コリントの信徒への手紙講解

32.コリントの信徒への手紙一15章12-20節『復活、キリスト教信仰の核心』

キリスト教は希望の宗教です。今私たちが守っています礼拝には、わたしたちの罪のために死んで復活された主イエス・キリストが臨在しておられます。わたしたちは、キリストの復活による希望を与えられています。わたしたちの罪のために死んで復活された主イエスとの交わりをもち、この方の言葉に耳を傾け、この方の命によって新しい命に入れられていることを心から感謝し、その喜びを神に向かって褒め称える、そういうすばらしい時が礼拝の時であります。

キリスト教信仰の希望とは、同章3-5節にある福音の言葉です。その福音の中心にあるのは「わたしたちの罪のために」なされた、キリストが死者の中から復活されたという事実です。

パウロは12節から、コリント教会における復活理解の問題に入って議論を進めています。この手紙はキリストを信じない未信者に宛てて書かれた手紙でありません。キリストの復活を信じる人たちに宛てて書かれたのです。この手紙の受取人は、クリスチャンですから、キリストの復活が「わたしたちのために」なされたということも信じている人たちです。

しかし、12節の文章は「わたしたちのために」なされたキリストの復活を、「死者の復活」と区別して理解する人たちがコリントの教会に居たことをうかがわせる書き方となっています。ギリシャ人には霊魂の不滅を信じるには受け入れやすい土壌が既にありました。プラトンのイデア論にしても、グノーシス主義にしても、霊魂にとって肉体はその自由を束縛する存在として否定的に見なされていました。だから、死者の体が復活するということは、浄化された完全な霊の状態にある魂が、再び肉体に縛られることになるので、とんでもないことと考えられた可能性があります。

グノーシス主義に立つコリントの信徒は、キリストの死と復活を霊的な自由として捉えようとしたのです。キリストは霊において肉体に縛られず、自由において死に、そして復活された、それを自分たちも信じる。その信仰において自分たちは霊的に覚醒したものとなり、その信仰の認識において自由な者である、という風に理解していたのです。

しかし、キリストの死と復活は、彼らの理解とは異なるものです。
12節は、「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに」、という言葉で始まっています。福音の内容は「キリストは死者の中から復活した」というものです。この言葉に注目してください。キリストは単に死の状態から復活した、とは言われていません。「キリストは死者の中から復活した」と言われているのです。これが宣べ伝えられた福音の内容です。キリストは神の前に霊において自由な一人の人間として神の義を行ない、生き、死に、その魂は完全な自由を得て復活したと言うのではないのです。キリストの死がそういう死であれば、単なる生き方の模範、自由の体現者としての模範でしかなくなります。

しかし、キリストが私たちにとって希望なのは、「キリストは死者の中から復活した」お方だからです。神の前に罪を犯し、その罪に敗れている存在である「わたしたちのために」その罪を背負い死なれた、これがキリストの十字架の意味です。その罪に体も魂も含む私たちの全存在が関わっています。私たちの全存在の贖いが必要なのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストによる永遠の命なのです」とパウロはローマ書6章23節で述べています。キリストの贖いにおいて私たちの罪の支払う報酬としての死が滅ぼされる必要があるのです。それには、体の贖いが含まれているのです。

ですから、福音の内容である第二の言葉に「葬られたこと」がある意義は、復活の言葉と結び付けて初めて明らかになります。葬られたのはキリストの体です。復活したのもキリストの体です。しかもそのキリストの体の復活は「死者の中から」なされたのです。罪に死んでいる「死者の中から復活した」、それがキリストの復活です。

「わたしたちのために」ということを精神的にとり、内面化して理解したのでは、福音のメッセージを曲げることになります。それでは福音にならないのです。パウロは、「死者の復活がなければ」、キリスト教宣教もわたしたちの信仰も全く無駄で馬鹿げたものとなる(14節)、といっているのです。宣教の業と信仰が無駄であるだけでない、そんな事を伝える人間は、神を偽って伝える偽証人である(15節)、とさえパウロは言っているのであります。

キリストの復活の出来事において一番重要なのは、わたしたちの罪のために十字架に死なれたイエスが復活されたということであります。キリストの復活はわたしたちの罪が赦されたことを宣言する意味を持っているのです。だから、キリストを信じるわたしたちは、もはや罪に定められることがないのであります。キリストにあって神は、わたしたちを愛してくださっているのであります。その愛は、父の御心を信じ、私たちの罪を贖うために十字架に死なれたイエスを神が復活させたことにおいて、神はイエスご自身に対して示し、また、イエスを信じるすべての者に対して、復活という事実を持って、真実なものであることを明らかにされたのです。

罪の支払う報酬としての死がキリストの十字架において滅ぼされました(26節)。その事実を証言するのが、「キリストは死者の中から復活した」(12節)というメッセージです。だから、このメッセージは、希望の言葉となるのです。

キリストを信じて既に死んだ者、今生きていても死んでいくわたしたちも皆、キリストにあって復活の命を共にあずかっています。死者の復活がないとするなら、キリストが復活したといっても無意味ですし、パウロは、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかった」というのです。この二つは切り離せないのです。切り離してキリストの復活だけを信じる信仰は無意味ですし、またキリストの「体の」復活を信じない、復活の信仰も無意味です。

「キリストは死者の中から復活した」という言葉は、終末の時における復活の約束としての意味をもっています。さらに、現在の私たちの生に関わる積極的なメッセージがそこに含まれています。

週のはじめの日曜日をキリスト教会は「主の日」として礼拝を守る日にしています。それは、この日がキリストの復活された記念の日であるからです。そして、この日は天国の前味を味わう日でもあるからです。キリストと共にある神との完全な交わりに入れられている喜びを先立ってこの地上にあって味わえる日、それが主の日の意味です。わたしたちは、礼拝において復活の主を記念し、復活の主の臨在の中で過ごすのです。「キリストは死者の中から復活した」という事実をこの礼拝において、聖餐において証するのです。

聖餐の喜びということが時々話題になります。しかし、聖餐の喜びは、「キリストは死者の中から復活した」方として、今ここに聖霊を通して臨在しておられるという事実を信仰の目で見ることのできる者にはいつも新鮮に味わえるものなのです。この事実を私たちは自分で創り出すことはできません。神がキリストにあってしてくださったこのよき業を信じるときに与えられる喜びです。

だから、「キリストは死者の中から復活した」というメッセージを正しく聞かず、キリストの復活とキリストを信じる私自身の復活とを結び付けて受けとめる信仰をもたないと、わたしたちの信仰は、パウロが19節で言うとおり、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけ」になってしまいます。単なる心のよりどころ、やさしい哀れみの声をかけてくれる人程度になってしまいます。その程度の望みでしかないなら、「わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」となってしまいます。

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)とパウロはいっています。パウロはユダヤ人です。パウロはユダヤ人が神の前に収穫を感謝する礼拝のときを頭に描きながら、この言葉を述べているのであります。ユダヤ人は収穫の初穂を神に捧げます。その行為は、収穫は神の恵みによるものであり、これからもたらされるすべての収穫を神に捧げますという献身を表す行為です。そして、収穫のすべてが神に祝福されるように願って捧げられるのであります。ですから、イエスの復活が初穂といわれるとき、それは死者の復活を待ち望むすべての人にとって、終末における神の恵み、復活を先取りする出来事として、語られているのであります。

キリストの復活は、わたしたちの希望です。キリストの復活は、わたしたちを死者の中から復活させる言葉として希望の言葉です。だから、キリストの復活を信じることは、キリスト教信仰の核心であるのであります。わたしたちは、この希望によって生きるのです。

新約聖書講解