コリントの信徒への手紙講解

17.コリントの信徒への手紙一7章1-7節『神の賜物と生き方』

7章からⅠコリント書簡の第2部が始まります。1-6章までは、パウロが人づてに聞いたコリント教会における混乱に対するパウロの考えが示されましたが、7章からコリントのキリスト者がパウロによせて書いた問題が扱われています。「そちらから書いてよこしたことについて言えば」と7章1節で記されているように、「…について」という表現が、ここだけでなく、25節にも、8章1節にも見られます。

7章は、結婚について取り上げられています。ここに記されたパウロの考えは、初期カトリック教会が教職の結婚に否定的に考えるのに大きな影響を受けたといわれる問題の箇所です。

しかし、パウロは、ここでキリスト教の結婚観について纏まった系統だった見解を表明しているわけでありません。そのような自覚の下で発言しようと意図していたわけでもありません。だから、ここから、キリスト教の結婚観を導き出そうとするのも、パウロの結婚観を理解しようとするのも、共に間違っています。パウロが最初に断っていますとおり、コリントの教会から「書いてよこしたことについて」応えているだけで、決してそれ以上の問題を論じようとしていません。残念ながら、「書いてよこしたこと」が何であるかについては、正確なことは判りませんから、推測するしかありません。ただ前の6章18節に見られるような「みだらな行い」との関連で、パウロはコリントにおいて見過ごすことのできない重大な問題となっている「結婚か非婚」か、という問題を第一番目に取り上げ、そのことで間違った判断によって罪を犯すことのないように配慮しようと意図していたことは確実なようです。

もう少し、このパウロの言葉の背後にある問題について理解しておくべきことがあります。当時、コリント教会は、グノーシス主義的な非キリスト教的な間違った人間観・霊魂と肉体についての見方に影響されていました。グノーシス主義の影響を受けたキリスト者の中には、自分たちは特別な啓示を受け、知恵において完全な者、覚知者となっているので、その神聖な霊魂は肉体の影響を受けることはないから肉体は何をしても構わないと考える者もいました。それゆえ、彼らの中には「娼婦と交わる」ような「みだらな行い」をする者、「父の妻」との間で罪を犯すものも現れました。しかし、もう一方で、このようなみだらな生き方に嫌悪して性的な交わりを一切拒否しようとする禁欲的な生き方をしようとするキリスト者も現れました。コリントの教会がパウロに「書いてよこした」問題というのは、背景にいま申し上げましたような事があったと考えてまず間違いないと思われます。この性的な放縦主義者とキリスト者は結婚すべきではないのではないか、たとえ結婚したとしても性的な関係を持たない霊的・精神的な結婚関係に止まるべきでないかという、禁欲主義的な考えに対する答えを聴くための質問が、パウロに対してよせられたのでありましょう。

この質問の背後にある性的放縦主義もその反動としての禁欲主義・精神主義も共に同じ根を持つグノーシス主義的な考えから来ていることをパウロは洞察していました。

パウロはここで論じられている結婚問題は、あくまでもこの問われた質問に対する答えとして論じていることをわたしたちは見失うべきでありません。だから、ここから結婚問題一般を論じ、キリスト教の結婚観を見ようとするのは、パウロの意図に反した読み方をすることになります。パウロの結婚観を知る上では、エフェソ5章21節以下を参照することを忘れてはならないでしょう。

パウロは、ここで結婚か非婚かと問われて、自分自身の意見としては、「男は女に触れない方がよい」「わたしのように独りでいてほしい」と述べています。「しかし、みだらな行いを避けるために」といういわば妥協するような言い方をして、消極的に結婚も認めるという風な言い方をしているような印象を受けます。事実、ここでのパウロの意見はそのとおりです。

しかし、なぜ、パウロはそのような言い方をしているのか、そのことを理解するためには、7章全体を丹念に読む必要があります。26節には「今危機が迫っている状態にあるので」という言葉が記され、29節を見ますと「定められた時は迫っています」と述べられています。パウロの意識において、キリストの再臨の時は差し迫って非常に近いという「時の切迫感」があります。その再臨に先立つ、迫害厄難の時代に突入するという「危機意識」が同時にあります。そのような時の切迫性を自覚するなら,現在は、主に結ばれたものとして終末を生き、終末を待望する主の民として、「主に仕える」ことにすべての関心を集中すべき時であるという理解がパウロにはありました。

しかし、それは強制されてするものではなく、信仰の自覚によって現在の生き方が、個々のキリスト者に問われている、ということがパウロの一番言いたいことであります。だから、こうすべきだと自分が考えている意見はあっても、人に決してこうすべきだと言うことはできない問題であることをパウロ自身一番よくわきまえて発言しているところであります。質問は結婚すべきかそうすべきでないかという問題は、終末に向かう時の切迫性の中で生きるキリスト者にとって、結婚問題は神から信仰へと召された自分の生き方をどう考えるべきかという生き方の本質にかかわる問題であったのです。

パウロ自身としては、危機的な状況にあっては独りでいる方が闘いやすいし、終末への時の切迫する中でいろんな事にわずらわされず、祈りと宣教の働きに専念したいという願いがありますから、躊躇なく「わたしのように独りでいてほしい」という願いを遠慮せずに表明しています。

しかし、だからといって決して結婚することが罪であるとか、悪であるというような言い方をしていません。また、結婚を選ぶ人は、未婚を通す人よりも劣った生き方だという言い方もしていません。一見消極的に見える「みだらな行いを避けるため」という勧めも、「サタンの誘惑」の恐ろしさを知っているパウロの実際的で積極的な勧めであることを見落としてはなりません。
「わたしのように独りでいてほしい」というパウロの言葉を文字どおりとって、パウロは生涯独身を通したのだという伝統的な解釈がありますが、パウロは独身ではなかったという有力な解釈もあります。その根拠の一つに、かつてパウロはユダヤ教徒であったことが上げられます。ユダヤ教ではラビは結婚すべきだと教えられています。パウロはラビでありましたから、結婚していたのではないかと言われています。しかし、それでは、ここで「わたしのように独りでいてほしい」、というパウロの言葉をどう解釈したらよいのかという難しい問題が出てきます。回心後、キリスト者となって、パウロは離婚したのだという考えは、離婚してはならないという10節以下のパウロ自身の言葉に反するその見解は支持できません。パウロは妻と死別してしまったのか、使徒としての特別な働きの期間、別居生活をしていたのか、等々、いろんな見解が出されていますけれども、どれもパウロの説明がありませんので推測でしかありません。しかし、一つ確実なことがいえます。「サタンの誘惑」に負けないようにという勧めや、結婚生活における夫婦の性生活のあり方を語る部分、未婚者とやもめに対する言葉などは、実際結婚したことがない人が語れない深い洞察と知恵に満ちた言葉であります。わたくしは、この点からパウロは結婚していたのではないか、と考えるのであります。

そのパウロが結婚について消極的に見える発言しているのは、自分の結婚生活が不幸であったからではなく、「定められた時は迫っている」という切迫している時を生きねばならないキリスト者の現在の時の把握の仕方から来ている、この観点、関心からの発言だということを見落としてはならないでしょう。むしろ、結婚している限り、夫婦としてのつとめを果たさない結婚生活をパウロは認めようとしません。それが許されるのは互いに合意の上で、「祈りに時を過ごすため」に限るといいます。極端な禁欲主義はその反動によって「サタンに誘惑の機会を与えることになる」、とパウロはいうのであります。だからといって、夫婦はセックスに励めといっているのでありません。結婚における精神主義も肉欲主義も決して健全な結婚生活でないことをパウロは言おうとしているのです。両性が合意の上で臨むのであれば、セックスのない結婚生活もあってよいでしょう。パウロはそのことを否定するつもりもありません。6節の「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」という、パウロの発言がすべてを語っています。結婚すべきか未婚のまま通すべきかの問題は、各自が選ぶべき問題であって、パウロ先生がいうからそうするという問題ではないのです。また、結婚する方が良いとか、良くないなどという、あれかこれか式の問いの立て方自体が間違っているのです。そう自分の思いで勝手に決めるなら、わたしたちは、信仰による自由を生きていることにはならないで、律法に生きていることになってしまうからです。パウロはここで「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」と願望を述べますが、決してそうしなさいとはいいません。それが最善だともいいません。むしろ、独身でいるか、結婚するかは、「賜物」の問題であると言っています。その賜物もないのに結婚しようとしてもできませんし、未婚のまま通すこともできません。神から頂いている賜物のことをよく吟味して、人によって異なる「生き方」の問題を、自己の課題としてじっくりと考え、取り組む姿勢がわたしたちに必要なことです。

新約聖書講解