ガラテヤの信徒への手紙講解

19.ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節『聖霊の結ぶ実』

イエス・キリストの救い、福音は、すべての人を分け隔てせず、それに与らせるものとして提示されています。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」と3章28節でキリスト・イエスにある人を分け隔てしない救いの平等性をパウロは明らかにしています。この恵みにより、人は律法から自由されて、誰でも神に近づき、神の救いの恵みに与ることができる自由を与えられているとパウロは語ってきました。

そして、5章13節において、パウロは、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」と命じ、イエス・キリストによって自由とされた人々は、互いに愛し合う使命を与えられていると述べています。

聖霊は、その愛に生きるよう、その自由の中に生きるよう、神の特別な恵みの働きとして私たちに与えられていると、16-26節において論じられています。パウロはこの手紙において聖霊の働きをこの箇所だけで論じているのではありません。ガラテヤの教会は、聖霊の働き、その恵みの力によって生まれたという事実を、パウロは3章1-5節においてはっきりと述べています。福音宣教の言葉も、十字架の意味も、聖霊の恵みと導きを受けなければ、ガラテヤの人々の心に届かず、彼らの内にキリストへの信仰を起こすことはなかったのです。彼らは、そういう聖霊の体験を既に与えられている、ということをパウロは語ってきたのです。

パウロはこれによって、人はただ神の恵みにより自由にされ、救われているから、ますますこの恵みに委ねて生きることの大切さを明らかにしているのです。そうであるのに、律法に従うことによってキリスト者としての歩みを仕上げようとすることは、「肉によって仕上げる」ことを意味するといって、パウロはその誤りを激しく糾弾しています。

4章6節においては、神の子とされる、「アッバ父よ」と呼ぶ御子の霊を送られているという事実を明らかにしています。そのような存在にまで変えられ、神に近づくことができる幸いを明らかにしています。

このように聖霊は、この手紙の中で際立った働きをするものとして、これまでも言及されています。しかし、ガラテヤの教会の信徒たちは、聖霊による生活が何を意味するか十分自覚していなかったのです。このことは私たちの教会生活においてもいえることです。聖霊の力と恵みに信頼しきれないために、わたしたちは、忙しく、いろんなことに心が奪われ、何が大切かということが教会の中で議論がなされるとき、各自めいめい自分の思うところで意見を述べたり、行動に表わすことによって、一致ではなく、分裂の原因をつくり出す事が良く見られます。

聖霊の働きは、隠れた神のわざでありますから、今どのようにそれが働いているか、わたしたちの目で確かめることができません。また神の経綸を斟酌することは罪として非難されています。その御業を信じる静かな心、信仰がいつも求められているのです。また、神が御霊の助けによってあらゆる困難からよき方向へと導いてくださるよう祈り、その導きに委ねる信仰がいつも求められているのです。

パウロは、ここで「肉の業」と「霊の結ぶ実」を区別して論じています。そして、原文では、「肉の業」は複数形となっていますが、「霊の結ぶ実」は単数形になっています。パウロは教会の混乱と分裂の究極の原因を、肉と霊の対立として述べています。この場合、パウロが「肉」という時、その言葉において何を表わしているのでしょうか。これは、「人間のより劣った性質」(NEB)、「罪深い性質」(NIV),「放縦」(JB)を意味するのでしょうか。

そうではありません。この文脈において「肉」(サルクス)は、歴史的、自然的、地上的なこの世界の領域を表わす言葉として用いられています。人間はそこから究極的な意味を引き出すことができると考えて自らを欺くものとなる。パウロはそれを肉と呼んでいるのです。そのようなものとして肉は、神の新しい時代の力として到来する究極的に永遠の命に導く聖霊の宿命的な敵のなる、という意味でパウロは語っています。ですから、この文脈における聖霊と肉とは、人間を構成する要素ではなく、個々の人間がそれを基礎にして各々の生き方を形成し、またそれに向かって歩むような二つの方向を意味しています。その意味では、人間は「肉にしたがって」生きることも「聖霊にしたがって」生きることもできる存在であるということができます。

しかし、肉に焦点を合わせることは死を意味し,聖霊に焦点を合わせることは生命と平和に導かれることを意味します。パウロは決して物質的なものを悪であるとか、人間の感情や、肉体が欲求するものそれ自体が悪であると述べているのではありません。肉は、それによって人の生活を導く規準とされることによって、破壊的なものになります。この世は、その成功の規準を成果に求めます。その成果を得るために厳しい仕事を要求し、その成功を収めたものに対価としての報酬を約束します。律法主義の割礼や食事に関する規定の問題は、人間による敬虔の評価の基準とされる時、それは差別の基準として働きます。こうした規準で信仰の事柄や労働の意義が評価される時、神の働きや、聖霊の臨在や、新しい生命が入り込む余地がなくなります。肉を歴史的、自然的、地上的というのは、結局のところ、それによる判断は、物事を人間の目を尺度としたものから行なうというところに行き着きます。手で触れ、舌で味わえ、金銭で価値をはかるとき、そこには神の恵みは働かなくなります。なくてすむようになります。

パウロは「肉の業」を複数形で表現するのは、その人間の肉による判断評価,欲望が無限に尽きないことを表わしています。それに従う限り、争いは絶えませんし、欲望はつきません。しかし、聖霊の結ぶ実は、一つです。パウロはその実には色んな形で現われているように記していますが、聖霊の結ぶ実は愛であると最初に述べていることが重要です。そこにはすべての実が含まれてあることをパウロは、語っているのです。聖霊の自由と愛、そこから、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という愛の実が結ぶのです。

聖霊の働きは見えません。しかし、その働きによって結ばれた果実は見ることができます。パウロは肉の業から生み出されるものと、聖霊の果実をこのように区別して、聖霊の導きに従って前進するようにと命じています。16節の、「霊の導きに従って歩みなさい」と25節の「霊の導きに従ってまた前進しましょう」と新共同訳聖書は訳の上で区別しています。これは、原文のギリシャ語でも、別の語が用いられていますので、新共同訳はふさわしく区別して訳しています。16節では文字通り「歩く」という意味の語が用いられていますが、25節では、本来軍隊用語を表わす「隊列を守って進む」という意味の語が用いられています。一人で歩く時は、どんな歩き方をしてもよいのですが、軍隊では歩調を合わせて歩くということはとても大切です。しかし、そこには自由もありません。聖霊に従うのに、パウロが軍隊用語を用いたのは、聖霊の自由は自己主張を認めるそういう自由の働きではなく、互いのことを思いやることのできる心を持つ自由として隊列を整えながら教会の歩みを共なるものとするそういう意味づけがあると理解するのが良いでしょう。だからそれは、うぬぼれや、いどみあいや、ねたみ合うということから自由な霊の働きとして、パウロは捉えているのです。そのような歩みへ整えられる時、ここに述べられているような聖霊の実として一つではあるが、豊かな特質を備えた実を結ぶことができるという約束としてこの言葉を聞くことが大切です。

新約聖書講解