コリントの信徒への手紙講解

23.コリントの信徒への手紙一10章14-22節『主の杯にあずかる者として』

パウロはコリントから寄せられた偶像に供えられた肉を食べてよいかという質問に8章で答えました。その問題がこの章において再び取り上げられていますが、ここでは「偶像礼拝」の問題として取り上げられています。

肉を食べることに関しては、その肉が偶像の神々に捧げられたものであっても、クリスチャンは自由に食べることができると答えていました。

しかし、その肉を食べることが偶像礼拝に関わる場合は別であることを、パウロはここでは明らかにします。出エジプトのイスラエルが荒野で犯した罪の問題から、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と警告を与えています。偶像自体は自分で立つことも喋ることもできない無力な存在です。異教の神々も実際には存在しない人間の願望が創り出したもので、元々存在しないものですから、無力です。しかし、その無力なものを用い、人の心を支配する悪霊の力を侮ってはならない、とパウロは警告しています。コリントの人たちは偶像についての知識をもっていたでしょうし、実際に偶像礼拝を行っていたわけでもありません。彼らが偶像に無知であるとパウロは考えていたわけでもありません。しかし、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と警告しています。パウロは、この警告を、「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します」といって与えています。問題は彼らの持っている「偶像に関する」知識ではありません。「わたしの言うことを自分で判断しなさい」(15節)と言っていますように、その行為がどういう風に人に受け取られ、キリスト者としてのあり方として相応しいかどうかを「自分で判断」しなければならない問題として、その判断を求めているのであります。

現実に偶像に手を合わせて偶像礼拝していなくても、その仲間と同じ存在になってしまうような問題について語っているのであります。偶像に供えた肉が人に悪影響を及ぼすことも、力もありません。偶像が何か意味を持つことはありません。「わたしが言おうとしているのは」そういうことではないとパウロはきっぱり否定しています。「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです」(20節)とその問題の本質を明らかにしています。

8章で問題になった偶像の神殿で食事に加わることは、自分自身を悪霊に献げ、「悪霊の仲間」とすることであるとパウロはいいます。偶像は存在しないといって自分を合理化して食べたい肉を食べる。同じようにして性的に堕落した生活も魂に影響ないからといって、それも合理化してしまうコリント人の信仰の内面に及ぼす恐るべき「悪霊」の働きをパウロは警戒しています。目に見える偶像の無力は明らかです。また、偶像礼拝はいけないことを知っていますから、それを簡単に破るようなことをキリスト者はしません。食べる肉も人間の内面、信仰に影響を与えることはありません。しかし、悪霊は人の心に密かに働きかけ誘惑を仕掛けてきます。この場合食べる方がよいかどうかを問われた「場所」「状況」が問題になっています。そこは異教の礼拝が捧げられる場所、その食事は、偶像礼拝者の集まりです。そこでキリスト者が付き合いだからといって一緒に食事をすることは、自分もその仲間であることを認めてしまうことになる、誤解を生む可能性のある状況です。

それは、もはや偶像に捧げられた肉を食べてよいかどうかという問題を超えて、自分は何者に属するかが問われる問題であります。それを「自分で判断する」信仰の「分別」力が問われている、とパウロは言うのであります。

パウロは「わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」(20節)と語ります。「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」(21節)ときっぱりと述べています。この点での曖昧な生き方は何処から来るか、それは、聖餐の理解にあるといっています。主の聖餐を正しくわきまえない教会生活・信仰生活は、わたしたちの信仰を虚偽のものにします。正しい聖餐の理解を持たずに信仰生活を続けるなら、その信仰自体が「偶像信仰」となる危険があります。その意味で聖餐の理解はわたしたちの信仰を決める重要な決め手です。

ドイツ告白教会がナチスと闘った信仰の戦いにおいて最後の力になり得たのは教会を「聖餐共同体」として捉える信仰でした。オットー・ブルーダーは『嵐の中の教会』という本の中で、グルント牧師の説教と聖餐への招きにおいて、それを明らかにしています。この本の中で「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深い」なぜなら、キリストのからだは、いかなる民族に属する人間もすべて包摂するからだ、と述べ、さらに、「聖晩餐において、私たちは、むらの共同体の日常生活や繁栄に対して責任を負うように結び付けられるのではありません。そうではなくて私たちは、一人のお方の死を通して、このパンと葡萄酒において、お互い同士結び合わされて一つとなるのです。」と述べています。

グルント牧師は誤ったドイツ的キリスト教に対して、「キリストの本当の教会に属するのだという姿勢」を、告白教会の会員となる署名をし、その後で共に聖餐式に与かり、自分たちが本当に主にのみ助けを乞い求めるものである告白としようと呼びかけました。それは、決して強制されませんでした。それに加わることは本当の勇気が要りましたし、キリストへの本当の信仰が要りました。教会を立ち去る人もいました。しかし、そうして主の聖餐に与ったものは「主のからだと血とを受けた」深い感銘を与えられ、真の信仰へと目覚めて行きました。

パウロは16節で「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」と呼びかけています。これは、11章26節の「主の死を告げ知らす」信仰告白の意味を告げる言葉と同じ意味を持つ言葉であり、12章13節の民族の垣根を取り除き教会を一つにする霊によるキリストの死にあずかるバプテスマの意味と共に、心に刻み込まなければならない大切な言葉であります。

キリストの聖餐に与かるということは、私はもはや誰のものでもないキリストのもの、キリストに属するものとしてその死にあずかるバプテスマを受け、キリストと共に死に、キリストによってその復活の力にあずかり、キリストと共に生きる者にされているのであります。その聖餐にあずかることは、キリストにあずかるものであることを告白することであります。主の食卓はわたしに命を与え、キリストにのみ生きるものであることを告白する場所となる、それがわたしたちの聖餐の理解であります。聖餐にあずかるわたしという人間はキリストと一つにされているのであり、聖餐にあずかる共同体はキリストにあって一つにされている存在であります。それを分かつものは何もないし、あってはならないのです。

しかし、異教の偶像の神殿の食卓につく者は、自らその告白を否定することになるばかりか、自分自身を「悪霊の仲間」とする行為だとパウロは言いうのであります。それを「肉によるイスラエル」のたとえで説明しています。旧約の祭司は、神殿において犠牲に捧げられる肉を食べる特権を与えられていました。それは、祭壇に関わるものであったからです。食べるという行為によって、それは明らかにされる事柄でした。祭司だけでなく旧約の信徒もそれにあずかり主の共同体の一員であることを確かめ、信仰告白する機会となったというのです。だから、偶像の神殿で捧げられた肉を食べることは、単に町の市場で偶像に供えられていたものを食べるというのと訳が違うのであります。それは、「その仲間」であるかないかが問われている出来事として、「悪霊の杯」に与かることになる、とパウロは捉えるわけであります。

主の聖餐の意味を深く捉えていれば、そんなことできないのであります。また、それを軽く見られるほどわたしたちは、強くはないとパウロはいうのであります。

わたしたちは、毎月第一主日に聖餐を守ります。それは、習慣だから守っているのでしょうか。もちろん主にあるものであることを確かめる「習慣」としての意味もあります。しかし、聖餐は習慣ではありません。わたしたにとって、そこで本当に主に贖われ生かされているものであることを確かめ告白するのです。できることなら毎主日に聖餐にあずかりたい、けれども月の最初の主の日に守ることによって、主の死にあずかるバプテスマを受け、主の死を告げ知らせる者として生きることを確かめ、心新たにしてその月の歩みを主に捧げていく信仰告白を行っているのであります。なぜ、月の終りでなく第一なのか、そのこだわりは人間のものでなく、主の御業の記念の意味があるからです。「主の死を告げ知らす」者としては、聖餐は第一に来なければならないからです。「主の死を告げ知らす」者としての歩みを、教会の歩みの中心にしなければならないからであります。

主に深く抱きかかえられている存在であることを、聖餐にあずかることによってわたしたちは、告白していくのです。その告白をする者が、どうして神ならぬ偶像の食卓に一緒につけるのか、考えれば不可能なことを気づくべきでないかとパウロは言っているのであります。そして、主の交わりをそこなうそのような交わり、私たちの信仰を内側から突き崩すような「悪霊」の働く機会を与えないように注意しなければならない、とパウロは述べているのであります。

新約聖書講解