コリントの信徒への手紙講解

31.コリントの信徒への手紙一15章1-11節『この福音によって救われる』

キリストの十字架と復活は、福音の内容であり、両者は切り離すことができない神の救いの出来事であります。パウロは、これを「生活のよりどころ」であるといっています。また、この福音をしっかり覚えていれば、「あなたがたはこの福音によって救われます」と述べています。

「生活のよりどころ」という言葉を、原文に忠実に訳すと「それによって立つ」となります。口語訳と新改訳聖書はその様に訳しています。福音の内容であるキリストの十字架と復活の言葉は、私たちの生の全体の立たせるものであるとパウロは述べているのであります。だから、これさえしっかり覚えていれば、どんな困難な状況に立たされても「この福音によって救われる」とパウロは言うのであります。

3節後半から4節にかけて、パウロは福音の内容を三つの言葉で説明しています。「キリストが聖書に書いてある通りわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと」これを、キリスト教会に伝えられている福音の内容であるとパウロは述べているのであります。

福音は「キリストが…わたしたちの罪のために死なれた」という言葉ではじまります。私たちのよって立つ信仰はこの言葉の理解からはじまります。救い主としてのキリストは、「わたしたちの罪のために死ぬ」使命を帯びて世に来られ、その使命を全うされた。そのゆえに、わたしたちの救いはある、という告白がここになされているのであります。言い換えれば、聖書の言葉はそこから読まないと真の理解はできないのであります。

「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6:23)とパウロは述べています。キリストが私たちの罪のために死んだのであれば、私たちの罪を背負って死なれたイエスが復活されたという出来事は、わたしたちの罪が取り除かれ、死に打ち勝つ命あるものとしての取り扱いを受けているしるしとしての意味を持つことになります。キリストを信じ受けいれているわたしたちは、罪が原因で死ぬことはない者にされている。だから、最も大切なことして、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」(Ⅰコリ15:3)、が最初に語られているのであります。

次に、キリストが「葬られたこと」(4節)が語られています。キリストは、私たちの現在の生と死後の命の主です。私たちの初穂として復活されたお方です(20節)。わたしたちは、キリストをそのような方として理解し、信じることが求められています。だから、キリストの十字架と復活の言葉を信じる者には、「よって立つことのできる福音」となるといわれているのであります。復活との結びつきの中で、キリストの葬り、キリスト者の死後の葬りについて理解することが大切です。キリストは私たちと同じ肉体を持つ人間性をもって世に来られた救い主です。だから、キリストが「葬られたのは」、その肉体が死んだということの確認がみんなの前でなされたということであります。キリストの死が私たちの罪のための死であるなら、その葬りに私たちの死の葬りが同時になされていることになります。この滅び行く肉体、そのわたしたちの生の全体がキリストと共にあるのです。キリストはそのわたしたちの悲しみを自らの墓の葬りによって葬り去ってくださる救い主として、私たちの前におられるのであります。ここに大きな慰め、喜びの知らせがあるのであります。

そして次に、このキリストは聖書に書いてあるとおり、三日目に復活したと語られています。キリストの死が肉体と魂を持つ人間性全体に及ぶわたしたちの罪のためのものであるなら、その復活は「肉体と魂」を含むものであります。わたしたちは、キリストの復活によって、私たちの人間性全体が神の肯定の光の下に置かれているということになります。だから、この福音はわたしたちの「生活のよりどころ」となりうるのであります。現在の時を、神の肯定の光の下に置かれているので、精一杯力を尽くして生きる価値が既に与えられているのであります。地上の生涯で経験する喜びも悲しみも労苦もすべて、神はキリストにおいて顧みてくださっているのであります。それが本当に分かるのは、キリストがわたしたちの罪のために死なれただけでなく、私たちの初穂としての復活をされ、私たちの希望となってくださったという、事実を信仰の目で見ることによってであります。

だから、パウロは自分が伝えた言葉を「しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます」(2節)といいきることができるのであります。

パウロはこの復活理解の大切さを強調するために、復活の主が「ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」(5節)を伝えています。パウロは、復活の主の「現われ」を、他のどの事柄よりも詳しく語っています。そしてそれを、パウロ自身にも起こった出来事として語っています。復活の主の顕現は、福音理解において決定的であります。復活の主との出会いがキリストへの信仰を確信させ、揺るぎ無いものにし、人間の実存を根底から変革し、教会を創設する出来事であったからであります。パウロ自身が、復活の主との出会いにおいて、神の教会の迫害者から、福音の宣教者・使徒となる大転換をすることになった(9,10節)、といっているのであります。

「現れた」という言葉が、5-8節の間に6回も用いられています。復活の主は、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れ、そのうちの何人かは今なお生き残っている(5,6節)と述べ、教会には、これだけキリストの復活を証言する人がいたという事実が語られているのであります。しかし、これをもってキリストの復活の歴史的事実を科学的に証明できるかというと、そうはいえません。パウロは、この議論を科学的な証明のために行っているのではありません。復活の主が多くの人に表れ、復活の主と出会った多くの人が、主イエスが復活されたということを証する証言者になったという事実だけを強調しているのであります。

パウロがここに挙げている復活の証人のリストは、復活を信じない者に、どれだけ多く歴史的事実として受け入れられているかを語ろうとする証拠としてあげられているのではありません。教会の中で今なおどれだけ多くの人が復活の主と出会い、主の復活を信じ、復活の証言者となっているかを示すためであります。ここにキリストの復活の出来事を見る視点、福音理解の鍵が示されているのであります。

「現れた」という言葉は、ギリシャ語ではオーフテーです。オーフテーは、「見る」「気づく」「体験する」などの意味を持っています。ホラオーという動詞の受動・アオリスト形であります。この受動形に注目すれば、「見る」行為の主体は証言者たちですが、文法的には、行為の主体を復活者として、「復活者が自分を見せた」という意味に解することもできます。さらにヘブル語的思考からすれば、受動形を神の行為の間接的な表現とみなし、「神が復活者を見えるようにさせた」という意味に取ることもできます。そして、「見る」という意のホラオーを原語としていても、それは必ずしも視覚による経験であるということはできません。とくにヘブル的な思考法において、視覚によるよりも聴覚による啓示、神の言葉に聞き従うことが重んじられていることを覚える必要があります。

パウロはここで、復活の主との出会いを、彼の回心体験と結びつけて語っています。パウロの生き方を根本的に変えることになった出来事を8-10節に語っています。

9章1節でも、「わたしたちの主イエスを見たではないか」といっていますが、パウロは復活者との出会いを、決して世界の中で起こる普通の出来事の一つとして語っているのではありません。しかし、きわめて現実的な出来事として理解しています。パウロは復活の主との出会いの体験を、自らの使徒性の根拠として語っています。ここでも、パウロは使徒たちの中で自分は「月足らずで産まれたような」存在でしかない、「使徒たちの中で一番小さい者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」といって謙遜していますが、パウロはキリストの復活顕現を見る経験をした使徒として、自分が福音を宣べ伝える資格あるものであることを、主張しているのであります。

パウロはそのような復活の主との出会いを神の恵みと受けとめています。神の恵みによって、他のすべての使徒よりもずっと多く働くことができたことを感謝しているのであります。そのように復活の主の現われを経験させられた証人たちによって、福音が宣べ伝えられ、復活信仰が代々の教会に受け継がれることになったと述べているのであります。

神の教会を迫害していたパウロに復活の主が現れて、ご自身を啓示し、福音を宣べ伝える使徒として召された出来事を、パウロは神の恵みとして語っているのではあります。イエス・キリストがわたしたちの罪のために死に、復活された、という知らせは、神の恵みとして与えられるのであります。神の教会を迫害する罪深きパウロのためにも、キリストが死んでくださり、復活してくださったということを、パウロは復活の主との出会いにおいて深く知らされたのであります。キリストはわたしの生をまるごとかかえ、救っていてくださる、そのことがわかり、それを信じたから、パウロは何も恐くないのです。すべてが感謝、すべてが恵みの人生に変わったのであります。使徒の中で一番小さい者であっても、他のどの使徒よりも多く働きました、といえるものとされている喜びを知っているのではあります。

「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」(10節)、とパウロは述べています。

神に自身の命が守られているという喜びを主の復活との出会いにおいて体験して、あなたもその同じ恵み喜びに与ることができるのですと、証しする人間に変えられて福音を語る者にされている。パウロはそういう人間の一人として、「わたしと共にある神の恵み」(10節)をいつも覚えて、福音を宣べ伝え続けてきたというのであります。

しかし、わたしたちにとって福音(良い知らせ)は、それを告げ知らせる者がいなければ知ることができません。わたしたちにとって、福音は告げ知らされた喜びの使信であるのであります。だから、聞く者もそこに神の恵みが現れていることを信じる信仰が求められるのではあります。

パウロは、ローマ書10章16—17節において、イザヤの言葉を引用して、福音は聞くことから始まる、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と述べています。復活の主との出会いは、福音の言葉を聞き、それを信仰の目で見、信仰の耳で聞くこと以外にない出来事であることを、このⅠコリント15:1-10において述べているのであります。

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