コリントの信徒への手紙講解
25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
パウロは、コリントにおける「霊の賜物」を巡る分争について聞き、そこから寄せられた質問に答える形で12-14章において、「霊的な賜物」との関連で聖霊の働きについて論じています。
聖霊のお働きに対する理解は、教会の健全な信仰を育てる上で重要な意味を持っています。だから、ここで示されているパウロの教えは大変重要です。
1節で、「霊的な賜物」と訳されているギリシャ語は、プニュウマティカで、中性名詞の複数形が用いられていますので、「霊の人々」とか「霊のこと」と訳すことができます。新共同訳がこれを「霊的な賜物」と訳したのは、これとほぼ同意語として用いられている4節の「賜物」との関係を重視してのことであると思われます。しかし、「賜物」のギリシャ語は「恵み」をあらわすカリスマの複数形カリスマタです。パウロはここでは、「聖霊」と「聖霊の賜物」とを区別しつつ、その関係を論じています。
つまり、それが聖霊の賜物であるかどうかを識別していく上で重要な、「賜物」と神であられる「聖霊」との区別と関係を正しく理解できないと、間違った神秘主義の考えや霊的な能力を主張する人々があらわれ、教会が大変混乱する危険があったからです。コリントでは、特別な「知識」の持ち主であることを誇り、自分は「霊的人間」であると誇るグノーシス主義者があらわれ、教会の一致を乱す分派を形成していました。
パウロは、コリントで陥っている混乱を解きほぐすために、「聖霊の賜物」識別する基準を示しています。聖霊の神の性質、働きの目指す方向、目的から、個々人に与えられている「賜物」の価値と意義を考える必要があるからです。この中心を押さえずに、個々の賜物のあるなし、その価値の優劣を論じるのは、混乱を招くだけの議論になります。
パウロは、「聖霊の賜物」の基準を示すに当たって、わたしたちが実際にキリストを信じる信仰に導かれる道筋を思い起こさせる議論から始めています。これは聖書の示すキリスト教信仰と異教宗教の信仰との違いを知る上で非常に重要です。
パウロは2節で、異教徒の信仰の特徴を「誘われるまま」という無自覚さを挙げています。これは他の宗教を信じている人には納得のいかない言い方かもしれませんが、キリスト教信仰の立場からは、やはりそのことは言えるでしょう。無自覚というのは信仰が無自覚というのではなく、自分が信仰している対象が何であるかを知るという意味で、異教徒の人は無自覚であるということです。元々神はこういうお方だという対象がはっきりと示されていない、だから人間が自分でこうではないかああではないかと勝手に考えて、神のイメージ自分で造り上げて、それを自分の神として拝む、そして「心」の平安を作り出そうとしている。それが異教宗教の本質であるといっていいでしょう。
だから、パウロは異教の神を「もの言えない偶像」と呼んでいます。この言い方は、パウロが初めてしたのではなく、詩編115編で偶像は人間の手で作ったもので「口があっても話せない」と言われていますし、エレミヤ書10章3-5節でも、木で作られた偶像が如何に金銀で飾られていても、「きゅうり畑のかかしのようで、口も利けない」と言われています。わたしたちがまことの神を知るまでの異教徒時代は、そういう神々のところに誘われるままに、無自覚に「連れて行かれた」とパウロはいうのであります。「連れて行く」は原文では「引き回す」という意味があります。自分で話すことも、歩くこともできない、人を助けることもできない、空しい神のもとに「引き回されていた」とパウロはいうのであります。
そういう空しい異教徒の神と違って、わたしたちが信じている神イエス・キリストは、わたしたちと同じ肉体をとって人となられた神で、私たちの間にあって語り掛け、私たちの罪を救うために十字架にかかって、わたしたちの罪を背負って、わたしたちの身代わりとして死なれた方です。三日目に神によって復活させられた方です。自ら復活された方として、御自分を信じる者に救いを与えることのできる神です。その神とはイエス・キリストにほかなりません。教会は、このイエスを主キリストと告白し、宣べ伝えて来たのです。そして、キリストは教会の宣教の働きを導く為に、神は聖霊を与えて下さっているのです。だから、パウロは「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」というのであります。
パウロはここで二つの大切なことを言っています。わたしたちが神を知る道は、神ご自身がご自分を示す、啓示という行為を抜きにしてありえないということが、第一に言われています。「もの言えない偶像」との違いがここで強調されています。この啓示はイエスにおいて頂点をなし、「言葉」という形で与えられています。しかし、その啓示の意味を理解させ解釈する働きは、聖霊の働きである、というのが第二に言われている大切な点です。
つまり、聖霊が復活し昇天されたキリストの約束によって教会に与えられている意味は、キリストの救いの御業を一人一人の人間に確かにし、与えていく業であるということです。イエス・キリストの福音を聴いた人は、聖霊に導かれて、はじめて、「イエスは主である」と告白することができる、とパウロは言っているのであります。
聖霊は神です。父なる神と子なるキリストから遣わされた神です。聖霊が神であられる限り、聖霊は自由で人格を持っておられます。しかし、その働きは人のうちにあって密かになされる特色があります。聖霊は人に直接介入し、人と共に働かれる神です。そして、聖霊の働きは、イエス・キリストを人に指し示し、信じさせることを使命として持っておられる神であられます。聖霊は神として自由ですが、ご自身の働きをそのように自己限定しておられます。
この聖霊の働きを教会の中で確認していく業は容易でありません。なぜなら、聖霊の働きは人の目には隠されているからです。しかし、人の目に隠されていても、その働きの結果を、私たちは確認することはできます。即ち、聖霊が教会の中で人を用い、人と共に働いていてくださいます結果、教会の宣教の業が、如何に罪に満ちた、知恵の乏しい、無力で、弱い人間の業であっても、聖霊の助けによって、「イエスは主である」という告白を生み、信仰の実りを見ることができるからであります。
わたしたちは、自分の信仰の弱さ、不甲斐なさに悩むことがあります。こんな信仰で果たしてよいのだろうかと途方にくれるようなこともあります。しかし、どんなに貧しい、弱い、だめな信仰と思えても、わたしたちは、「イエスは主である」という信仰を失っていない限り、それが人間によるものではなく、聖霊の助けと力によって支えられ、守られている信仰であることを知り、励まされるのです。わたしたちは、自分勝手に造り上げた神を信じているのでありません。わたしたちは、わたしたちを造り、ご自身を啓示し、キリストの愛を向け続けておられる神を知る者として、神の愛を信じるのです。神は教会に聖霊をも与え、その不変の愛を今も示してくださっています。キリストからもたらされる恵みを失われることなく保ち続けてくださっています。その事実を、信仰の目で見ることができるようにしてくださっているのであります。
教会を守っていてくださっている聖霊は、神の救いの計画と業を成就させ、実現させる働きを継続させるために、教会の宣教の働きのための職務に就く者に、信徒一人一人に賜物を与えておられることを、パウロはここで明らかにしています。最初に申し上げましたように、「賜物」カリスマタは神の恵みカリスマの複数形です。神の恵みの多様な現れとしての個々の賜物を見ることが大切です。その中心は賜物の源である神であり、神の恩恵であり、神の働きです。だから、そのことを特に注意するようにパウロは、教会に与えられている「賜物」「務め」「働き」の多様性を語りつつ、それを与える「同じ霊」「同じ主」「同じ神」を指し示しています。
その目的は賜物を持つ個人を賞賛することではなく、「全体の益となるため」(7節)であるとパウロは述べております。賜物は、これを与える聖霊に依存しています。賜物は実に多様に豊かに教会の一人一人に与えられ、その与えられかたも多様です。その賜物を与える聖霊は唯一で、同じであります。11節で「これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです」とパウロは言っております。だから、わたしたちは、霊の賜物を理解しその活用のあり方について議論する時に心掛けなければならないのは、それを与える霊の望む方向でそれがなされているかということであります。
誰にどんな賜物があるか、それを教会の中で議論することは愚かなことです。その議論は不要です。「霊が望む」方法でその賜物の活用がなされているか、その吟味が大切であります。それを考えるには、やはり父・子・聖霊の三位一体の神としての聖霊ご自身が父なる神と子なるキリストとの間で持っておられる救済の業における使命を考えなければならないでしょう。それは即ち、聖霊は子なるキリストを指し示し、子なるキリストの救い業の意義を教える働きを継続されているということを理解していくということに尽きるでしょう。
ここに示されている多様な賜物もやはり「言葉」に関わるものが中心です。御言葉との関係で、信仰・奇跡・癒しの賜物が教会に与えられています。これらの賜物はすべて「イエスは主である」という告白をもたらし、キリストの救いに与らせるために教会に与えられているものであります。わたしたちは、目を賜物とこれを与えられている人に目を注ぐのではなく、それ自体では何の価値もない人間を用い、生かし、その様なものでしかない人間を通して働いておられる神、聖霊の自由なお働きに注目していくべきであります。教会は聖霊の力に支えられているのであります。聖霊は必要な時に必要な賜物を教会に与え、教会の宣教の業を助けてくださいます。その様に聖霊ご自身の「望むままに」教会の「一人一人」を用いてくださるのであります。わたしたちは、そのようにしてこの恵みの業に参与できるように整えられていく存在として位置づけられているのであります。だから、その事実の前に満足していく信仰を持つことが大切であります。賜物のあるなしを誇ったり嘆いたりするのでなく、聖霊は必要な時に教会に賜物を与える自由を持っておられることを覚えることが大切であります。聖霊は、賜物を「一人一人に分け与えて」、ご自身の望むままに、生かしてくださるのであります。そのことを信じる教会は本当に一つになれるのであります。だから、主イエスへの信仰と同じように聖霊に対する信仰を持つことが大切であります。
新約聖書講解
- コリントの信徒への手紙講解
- 序.コリントの信徒への書簡執筆の事情と特質
- 1.コリントの信徒への手紙第一1章1-3節 『神の召しによって』
- 2.コリントの信徒への手紙第一1章4-9節 『キリストにある豊かさ』
- 3.コリントの信徒への手紙第一1章10-17節『キリストの御名による一致』
- 4.コリントの信徒への手紙一1章18-25節『神の知恵と力』
- 5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』
- 6.コリントの信徒への手紙第一2章1-5節『神の力によって』
- 7.コリントの信徒への手紙第一2章6-9節『この世の知恵ではなく神の知恵で』
- 8.コリントの信徒への手紙一3章1-9節『成長させる神』
- 9.コリントの信徒への手紙一3章10-15節『この土台の上に』
- 10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』
- 11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』
- 12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』
- 13.コリントの信徒への手紙一4章14-17節『霊的な父として』
- 14.コリントの信徒への手紙一4章18-21節『神の国は言葉ではなく力』
- 15.コリントの信徒への手紙6章1-11節『聖なる者とされ』
- 16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』
- 17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』
- 18.コリントの信徒への手紙一7章29-31節『ある人はない人のように』
- 19.コリントの信徒への手紙一8章1-13節『愛は造り上げる』
- 20.コリントの信徒への手紙一9章1-23節『福音に共にあずかるために』
- 21.コリントの信徒への手紙一9章24-27節『朽ちない冠を得るために』
- 22.コリントの信徒への手紙一10章1-13節『終末を生きる信仰』
- 23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』
- 24.コリントの信徒への手紙一10章23節-11章1節『神の栄光のために』
- 25.コリントの信徒への手紙一12章1-11節『聖霊と教会』
- 26.コリントの信徒への手紙一12章12-31節『キリストの体なる教会』
- 27.コリントの信徒への手紙一13章1-7節『愛がなければ』
- 28.コリントの信徒への手紙一13章8-13節『愛は滅びない』
- 29.コリントの信徒への手紙一14章1-25節『愛は教会を建て上げる』
- 30.コリントの信徒への手紙一14章26-40節『共に学び共に励ます』
- 31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』
- 32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』
- 33.コリントの信徒への手紙一15章20-28節『キリストの復活と終末』
- 34.コリントの信徒への手紙一15章29-34節『日々死んでいる者を生かす神』
- 35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』
- 36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』
- 37.コリントの信徒への手紙一16章1-4節『エルサレムの信徒のための募金』
- 38.コリントの信徒への手紙一16章5-12節『主が許してくだされば』
- 39.コリントの信徒への手紙一16章13節-24節『結びのことばと挨拶』
- 40.コリントの信徒への手紙二1章3-7節『神の慰めによって』
- 41.コリントの信徒への手紙二1章12-22節『神の真実を誇りに』
- 42.コリントの信徒への手紙二2章14-17節『キリストの香り』
- 43.コリントの信徒への手紙二3章1-3節『キリストの手紙として』
- 44.コリントの信徒への手紙二3章4-18節『主の霊の働きによる』
- 45.コリントの信徒への手紙二4章1-6節『福音の光心に輝いて』
- 46.コリントの信徒への手紙二4章7-15節『この土の器に』
- 47.コリントの信徒への手紙二4章16-18節『日々新たにされる生』
- 48.コリントの信徒への手紙二5章1-10節『終末信仰を生きる』
- 49.コリントの信徒への手紙二5章11-21節『キリストの愛が迫り』
- 50.コリントの信徒への手紙二6章1-10節『神の力によって』
- 51.コリントの信徒への手紙二7章8-12節『御心に適った悲しみ』
- 52.コリントの信徒への手紙二8章1-7節『神の恵みに生きる』
- 53.コリントの信徒への手紙二12章1-10節『弱いときにこそ強い』
- ガラテヤの信徒への手紙講解
- 1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』
- 2.ガラテヤの信徒への手紙1章4節『キリストとは、どんな救い主』
- 3.ガラテヤの信徒への手紙1章6-10節『福音-キリストの恵みへの招き』
- 4.ガラテヤの信徒への手紙1章11-12節『イエス・キリストの啓示によって』
- 5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』
- 6.ガラテヤの信徒への手紙1章18-24節『神が讃美される人間の革新』
- 7.ガラテヤの信徒への手紙2章1-14節『神は人を分け隔てせず』
- 8.ガラテヤの信徒への手紙2章11-14節『福音の真理に生きる』
- 9.ガラテヤの信徒への手紙2章15-16節『ただイエス・キリストへの信仰によって』
- 10.ガラテヤの信徒への手紙2章17-19節『神に対して生きるために』
- 11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』
- 12.ガラテヤの信徒への手紙3章1-5節『惑わされない生き方』
- 13.ガラテヤの信徒への手紙3章5-6節『信仰こそ人生の基』
- 14.ガラテヤの信徒への手紙3章15-25節『神の約束と律法』
- 15.ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節「キリストにある自由-一致と平等」
- 16.ガラテヤの信徒への手紙4章1-11節『神の子とするために』
- 17.ガラテヤの信徒への手紙4章12-20節『キリストが形づくられるまで』
- 18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』
- 19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』
- 20.ガラテヤの信徒への手紙6章1-10節『御霊に導かれる生活』
- 21.ガラテヤの信徒への手紙6章11-18節『新しい創造』