コリントの信徒への手紙講解

27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』

コリントの信徒への手紙一13章は、「愛の賛歌」であると評される有名な箇所です。この章は、キリスト者なら知らない人は一人もないほど有名な箇所です。

しかし、ここに書かれている意味を正しく理解している人は、多くありません。パウロは12章において「霊の賜物」について語りました。それは、キリストの体なる教会を建て上げるためになくてならないものとして語られています。12章31節において、パウロは、「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と命じ、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と語っています。「愛」は、「霊の賜物」と関連して、それらの賜物が本当に生かされ完全となるための「最高の道」として示されています。

そして、14章において、再び預言と異言の賜物についての議論に戻っています。このように13章の「愛」に関する教えは、霊の賜物を語る12章と14章の間で語られています。この枠組みの中で教会生活における「愛」が語られています。人間の世における愛を目的として語られているわけではありません。教会を建て、信仰と救いを完成させる終末的な賜物として語られています。その点で、15章との関係で議論のあることは有名です。愛についてのパウロの議論が15章と無関係でないことを覚えることが大切です。

先ず、ここでの愛が、「もっと大きな賜物」「最高の道」として語られていることに注目しましょう。愛が神の賜物であるなら、この愛は人間の愛と異なります。わたしたちの愛の起源は神にあり、人間の自由にできるものではありません。そして、決して人間の持つイメージで愛を語ることはできません。

パウロはそのことを強く意識して書いています。愛は「もっとも大きな賜物」として、異言や預言や知識の賜物と同じように並べられていません。そうした賜物をいくら豊かに与えられていたとしても愛がなければ、それらは本来の働きを果たし得ない、愛と結ばれてはじめて意味を持つことが語られています。しかし、その愛は人間の場合ならこれ以上の形で現せないと思われる最高の善、最大の自己犠牲の行為である愛と呼ばれるものを愛とはみなさないで述べられています。全財産を貧しい者に与える行為と他の人のために自分の命を死に引渡す行為すら、ここでは愛とみなされていません。それらの行為においても「愛がない」場合があると言われています。「人のために」と「誇ろうとして」という語でそれが語られています。「誇ろうとして」は、「焼かれるために」という写本もありますが、それは後世のもので、新共同訳は古い信頼できる写本によっています。パウロの時代以後、火刑に処せられて殉教する者が現れたため、ここをそのように書き換えられるようになったのだと思われます。

いずれにせよ、人のためになす親切、善意、それを私たちは愛と勘違いしやすい。しかし、パウロはそれを愛であるとはいっていません。愛とは人の親切や親しさ、そういうレベルで決して語れない何かであることをパウロは語ろうとしているのです。「全財産を貧しい人のために使い尽くそうとも、焼かれるためにわが身を死に引渡そうとも」、それは愛でない、と言うのであります。

1-3節の主語は「わたし」です。パウロが主体的に優れた賜物を用い、そのように行動しても、そこに愛がなければ、「わたしに何の益もない」とパウロはいうのです。

普通、人間ならそれが最高の愛であると思われる貧しい者への全財産を投げ打っての施し、他者の犠牲になる死、これを愛と呼ばないのは、何故だろうと疑問に感じる人は多いと思います。しかし、「わたし」がそれを愛と思うその時、それは愛でなくなる、愛は人の思いで自由にできるものではないからです。愛は賜物です。愛は賜物である限り、その行使に当たって、人の思い意思が重要なのでなく、神の意志が重要なのです。「わたし」という人間がこうすべきだ、という人間の側の主体的な判断と意思が重要なのではなく、神の意志と判断に人間の判断が服していく、つまりそこで重要なのはどこまでもそれを神の愛として受け止め、それが重んじられているかと言うことなのです。愛の主体は、どこまでも愛それ自体であり、賜物として与える神以外にないのです。人間は、その神の愛に服す、その時にはじめて本当の愛を実現する媒体になりうる存在でしかないことを知るべきなのです。

そのことをさらに明らかにするのは4-7節です。

この短い四つの節のなかに15の動詞が用いられています。このことは、愛は行為であり、その行為は愛の働きであることを示しています。愛は、キリスト者の中に忍耐強さ、情け深さ、謙遜さ、礼儀正しさ、無私で、怒らず、正義を求める態度を造り上げるものとして語られています。そして何より注目すべきことは、これらの文章における主語は、人間ではなく、愛です。どこまでも人間の中で主体となって働く愛です。パウロが「もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と命じたのは、この愛のことです。

人間が主体ではなく、愛が主体となって働く、そのことを求めるということは一体どういうことでしょう。パウロは「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と語りますが、その後、八つの否定形が続き、愛の性質が語られています。注意深く見ますと、これらの愛の性質は人間の通俗的な愛と性質を異にしています。

人間の愛はしばしば、ねたみと背中合わせですし、親しさと背中合わせのように無作法を許す性格を帯びます。不正にも目をつぶるのが愛であるかのように言われます。しかし、パウロは、愛は礼を尽くし、「不義を喜ばず、真実を喜ぶ」と言っております。愛は正義を曖昧にして人を甘やかすことをしない、ときっぱり言っています。私たちの愛の通俗的な理解では、愛が甘えと取り違えられ、福音の与える愛とは全く異なる歪んだ愛が教会の中でまかり通る現実がしばしば見られることに、パウロは注意を喚起しています。それが愛という理由づけで、不義不正を許し、真理を愛し求め真理を生かすために戦うことのできない教会は、本当の愛に生きているとはいえません。ここでの真実とは、どこまでも神の意志にほかなりません。神の真実、その意思を遂行しようとする、そこにこそ本当の愛の姿があります。

しかし、それでも「愛は忍耐強い。愛は情け深い」と語られ、7節で再び、「すべてを忍び」といわれています。この場合の「すべて」とは、人間の敵の悪意に耐え、不義を耐えることでしょうか。しかも、そういう人がやがては善意を示すようになるから、「信じ、希望を持って、耐えよう」ということでしょうか。しかし、そのようなことは、ここでは全然問題になっていません。7節において示され目指されている愛の積極的・肯定的な面は、13節に繋がっていきます。7節は、その伏線として語られている言葉であります。パウロは、「愛は信仰と希望をあふれるばかりに持っている」ということを言おうとしているのです。神の賜物としての愛の本質は、必ず希望と信仰に結びつくものであり、その目的の中で「耐える」といっているのであります。ですから、自然的な人間の本性、理性の中にある善を信じる、その目覚めの時を待つという意味で、「忍耐強い」といっているのではありません。愛は神の賜物ですから、その主体は神です。ですから、その神的主体としての愛が他者を愛し働くのを、同じ愛を頂いているキリスト者とされた者が見ることができるから、その人の上に働く神によって開かれている可能性を信じ、望みを置くことができる、という意味であります。だから、愛と信仰と希望、この三者は密接な関係があります。信仰と希望と切り離された愛は、甘えや不正義の温床になる、との警告がここにあるのではないでしょうか。

神の愛は「真実(正義)を喜び」ます。その愛において罪を裁きつつ、その兄弟を受け入れます。だから、キリスト者は自分の存在を通して神の愛が働くことを信じ望み、神の審きと救いを語ることができる、しかも忍耐強くできる存在にされている、とパウロはそのことを述べているのであります。

ここでパウロがはっきりと意識しているのは、十字架のキリストであります。その意味で、7節は1章18節以下とも深く結びついています。キリスト者の愛は、神がご自身を渡し、献げたもうことによって生きるものです。そのことは、ローマ書5章8節でもはっきり言われています。4-7節は、十字架のキリストを指し示しています。この愛はキリストです。しかもパウロはローマ5章5節で、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」と語っています。キリストの十字架の愛が聖霊を通して、私たちの心に注がれ、今も働いています。誰かある特定の人というのでなく、「わたしたちの心に注がれている」、みんなに与えられているのであります。だから、この愛が教会の「最高の道」、規範であることをパウロは語りきることができるのであります。

新約聖書講解