事もありますが、神の召しと働きについての信仰が成熟していないと、それを克服する事は難しくなります。このデリケートな問題を手短に話す事は出来ませんが、伝道者が味わう「不眠」の原因の多くは、行き詰まりの問題と深く結びついています。

これら一切のことに、パウロは、「大いなる忍耐をもって」、取り組む事の大切さを語っています。6節で最初に上げられている徳目は、「純真、知識、寛容、親切」の四つです。これらは特に人間として心がけるべき課題です。

しかし、後の、「聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力」という徳目は、神から与えられるものです。ここでは、人間の努力としての誠実な四つの態度と、神から来る力への委ねの信仰の大切さが強調されています。あらゆる困難や行き詰まりを真に克服する力は、神から来る力によってのみ与えられます。

御言葉に仕える者が、そのつとめをまっとうしうるのは、委ねられた「真理の言葉」にどれだけ忠実であるかにかかっています。真理の言葉に表される「神の力」に己を委ね、信じ、そこに自分の全存在をかけていく以外にない、とパウロは言っているのであります。和解の言葉に生きるということは、己に死に神に生き、人の救いのために生きられたキリストに学ぶという事です。キリストのこの生き方こそ、神に義と認められる生き方です。

パウロは、7節で「左右の手に義の武器を持ち」といっていますが、神の義であるキリストの和解の福音に己を委ねる生き方こそ、使徒の武器でありました。キリストの十字架への道は、キリストに救いを期待する者に、その期待をまるで裏切るような死への道に見えました。キリストの弟子たちも、多くの人も躓きました。しかし、この十字架への道こそ、「すべての人のために死ぬ」キリストの誠実さを示す出来事でありました。十字架の福音、和解の言葉に仕える使徒も同じく、福音に自分を委ねて、すべてを耐える忍耐が求められます。その委ねに生きる信仰が、人の目に、不誠実であり、弱さと映る事があります。しかし、その生き方こそ、神の前に誠実であり、信実に生きる信仰です。その信仰は、悲しんでいるようで、常に喜ぶ事のできる信仰です。その信仰に生きる者の貧しさこそ、多くの人を富ませ、無一物のようでいて、すべてのものを所有している、とパウロは語るのです。

パウロがどんな境遇にも処する事ができるのは、ただ一つの理由によります。それは、「真理の言葉、神の力」に対するゆるぎない信仰を持ち、「真理の言葉、神の力」へ委ねて生き切ることにおいてのみ、使徒の務めが全うされる事をパウロは知っていたからです。

知るとは、信じているものに己を委ねて生きる事です。「真理の言葉、神の力」だけが、悲しみの中にあっても常に喜びに生きる人に変えることができます。貧しい人を本当に豊かに富ませることができます。すべてのものを所有させます。「真理の言葉、神の力」とは、和解の福音です。キリストの十字架と復活の言葉です。この言葉に表されている内容を、信仰において深く捉えている人、その言葉を本当に信じて生きる人は、体も魂もキリストと結ばれて新しくされている事を知っていますから、どんな試練にも耐える事ができるのです。

ただ使命のために忍耐せよという言葉だけでは、人は立ちあがらせる事が出来ません。しかし、福音の力、神の力による忍耐は人を立ちあがらせます。なぜなら、福音は、イエス・キリストがすべての人のために死に、彼を信じるすべての人が彼の十字架と共に死んだが、キリストは三日目に復活し、彼を信じる者をその復活に与らせるという内容であるからです。この福音が語られ聞かれるところで神の力が現れるのです。現在、どんな困難にぶつかっていようとも、福音に生きる者は、「人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有してい」る存在とされているのです。

この福音の力、神の力に心を開く、そこにわたしたちを確かにする命の道があるのです。

新約聖書講解