コリントの信徒への手紙講解

28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』

コリントの信徒への手紙一13章は、「愛の賛歌」であると評される有名な箇所です。前回、「愛がなければ」という題で1-7節までの講解をしました。今回は、8―13節までを取り扱います。

パウロが愛について語る時、彼がはっきりと意識しているのは、十字架のキリストです。その意味で、7節の言葉は、1章18節以下と強い結びつきをもっています。キリスト者の愛は、神がご自身を渡し、献げられたことを覚えて生きる時に、初めてその真実を知ることができるものであります。そのことは、ローマ書5章8節でもはっきり言われています。いま、キリストの十字架の愛が聖霊を通して、私たちの心に注がれ、働いています。誰かある特定の人というのでなく、「わたしたちの心に注がれている」、みんなに与えられている、とパウロは述べているのであります。

パウロは、「愛は決して滅びない」と語っています。愛の本質が永遠であることを語ります。愛は人々の生命や時間を超えて本当に存続できるものなのでしょうか。人間の愛は、愛をもって生きる人が生きている間だけ存続することができるけれども、その人が死ねばその愛も終ります。

しかし、ここで言われる愛はそのような意味で「滅びない」といわれているのではありません。13節に「いつまでも残る」ものとして、「信仰、希望、愛」の三つが挙げられています。13章は預言、異言、知識という霊の賜物と比較して愛の賜物の卓越したことを語っています。8節からの段落も愛は滅びないが、預言、異言、知識のいずれも「廃れる」と語られています。

パウロは、その理由として、「知識も預言も一部分」で、部分的なものは完全なものが来た時に廃れる、不要となるから廃れるといいます。それは、丁度幼子が大人となった時、その幼児性を棄てるように、それらの賜物は成人になるまでの養育係のような役割を担うものとして語られています。

これらは神の啓示にかかわるものですが、その神の啓示は一部分でしかなく、神のすべてを示し、すべてと関わることを許しているわけでないことを示すために、12節では、パウロは「鏡」にたとえて語っています。

当時、コリントは鏡製造の中心地として知られていました。しかし、当時の鏡というのは青銅などを磨いたもので、必ずしも表面が滑らかでなく、その映し出す像は今日の鏡と比べて不完全で鮮明ではありませんでした。「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」というパウロの言葉は、人々が互いの顔を合わせて見る像との違いをはっきりと意識させるものでありました。預言や知識がどんなに優れていても、神を「顔と顔を合わせて見ている」のとは違います。それは、「おぼろに映す鏡」の役割に留まります。だからといって、パウロはその価値を軽んじていないことは、14章の議論を見ればわかります。

「だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」とパウロはいいます。「そのとき」とは、キリストの再臨によってもたらされる終末の時です。その時、世が裁かれ、キリストにある新しい世が到来します。古き世に属する、その時代に与えられたもの、その時代に教会に必要とされた預言や知識は不要となります。なぜなら、それらが指し示していた、来るべき方が到来し、そこで待ち望まれていた、この方によってもたらされると約束された、新しき世が完全な姿を現して到来するからです。このお方と「顔と顔とを合わせて見る」そういう素晴らしい完全な姿で生きることを許されるからです。

そして、「わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる」とパウロは語っております。パウロはここで現在のわたしたちの神知識が「一部」でしかないことを明らかにしますが、今あるわたしたちに対する神の知識が一部であるとはいっていません。「はっきり知られているように」と言っています。「その時には、はっきり知られているようにはっきり知るようになる」、といわれています。はっきりとは、「完全に」ということです。神はいまもわたしたち人間に対して完全な知識を持っておられます。わたしたちの罪も、わたしたちの悲惨さも、わたしたちの愛に飢えている姿も完全に知っておられます。しかし、その愛に満ちた神をわたしたちは、いまは、「完全には」知らないのです。

しかし、パウロはここで神を知る本当の正しい道「最高の道」を指し示します。それは、「はっきり知られているようにはっきり知る」そういう認識の道であります。神を知るとは、神に知られていることを知ることです。神に愛されていることを知ることです。それが、神を知らなかった時に考えた、神を知ることと、今神を知ってはじめて理解できた、神を知ることとの一番大きな相違であります。

そして、神を知るとは、イエス・キリストにおいて知ることであります。キリストにおいて神を知るとは、キリストによって救われることであります。キリストによって救われるとは、神に愛せられていることを知ることであります。信仰とは、キリストを愛し、キリストにおいてわたしたちを愛して下さる神の愛を信じることです。だから十字架によって救われることなしに、愛を行うことを考えられないし、できないのです。

愛の賜物を、預言、異言、知識との比較の中で、「決して廃れない」唯一のものとして語ればそれで終りそうなところを、パウロは「いつまでも残る」ものとして、愛以外に信仰と希望を語っている、このことは非常に重要な意味があります。パウロはいつもこの三つを同時に語るわけでありません。あるときはその二つだけを語るということをしていますが、パウロの意識の中でこの三つは切り離すことのできない一対として常にあります。しかし、「その中でもっとも大いなるものは、愛である」とパウロはいいます。この永遠に残るものとしての信仰と希望に愛がどのようにかかわり、どの様にそれらを超えているとパウロはいうのでしょうか。

愛は神の本質であるからです。その主体は、人間ではなく、人間がどうにかできる何かでなく、神の不変の意思そのものだからであります。神の人間に向ける不変の意思と態度がそこにあるからです。永遠に注がれるキリストをとおしての愛、それが人間に与えられる、その愛を受けるのはただ信仰のみであります。この愛を信じこの愛の神を希望とする人間だけが、この愛を本当に知ることができるからであります。信仰と希望、この二つの人間の応答の態度だけが、神の永遠の命の受け皿となりうるのです。そして、この応答は永遠の命の交わりの中にあっても、変わりなく求められているものとして、永遠に存続するものとして永遠であるといわれているのであります。

しかし、それにもまして「その中で最も大いなるものは、愛である」といわれるゆえんは、それが神の本質であるからであります。この最高の道としての愛、これを忘れた賜物の理解も論議も不毛に終ることをパウロは述べようとしているのです。「愛は、すべてを完成させる(完全に結ぶ)きずな(帯)です。」(コロサイ3:14)
愛はそのようなものとして滅びないのです。

新約聖書講解