コリントの信徒への手紙講解

35.コリントの信徒への手紙一15章35-49節『神は、御心のままに』

ここでパウロ復活の体について論じています。ここに書かれていることは非常に重要なことで、慰めに満ちた言葉が書かれています。しかし、このところは容易に理解できるところでもありません。注解者泣かせのところで、注解者の意見も大変分かれているところでもあります。パウロの議論の論点をしっかり捉えられないと、正しく理解することができません。

さて、パウロは、「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」と聞く者がいるとすると、その人に向かって、「愚かな人だ」と語っています。この問いは、実際にコリントの教会から寄せられたものではありません。パウロは、死者の復活を否定する人、すなわち体の復活を否定する「神について何も知らない人」(34節)が発するであろう質問を予想してこう語っているのであります。それを合理的に説明してもらえば信じようという意図を持ってなされる質問を発する人に向かって、パウロは「愚かな人だ」と答えているのです。

わたしたちは、そのパウロが語ろうとする意味を知るために、カルヴァンの注解を聞くことが大切であると思います。カルヴァンはこう言っています。

「この信仰箇条ほど、人間理性に反するものは何もない。今朽ちるべきはずのこの肉体、それが腐ったり、火で焼き尽くされたり、獣に四肢を裂かれたりした後で、再び完全な形に作り直されるばかりか、前よりもずっとすぐれた性質のものになるということを、いったい、だれがわたしたちに納得させることができるだろうか。神のほかないのではないか」と。

目の前で死んでいく人間、腐っていく屍、あるいは火で焼かれてその形を失っていく体を目の前にして、死者の復活を語ることは、人間理性には到底受け入れないことのように思われ、神の隠れた力を信じない者にはそうとしか思えないといっています。復活という神の力による出来事を、人間理性で説明することは不可能であることを人は認めざるを得ません。だから、パウロはそのような説明を求める人は、「愚かな人だ」といっているのです。説明してもらっても、その人はきっと納得しないでしょう。その人は神を信じていないからです。死者を復活させる神を信じていない人に向かって、いくらパウロといえども理性による合理的な説明はできないといっているのです。そして、冷静な神学の論理を構成できるカルヴァンですら、「この信仰箇条ほど、人間理性に反するものは何もない」といって、愛する者が死んで火で焼かれた変わり果てた姿を見て悲しんでいる人を見て、復活を理性的に語って慰めることの困難、不可能を語っていることに、注目する必要があります。

パウロはここで復活の体について語っていますが、パウロがここで行なっている説明は、決して理性に訴えるような理路整然とした合理的な説明ではありません。

パウロはいくつかの譬を用いて地上の体と天上の体の違いを語っているだけです。特に最初に穀物の種が蒔かれて朽ち果て、立派に成長し実を結ぶ姿を連想させながら、種は蒔かれて死なないと命を得ないように、人間の体も蒔かれた種のように死ななければ命を得ない、と語っています。この説明は決して合理的でありません。ただ種が蒔かれ、蒔かれた種が朽ちて死に、実を結んでいくことは不思議であっても、その事実を人間は知っています。どのようにしてそうなるのかわからなくても、それが起こることを知っています。復活の出来事もそのようなものであると、パウロは示しているだけです。

復活についての合理的な説明が不可能であるとしたら、いかなる意味でも説明のしようがないのか、パウロは説明を断念してしまっているかというと、そうでもありません。パウロは、ただ一つの説明、ただ一つの可能性を示しています。38節において、「神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」、とパウロは述べています。

人間を種として語るパウロは、それに体を与える神について語っています。そして、45節において、「最初の人アダムは命のある生き物となった」と創世記2章7節の御言葉を引用していますが、人間は神の創造行為によって生きるものとなったという事実を、パウロは何よりも強調しています。わたしたちの生の出発において神の創造行為があった。それ以前に神の御心があったことを説明しています。神の御心によって、土の塵からご自身にかたどり命の息を吹き入れて生きるものにされた存在が人間です。神の御心による創造の働きを抜きにして人間の存在を考えることができないとしたら、復活もまた、神の御心による再創造の働きとして捉える以外に、真の理解の道筋はありえません。

最初の人アダムは神によって命あるものとされたのです。それは、唯神の御心のままになされた神の恵みによる創造の業でありました。人は神の恵みによって命あるものにされた、という創造を認めることができるなら、復活の業についても同様に理解することも困難ではありません。土の塵で人をご自身のかたちに似せて造ることのできる神が、人の朽ち果てる体を朽ち果てない天上の体に復活させることが不可能であると考えることの方が不可能である、と考えるのが信仰の論理です。私たちには見ることも理解することもできない事柄であっても、それが「神の御心」としてなされた、「体を与える」神の創造行為であるなら、不可能ではないと信ずることはできます。パウロは理性に訴えているのでありません。ただ神の御心による恩恵を、信仰の目で見、理解することを期待しているのです。

しかし、だからといって、信仰の論理が非論理だといっているのでもありません。信仰には一貫した論理があります。その論理の一貫性は、神の御心、恩恵の業の一貫性です。それを見ることが大切であります。

「神は、御心のままに…一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」という個別性がいわれています。神の御心による恩恵の創造の働きとして生かされる一つ一つの命の尊さが語られています。この個別の命が朽ち果てて、死に向かうのですが、復活もまたこの「一つ一つの種」としての個別的人間存在を離れて存在しません。死を「朽ちる」という言葉で表現していますが、「朽ちるもの」に対応する「朽ちないもの」への復活は、別種のものへの復活ではありません。ここでは、朽ちるものが朽ちないものを着ることによる復活が語られているのです。朽ちるものと朽ちないものとの間には、全く同一ではないにしても、同一性があり、連続性があります。それは、蒔かれた穀物の種と成長した穀物との間にある同一性と連続性と同じ関係があります。どんなに違った姿、栄光に満ちた霊のからだであったとしても、その霊の体と地上の体との間には同一性と連続性が保たれているのです。43節の言葉がその事を明らかにしているのであります。

44節は、「自然の命の体」に対応するものとして「霊の体」のことが語られています。普通、「霊の体」というとそれと対応するのは「肉の体」と考えるのが自然なように思えますが、パウロはそうはいっていません。新共同訳の翻訳も少し問題があります。原文は「自然の命の体」は、プシュキコイ・ソーマで、直訳すると「魂の体」です。プシュキコイ・ソーマと「霊の体」プニューマティコイ・ソーマとが対になって語られているのです。パウロはグノーシス主義者が魂(プシュケー)の不死を信じているのを知っていますから、彼らが「魂」の不死としての復活を語れば理解しやすいことも知っています。しかし、復活はあくまでも魂だけの復活、不死が問題なのではなく、「ソーマ」からだの復活が重要なのです。しかし、プシュキコイ・ソーマが朽ちて捨てられ、プニューマティコイ・ソーマとしての「霊の体」に復活すると単純に語られているかというとそうではありません。そうであるなら、神の恩恵としての創造行為全体が否定されることになります。天上的なのものに対して地上的なものが「卑しい」とか「弱い」とか「朽ちる」という表現が取られていますが、完全にそれらが捨て去られているのでありません。

この復活についての議論は、パウロの別のところでの議論と比較して理解する必要があります。(Ⅱコリント5:1-5、ローマ書8章9-11参照。)

プシュキコン・ソーマ(魂の体)はプニュウマティコン・ソーマ(霊の体)を着る、それが復活の意味です。プシュキコン・ソーマ(魂の体)は、死すべき、朽ち果てるべきものであっても、プニュウマティコン・ソーマ(霊の体)を着ることによって、復活の体としてそれも生かされる、そこに完全聖化の道が語られています。神による創造の御業の完成、朽ちるべき体を持ち、その弱さに日々悩み苦しんでいる者への真の慰めが語られています。

最初(プロトコス)の人アダムは「命ある生き物とされる」受け身の存在でしかありません。どこまでも神の御心、恩恵の対象とされる存在です。しかし、最後(エスカトス)としてのアダム(キリスト)は、「命を与える霊」となられたのです。この方の霊(プニュウマ)を受ける、この方の霊を着る者は、朽ちるべきプシュキコン・ソーマであっても、その上にプニューマティコン・ソーマを着せられて朽ちない復活の体とされる。そのようにして最後のアダムであるキリストはわたしたちの体も魂も生かす方として救い主であられるのです。

ですから、復活は終末における出来事でありますけれども、復活は既に現在のわたしたちの体と魂において起こっている出来事であるということができます。ローマ書の8章9-11節の御言葉は、キリストの霊の内住において起こっていることが、始まっていることとして語られているからです。

49節の御言葉もその事をさらに確証してくれています。「天に属するその人の似姿になる」は、「エイコーン(似姿)を着る(身につける)」土に属する人の似姿を着た人間が「神のかたち」としての存在です。その姿は罪によって、朽ちる存在となっていますが、天に属する人(キリスト)の似姿を、その方の霊を着ることによって、朽ちない復活の体、栄光の体とされる、キリストと同じ状態にされる、という恵みが語られているのです。そして、このことが、御心のままに体を与える神の恵みとして語られていることが重要です。神の恵みとしての復活、救いを信じることが、これを理解する唯一の道であります。

50節において語られているとおり、そのままでは神の国を受け継ぐことのできない血肉の存在でしかない、第一のアダムに属する私たちを、神は恵みによって、第二のアダム・キリストに属するものとしてくださる、プシュキコイ・ソーマをキリストのプニュウマを着せて神の国の相続人にしてくださる。それにふさわしい復活の体としてくださる。この地上のキリストにあるすべての労苦をそのようにして顧みてくださる復活が、ここに語られているのであります。

新約聖書講解