ガラテヤの信徒への手紙講解

5.ガラテヤの信徒への手紙1章13-17節『神の恵みによって』

この箇所は、パウロが使徒として召し出された時の事情をパウロ自身が語っているところです。パウロの使徒としての召命は、ここに記されている通り、ユダヤ教徒からキリスト教徒への回心と同時に起りました。これはまさにパウロという人においてのみ語りうる、独自の出来事です。ユダヤ教からキリスト教への回心と使徒への召し出しの出来事を、パウロ自身は、他の人も見習うべき生き方を模範として記していません。そのように読まれることも期待していません。しかし、パウロにおける独自な回心と召し出しが同時に起こるという出来事は、パウロ一個人の生き方を変えただけでなく、人間観の革新や、教会観の形成をする上で、以後の歴史に決定的な影響を与えたという意味で、世界史的な意味をもつ出来事であったということができます。その事実から見るときに、このパウロにおける回心の出来事、使徒への召し出しの出来事は、わたしたちの生きる意味、神の前に生きるゆるぎない希望と喜びを知る道筋も示してくれるものでもある事がわかるでしょう。

13-14節は、パウロがキリスト教徒に回心するまでの生き様について記しています。パウロは、ユダヤ教徒として徹底して熱心に生きていたことが書かれています。パウロはその信仰の核心から、キリストとその弟子たちの教えは神を冒涜する許されざる罪と判断し、徹底的に教会を迫害し、滅ぼすことが、最も神に忠実な人間、信仰者としての正しい道であると自負していた、姿が示されています。その熱心は、先祖からの伝承を守るに人一倍熱心に学んでゆく中で形成されてきたものでした。「同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」というパウロの言葉には、キリスト教信仰への回心以前のパウロ自身の中に信仰上の問題で、苦悩する姿や、罪意識にさいなまれた姿はまったく感じることができません。そのことは、パウロが自分自身の内面の中での苦悩、自己矛盾や挫折感から、キリスト教へ回心するに至ったのではなかったことを示しています。フィリピ書3章6節では「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」と述べていますので、パウロは回心直前まで、ユダヤ教徒としての生き方に限界を感じることも、挫折や矛盾を感ずることもなく生きていたということができるでしょう。

しかし、パウロの生き方を180度転換させる出来事が起ったことを、16節に記しています。それは、父なる神が「御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされる」出来事であったとパウロは報告しています。12節に続いて、ここでも啓示という言葉を用いていますが、啓示には神秘的な、個人的な、特別な幻などを示されるということを通じてなされる方法と、聖霊の働きを通してある人々に知られている実在する事柄を開示するものとがありますが、パウロがこの文脈の中で述べている啓示の意味は、後の方法です。パウロの目に神の子イエスが誰であるか見えなくされていた覆いを取り去られ、それが見えるようにされたという意味です。パウロは、それを、「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」によってなされた恩恵の出来事として説明しています。

パウロの使徒の召命についての理解、信仰は、イザヤやエレミヤを預言者として召し出すときに示された主の言葉と関連させて示されています。預言者あるいは使徒として召し出される決定的瞬間は、その人の持つ生涯と切り離された出来事として存在するものではありません。神はその召し出す人間の生涯にわたって働きかけ、支配しておられる方です。

神の召しは、その人が生まれる前からあるというのが聖書の示す信仰です。だから神の召しの中には、ユダヤ教徒として敵対して生きていた時代も含まれているのであります。パウロがガマリエルの下で律法を学んだことも、律法を守ることに情熱をかけて生きていたことも、キリスト者を、神を冒涜する者として根絶やしにしようとしたことも、既に恵み深い神の御守りの中で生じたことでありました。

ギリシャ語では、15-17節は一つの構文ですが、その書き出しの言葉は、直訳すれば「神が喜ばれた時」ということばではじまっています。それは日本語の表現としてはぴったりしませんので、「神がよしとされた時」というようなことばで訳すのが一番しっくりするかもしれません。新共同訳聖書は、この部分を「御心のままに」という表現で訳しています。このことばでも神の恵みによる回心、召命の出来事を説明する形にはなっていますが、その決定的な神の業として起った召命のとき回心のときを表現する言葉としてはいささか迫力に欠ける感じがします。

パウロを使徒として召す神のご計画は、パウロが母の胎にあるときからはじまっていた。つまりその生涯の始まりからその計画はあったが、彼を使徒として決定的に召すその時は、神が最も喜びとする時、最もよいとお考えになられたときが選ばれた。パウロのそれまでの生涯は、神の教会に敵対する生き方として歩んだものであっても、それさえ神のご計画の中に組み入れられ、最もふさわしいときにパウロの心に介入し、キリストの救い、キリストにおいて表された神の恵み、愛を証する使徒として立て、キリストの教会を建て上げる働き人として召すに最も相応しい「神の喜びの時」が選ばれたということが、この文章には表現されているのであります。

神は、この時、パウロに、「御子を啓示し」「その福音を異邦人に告げ知らせる」使徒として召し出された、と語っているのであります。そのようにパウロの人生を決定づけたのは、パウロの意思でも計画でもなく、神の決定として起った出来事であると語られているのであります。パウロをそのように招いたのは、神の声であり、彼をとらえたのは、神の御手でありました。そして彼の目を開いて御子を見させたのは、神の恵みによるものであったとパウロ述べているのであります。

パウロを、そしてわたしたちを招き、捕らえる神は、十字架に架けられ、そして甦られたイエス・キリストの父なる神です。この神はイエスの受難を冷ややかに見ておられたのではありません。わたしたちの罪を背負い、その罪と苦しみから解放させるために、御子にその苦難を背負わせた方です。だからわたしたち人間の苦悩は、イエスがその非常な苦しみの中で引き受けてくださっている。その御子が苦難の後甦られ、復活の主としてその命と希望をわたしたちのものとしてくださっています。

キリストのものとしてわたしたちを召し、わたしたちの生涯が結び付けられているということは、わたしたちの生活と目標が、この究極の救いの恵みに向けて方向づけが与えられているということを意味します。だからこのような救いと愛を御子において示す神に召される生涯は、その途上で、時には過酷で混沌として、その意味が見出しにくいそういう期間が長く続くかもしれません。ユダヤ教徒として、キリスト教徒とその教会を迫害するパウロの人生もまた、神の召しに含まれているとするならば、わたしたちの人生の中で、無意味と思える瞬間にも、また希望なき苦悩の日々の中にも、変わらざる神の召しと導き、神の深い配慮の手が差し伸べられている事実を、信仰の眼で見ることができます。

どのような現実も神は変えることができますし、神は召しに相応しく変えられるお方です。人生の究極的な決定は、キリスト者が自分で気遣って決める事柄ではなく、神がなさることです。特に、人生の決断が迫られる時、そこに神の召しと導きを信仰の目で見ていく、という信仰を持つことが大切です。この事実を、信仰の目で見ることのできるものは、どのような苦難をも乗り越えることができます。神の導きへの信頼は、人生を悲観しない楽観的な希望へと変えてゆくことができるからです。

そして、自分が神の招きにおいてとらえられているという信仰は、自分に課せられた仕事を遂行するために非常に大きな支えとなります。人間は困難や危機に直面すると自信を失って、懐疑的になりやすいものです。しかし、それが神の召しから来る苦難であれば、召した方自身がその解決への道も開かれるのです。少なくともその信仰によって、平安が与えられるのであります。召しへの信頼に生きる信仰は、その召される神への導きを信じるのです。

神の召しと啓示を受けたパウロが、「すぐに血肉に相談せず、アラビアに退いた」ことが16節から17節にかけて記されていますが、この場合の「血肉」とは、人間のことです。ですからここには、人間的な手段に訴えることを一切しなかったということが述べられています。神の召しと導きに一切を委ねるのですが、パウロを召す神は、パウロがその決定的な召命を自覚し、転換へと向かわせる「御子の啓示」を受ける以前の、ユダヤ教徒として得た律法の知識や、パウロのその信仰に徹する伝道者としての気質や個性をも用いられる方であります。パウロ自身は、Ⅰコリント15:9において「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と告白していますが、そのような人物を、その人物の生きたそのような時をも、神は生かす形で召し出されるお方です。この恵みによる神の召し出しにわたしたちもまた与るものにされている、パウロの召し出しについて語る言葉の中には、そのような形でわたしたちのうちにも働いている神の恵みの働きを見る信仰へと導く光を与えてくれるのであります。

どんなかたくなに自民族中心主義のような信仰や生き方をしている人間でも、パウロを変えた神に、その人間を変えられないはずはない、ということを、パウロのこれらの言葉がわたしたちに示す働きをしてくれています。ごちごちのユダヤ教徒であったパウロを異邦人の使徒とした神は、伝統や古い宗教や愚像に支配されている人間の心をも支配し、変えることができる方です。神の恵みによる召しと導きは、今もわたしたちに、変わることなく、あらわされていることを覚えましょう。

自らをイエス・キリストという形で啓示した神は、過ぎ去るべき律法を予め承知しておきながら、アブラハムに語ったイスラエルの神(3:8)であり、また、パウロを生れる前から招いた神であります。「律法と預言者」(旧約聖書)は、パウロにとって聖書でありました。パウロは異邦人が完全なキリスト者になるためにユダヤ人にならなければならないと主張する人たちに反対していますが、パウロ自身はユダヤ人であることを捨てようとはしていません。神は、ユダヤ人であるパウロに過ぎ去るべきものの限界と、約束のものが来るまでの、それが持つ意味と限界をと知らしめ、イエス・キリストにある恵みの素晴らしさ、自由の喜び命の素晴らしさを示し、人を分け隔てしない神の恵みを語る使徒へと召した神の自由な恵みを、パウロの召命が物語っているのであります。

新約聖書講解