ガラテヤの信徒への手紙講解

11.ガラテヤの信徒への手紙2章19節b-21節『キリストが我が内に生き』

パウロが2章15節から論じている問題は、人は律法を行って義とされるのではなく、キリストへの信仰によって義とされるということです。キリストを信じるということは、キリストの十字架において現されている神の義と愛を信じるということに尽きることをパウロは強く意識してこのところを書いています。

言い換えれば、キリストの十字架がわたしにとって何であるかを考えることによって、わたしの生きる意味がまったく違うものとなるということを、パウロはここで述べようとしていることであると理解することが大切であります。

その意味で、19節の、「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています」という言葉は、非常に重い意味を持つ言葉です。

クリスチャンであるなら、十字架がわたしたちの罪の赦しのためのものであるということをみんな知っていますし、そのようなものとして信じています。しかし、キリストの十字架をそのようなものとして理解するということは、わたしという人間がキリストと共に十字架につけられて死んだということを知るというところから、神にある新しい人としての本当の人生の歩みをはじめることだということをパウロはここで述べようとしているのです。

つまりキリストの十字架がわたしの罪の赦しのためと理解するなら、まさにわたしの死ぬべき死をキリストがあの十字架において死んでくださったということを信じることになる、とパウロはいうのです。だから、罪ある古いわたしはそこで死んだということを信仰の目で見る事がとても大切になるのです。

そこでわたしが死んだということを見るということは、わたしの人生はそこで一度完全に終わっているという事実を信仰の目で見たということであります。しかしその死だけを見るというだけでは希望がありませんが、このわたしたちの罪を背負われた方は、その死に打ち勝ち、罪の力に勝利されて、復活された方であるということに、わたしたちの希望があるのであります。

いまわたしたちは現実に死んではいないのです。キリストを信じることによって義とされたものとして、永遠の命を与えられたものとして、この地上でなお生きるものにされている。そういう幸い、そういう喜びを与えられているのがキリストと結び合わされている者のおかれている新しい現実としてあるのであります。だから、十字架に死なれたキリストとわたしたちが結び付けられて、今生きているということは、信仰の歩みにとってどういう意味を持つか、パウロはそのことをわたしたちが考えて生きる者となるようにという祈りをもって、このところを書いているのであります。

キリストの十字架において罪ある古きわたしの死を見つめるということは、また、十字架の後、罪赦された命を積極的にどのように見るかということと結びついています。だからキリストと結合したわたしが今生きている、それはもはや、わたしが生きているのは、わたしではなく、キリストがわたしの内に生きている、そういうふうにしか説明がつかないことである、とパウロはそう言っているのであります。

わたしという人間の命を内側から突き動かし、生かしめているのはわたしの内に生きておられるキリストである、とパウロは言うのです。神秘な、不思議な表現を用いられていますが、そのようにして述べるしか説明がつかない事柄を、パウロはもはや主体性のない何も考えない人間としてこれから生きていこうとしているのでも、そのような形で生かされているだけだと言うことをいっているのではありません。またパウロは神秘主義者になって、自分だけに起こる神秘な体験を語っているのでもないのです。

その誤解を避けるために、パウロはここであえて、「わたしが今、肉において生きているのは」(20節)という言葉を用いています。肉という人間の有限性を強調し、その肉なる人間にキリストが生きるとはどういうことであるかを、パウロは説明しようとしているのでしょうか。キリストがわたしの内に生きているということを認識していくということは、何によって可能になるのでしょうか。

それは信仰によります。だから、パウロは、「わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」と20節において述べているのであります。

キリストの十字架の出来事を、明らかに、神が罪あるわたしを見捨てず、わたしを愛していてくれている証の出来事としてパウロは理解しているのであります。キリストは十字架においてわたしのために見捨てられる、そういう審き、苦しみまで受けてくださるために、ご自身をささげられた、そこまで深くわたしのことを思い、愛してくださっているのだ、と神の御子の愛を見ているのであります。わたしはそのようにキリストの愛を喜び、感謝して生きている、パウロがこの言葉で言い表したいのは、そういうことであります。

神の子とわたしとの関係は、このように深く個人的な結びつきにおいて捉える信仰を持たないと、本当に十字架のありがたさ、そこに現されたキリストの愛、神の愛の深さを理解することはできないことを、このところを読んでいて深く思わされるのであります。

そのように顕される神の自由な愛、言い尽くすことのできない神の恩寵の偉大さ、キリストの死が指し示す意味の大きさを本当に深く思わされます。

パウロはローマの信徒への手紙5章6-8節で、「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」、と述べているのであります。

人間を正しいものに変えるのは、律法の力でありません。勿論パウロは律法が無用だなどといっているのでもありません。神の恵み、神に愛されている自分を知ることによって、人間は生まれ変わるのです。それは、人間の世界でもそうであります。本当に親から愛された子供の顔は喜びに満ち足りています。勿論甘やかされることと、愛されるということは同じではありません。

しかし、この恵みを人間はなかなか理解できないところがあることを、パウロは身に沁みて感じています。パウロがこれらの言葉を誰に向かって語っているかというと、神の恵みをぜんぜん知らない人に対してではないのです。救いが神の恵みの業であることを信じ認めながら、それでも行いの義が必要だということを主張する人が後を絶たないのが、教会の現実としてあります。勿論神の前に正しく生きようとすることはいつも必要なことです。しかし、それによって自分を神の前に正しいものとするということとは同じではないのです。そのように考えて生きることは、神の恵みを無にする生き方になるのであります。だからパウロは、そのような生き方をして、「神の恵みを無にはしません」(21節)と、きっぱりと述べているのであります。

神の恵みに対する感謝の心で律法を喜び、それを守るということはよいことですが、律法を守ったから、これだけよいことをしたから、神は自分を正しい者、よいものとして認めてくれるだろうという、信仰を持って気づかないうちに、そういう功績主義の信仰になることから、わたしたちはなかなか自由になれません。

しかし、そういう信仰の歩みは、キリストの死の意味を無意味にすることになるという警告をパウロはしているのであります。ここでパウロが述べている深い意味を、教会が本当に深く理解することは、決して難しいことはないのです。それは、本当に神の恵みとしての十字架をいつも喜び、自分を死なせ、神に生きる喜びのみを見つめて生きることによってできるのであります。しかし、自分の義を立てようとすることを、神に認めてもらおうとする心は、そんなに簡単になくならない、人は神の恵みに委ねて生きることが簡単にできそうで、そうできていないという、この問題を、パウロが繰り返し述べていることから、「キリストの死の意味を無意味にしない」生き方(21節)=「キリストがわたしの内に生きておられる」という信仰の理解を、繰り返し信仰の在り方の根本問題として真摯に受け止めていくことが何よりも大切なのであります。

新約聖書講解