コリントの信徒への手紙講解

36.コリントの信徒への手紙一15章50-58節『死に勝つ神』

Ⅰコリント15章にはパウロが最も大切なこととして伝えた福音が記されています。その福音の中心にあるのは「復活」です。キリストの復活は「死者の中から」のものであり、死と向かい合っていきる人間に大きな慰めと励ましを与え、最後まで生き抜く勇気を与える言葉です。パウロはこの復活の希望を決して抽象的な言葉で語ってはいません。29節以下において、パウロは自らの信仰の戦いを通して、復活が如何にこの世の現実を生きる人間に、大きな勇気と励ましを与える言葉であるかを語ってきました。パウロはⅡコリント12:7以下において終生悩まされた肉体の刺について語っています。その刺を取り去ってほしいと3度祈って取り除かれなかった苦しみを持つパウロは、「死のからだ」における苦闘が何であるかを誰よりも知っていました。また、福音の宣教者として「日々死んでいます」といわざるを得ない戦い、苦闘の連続をエフェソで味わいました。パウロはそのような苦闘を通して、誰よりも切実に復活の約束に望みを置いて生きた一人の人間でもありました。

パウロは土に属する朽ちる「魂の体」(プシュキコン・ソーマ)に死者の中から復活したキリストの霊が宿るキリスト者は死ぬはずの体を生かされている、とローマ書8章11節で述べています。その意味で言えば、この世にあって霊を与えられていることによって、復活は既に始まっているということが言えます。この世と来るべき世との間に「からだ」の復活において連続性のある事をわたしたちは見てきました。

しかし、パウロは「肉と血は神の国を受け継ぐことはでず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできない」と50節においてきっぱりといっています。この世の体、このわたしたちの肉と血とがそのまま蘇生するのが復活ではありません。そういうものが「神の国を受け継ぐのでない」のだときっぱりといっているのです。生物学的な血肉は終止符が打たれるのです。血肉は復活しないのです。だが、そのようなものでしかない人間が「神の国を受け継ぐ」事があるとすれば、それはただ神によって成しうる神秘としか言いようがありません。だから、パウロはこれを「神秘」として語ります。

復活の出来事というのは、「神の国」の出来事です。「神の国」は、神の支配であるということを何度も申し上げてきましたが、復活は、神の直接支配する恩恵の出来事です。神の恵みに委ねて生きる人間に、神が起こしてくださる恵みの出来事です。神の恵みが支配することによって起こる出来事、それが復活です。

パウロは、復活は世の終末に起こる出来事として語っています。パウロは、キリストのことを「最後のアダム」といっています。これはギリシャ語では、ホ・エスカトス・アダムとなっています。終末のアダムのことです。イエス・キリストの十字架の死と復活において、終末(神の国)が決定的に来たからです。復活の主キリストが来られてキリストに属する人が復活させられて、世の終わりが来ると23、24節でパウロは既に明らかにしています。その時のしるしとして「最後のラッパ」が鳴ると52節で告げています。その時、一瞬のうちに、「死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」とパウロは告げています。「わたしたち」という言葉に、パウロは自分も含めて語っています。パウロはこの言葉において、終末は自分が生きている時代に訪れるという期待を持って生きていたことがわかります。この世界の終末の時は、すなわち「神の国の完成」の時でありますが、その時はキリストが「最後のラッパ」と共にやってきて、キリストを信じて死んだ人はみな復活して朽ちない者とされる、すなわち「霊の体」に復活するということが起こります。その時生きている人は、死を味わうことなく、朽ちない「霊の体」に変えられます。キリストにあっては死者も生者も一つにされ、同じ状態にされます。それが復活の出来事です。使徒信条の「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者を審きたまわん」という出来事が終末における主の再臨によって起こる復活において実現するのです。

ここでパウロが述べている大事なポイントは、これらの出来事が神の恩寵として起こる変化である点です。「血肉」の時代が終わり、「朽ちるもの」の時代が終わることによって、血肉が神の国を継ぐことができないことを明らかにする終わりが来る。この世の終わりとしての断絶の時が告げられています。しかし、それは単なる終わり、「血肉」としての人間、「朽ちるもの」としての人間存在の単なる終わりを意味しないのです。朽ちるものでしかない人間が復活のキリストにあって、「朽ちないものを着せられる」ことによって一瞬にして変わる復活が起こるのです。

「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」といわれています。わたしが努力して変わるのではない。血肉の人の努力によって神の国を受け継ぐことはできない。しかし、神の恩寵によって朽ちないものを着せられて変えられるのです。「わたしたちは皆」例外なしにこの恵みに与るのです。神は終末の時、すなわちキリストの再臨の時、キリストを信じて死んだ者、その時生きている者を復活の霊の体に変えてくださるのです。

復活の第一の意義は、それが神の恩寵として起こるということにあります。第二の意義は、それが死への勝利であるということにあります。

人間が死に脅かされているのは、死の刺である罪を帯びているからです。この罪の刺が取り去られ無力化されるまで、私達は死に打ち勝つことができません。パウロは、死の刺である罪を帯びて死んでいく、朽ちていく人間の姿を、裸になっていく状態としてⅡコリント5:3で語っています。それは、ユダヤ的な黙示文学的表現です。裸は陰府における存在様式なのです。裸のままでは存在し得ないのです。生者も死者も恩寵による変化としての審判を通して、改めて神から「朽ちない」衣を着せられねばならないのです。この衣を着せられない限り、誰も復活させられることはないのです。53節の「必ず着ることになります」という言葉に注目してください。神の国の相続としての復活は、人間の必然として起こるのでありません。それをなしうるのはただ神のみです。神の恩寵の必然の業として起こる、ここに私たちの大きな希望と慰めがあります。復活のキリストの霊の衣が着せられ、完全に裸のわたしたちの体を蔽うのです。神の恩寵が裸のわたしたちの全存在を蔽うのです。神の恩寵だけが私たちを支配することによって「霊の体」に新しくされる再創造としての復活がここに語られているのであります。

「着る」という言葉で表されているのは、神の恩寵が、キリストにある者とされているキリスト者を蔽い、その罪を蔽ってしまい、死の刺としての罪を滅ぼしてしまう(56節)、最後の敵としての死を滅ぼす支配(26節)が、実現するということであります。

今、肉の弱さ、死に悩まされている人間を襲うのは、「罪の刺」です。それは、神からわたしたちを引き離し、滅ぼそうと襲いかかってきます。しかし、その力は既にキリストの復活によって滅ぼされました。そして、その勝利者キリストが完全に滅ぼして世の終わりをもたらしてくださるのであります。キリストがご自分に属する者とした死者と生者をご自身の霊の衣で蔽い、霊の体に一瞬のうちに変えることによって、その勝利をもたらせてくださるのです。

54、55節はイザヤ書25章8節とホセア書13章14節からの引用ですが、文字通りの引用ではありません。

その勝利は神のものです。神が主キリストにあってなしてくださるところの勝利です。キリストにおける復活にわたしたちを与らせることによって、その勝利をわたしたちのものとしてくださるのです。57節の「私たちの主イエス・キリストによって」の「によって」は、前置詞エンです。英語のインです。「主イエス・キリストにあって」です。主イエス・キリストの中にわたしたちを入れて、神がしてくださる出来事が復活です。死の刺である罪に支配されている朽ち果てる裸の存在であるわたしたちを、復活の主イエス・キリストの霊が包み込むのです。やさしく毛布で包み込むようにして抱きかかえてくださることによって、罪の力は無力になり、死は滅び、わたしたちは霊の体に復活するのです。パウロは、この勝利をわたしたちに与えるのは神であるとはっきりといっています。神はその愛を、キリストを通して示されます。神は、キリストにあって罪を取り除き、わたしたちを死ぬべき朽ちるべき体から解放し、霊の朽ちない体へと変えてくださるのです。「神は勝利を賜る」のです。復活は神の恩寵として起こる出来事であります。

血肉は神の国を継ぐことはできないけれども、その体を持っていた人間が霊の体に変えられるのですから、その人間の業、地上の労苦もすべて顧みられることになります。だからパウロは最後に、「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」、と告げています。

顧みられるのは「主の業」であります。「主に結ばれている」「労苦が無駄にならない」のであります。「主の業」とは、何よりも主ご自身の業であります。主ご自身の働きであります。それゆえこの句は、「主の業に参与せよ」との命令であります。律法によっては罪の自覚が生じ、わたしたちは神の前に罪人でしかないことを知らされるだけでした。だから、主キリストの恩寵の下に生きねばならないという信仰へと導く働きしかしませんでした。しかし、キリストの復活に与るものにされているわたしたちは、キリストにある労苦の報われることを知るものとされているのであります。主に仕えるものとしての労苦は決して無駄にならないのです。わたしたちの人生には無駄な労苦が一杯あります。しかし、主にある労苦は、その主宰者が主キリストであり、そのお方は成就を約束してくださる方であります。その約束の下での営みですから無駄に終わるはずがないのであります。

新約聖書講解