コリントの信徒への手紙講解

16.コリントの信徒への手紙一6章12-20節『聖霊の神殿としての体』

この御言葉は、キリスト者に与えられている自由に関するものであります。わたしたちは主キリストにあって自由なものにされています。しかし、その自由は自分のやりたいことを実現するために与えられた自由ではなく、主イエス・キリストとの交わりの中で生きる自由、主キリストへの信仰、主キリストに向かう自由として与えられているものであります。

キリストにあってなされる罪からの解放は、神から離反させる罪の力で支配する世からの解放を意味します。その意味で、キリスト者は、「わたしには、すべてのことが許されている」と世に対して主張することのできる存在となっています。

しかし、キリストとの関係を考える時、その自由は、主キリストに対して同じような意味で主張しうるかというと、そうは言えません。また、世に対し主張する「すべてのことが許されている」という内容についても、救い主キリストとの関係から、その自由はある制限の下におかれていることも考えなければなりません。ですから、キリスト者の自由の問題を考えるということは、徹底してキリストにあって与えられている救い、終末的な次元から現在を見て、はじめて結論の出る問題であることを理解しておく必要があります。

この同じ命題を宗教改革者マルチン・ルターは、「キリスト者の自由」という本の中で展開しています。ルターは、「キリスト教的な人間」とは何か、キリスト者にキリストが確保している自由は何かを問い、二つの命題を掲げました。その命題というのは、第一に、キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主であって、何人にも従属しない。第二に、キリスト者はすべてのものに奉仕する僕であって、何人にも従属する、というものであります。ルターは、このテーゼをⅠコリント9章19節の「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました」というパウロの言葉から展開していますが、この「キリスト者の自由」の理解は、6章における「みだらな行い」における議論と基本的に一致しています。

キリスト者が得ている自由は、キリストの救い、即ち、その十字架と復活の力と恵みに与ることによって得ているところのものである限り、その救いの事実との関係を正しく理解して、用いる必要があります。キリストにある救いとの関係を正しく理解して自由の問題を論じないと、その自由は「益をもたらさない」とパウロは言うのであります。

パウロはまず、自由の問題を、人間の最も本能的な欲求である食べることと性に関することとの関連で論じています。人間はお腹が空きますと必然的にものが食べたいと思うようになり、食べるという行動をとります。それは、人間の健康を維持するために摂理的に与えられている本能でありますから、それ自体を罪悪視することはできません。しかし、この本能における人間内部の関係はいつまでも存続するものではなく、「神はいずれをも滅ぼされます」と、パウロはいっています。食べることに一生懸命な人間は滅びると言っているのではありません。食べることによって命を支える働きは、永続的な働きとしては残らないという意味で言っているだけであります。また、食べることの現実的な健康の問題を見ても、食べたいだけ食べる人は健康を害します。また、その人の健康上で食べてはいけない物を食べたり、限度以上に食べる人は、健康を害します。健康を維持するためには、食べる欲望から自分を自由にする禁欲も大切なことです。つまり、食欲のことに関して言えば、人間は、食べる自由も、食べない自由もあります。食への欲望に縛られている人間は、その奴隷になっています。人間は、自分のしたいことの奴隷になって、その願望の奴隷になって、それに縛られて自由に生きられない問題を、最も人間の本能として現れる、食べることから、パウロは論じているのであります。

もう一方の本能である性的な欲求については、パウロは少し違った見方をしています。性的欲求自体は子孫保護の上でも、夫婦生活の上でも、聖書は否定的な見方をしていません。パウロも否定的な見方をしていません。しかし、その用い方によって、わたしたちは、自分がだれのものであるかを明らかにすることになると、パウロはいうのであります。

パウロがここで問題にしているのは、子孫保護の目的でなされる性的な結合関係、また夫婦の間であるなら認められる行為から逸脱した、「みだらな行い」についてであります。それをパウロは主のために生きるものとされている私たちの信仰のあり方を否定する行為として退けますが、ここでのパウロの議論は単なるキリストにある救いが体との関係において持っている本質的な意義から論じていることに、特に注目する必要があります。

パウロは、「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです」と述べています。その理由は、「神は、主を復活させ」られたという事実の中にあることをパウロは強調しています。キリストがわたしたちを罪から解放するために、その罪を背負い十字架に死なれ、朽ちない栄光の体をもって復活されたということは、キリストに救われたと信じるわたしたちが、キリストの十字架と共に罪の全存在が死に、キリストの復活と共に罪から解放された栄光の朽ちることのない体に復活させられる者とされている、ということを意味しています。わたしたちの体は、キリストにある救い、キリストとの結合関係にあるわけですから、その意味で、「キリストの体の一部」にされているのであります。ですから、決して自分の思うままに振る舞うことができなくされているのです。わたしたちは、キリストの栄光の復活の体に終りの日に与かるものとされている、という信仰に生きているのであります。わたしたちの地上の「肉体」は滅び行くものですが、キリストと結合した「体」は、すでに復活された栄光のキリストと結合し、「キリストの体の一部」とされている、という自覚の下に生きる、それがキリスト者のあるべき生き方なのです。命の主であるキリストへの信仰によって、キリストに徹底して仕える、キリストとの交わりに生きる自由を確保することによって、罪の奴隷となることから自由にされているのです。だから、性的にみだらな行為から身を守るその行為は、自分の命を永遠に保つお方がだれであるかを、その行為によって告白することになるのです。

反対に、娼婦に身を委ねるような「みだらな行い」をするなら、わたしたちは、その交わる者を主として生きていることを告白することになる、とパウロはいうのであります。「交わり」という、礼拝にかかわる宗教的な意味を持つ言葉をあえて用いてパウロが語ったのは、その行為によってだれを主としてわたしたちが生きているかを明らかにすることになるということを強調するためであります。

キリスト教信仰において、霊的な生き方というのは、魂の内面にかかわるあり方だけが問題なのではなく、キリストの体の復活において明らかなように、体と魂の両面が最初から救いの対象とされているわけですから、体を含む生き方全体が神の前に問われていることを覚えるべきであります。

ここに、なぜ、わたしたちは、みだらな行いを避けなければならないかという根本的な理由があります。わたしたちの存在がキリストの救いに与り、キリストと結合し、体も魂も共に復活のキリストの栄光に与かるものとされているのなら、「みだらな行い」は、自分自身の体に対して犯す罪となると、パウロは言うのであります。

それだけではありません。終末的な次元における復活の問題からだけでなく、現在既に与えられているところの、その終末の出来事を先取りするかたちで与えられている聖霊との関係で、わたしたちは、「もはや自分自身のものではない」ということを認識すべきだと、パウロは述べているのであります。

パウロは、19節において「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」であるといっています。これはギリシャ的なものの見方と根本的に異なる身体観です。ギリシャ的な人間の救済は、霊魂のみに関わる問題として理解されています。だから、娼婦と交わるような生き方をしていても、肉体を含む人間の全存在を救いとする考えは、まさにギリシャ的な土壌に育ったコリントの信徒たちにとって、理解しにくい問題であったといえます。しかし、聖書の教えは、神の聖霊はわたしたちの魂=心に宿るというものではありません。「体」全体に宿るのであります。わたしたちは、そのようなものとして、キリストが「代価を払って買い取られた」のであります。だから、「みだらな行い」は、神の住まいとされた体に対する罪であることを、パウロは指摘しています。

ですから、わたしたちは、心でのみ神を崇め礼拝する存在ではなく、「自分の体で神の栄光を現しなさい」と命じられているように、全存在、全行為をとおして神を崇め、礼拝する存在とされているのであります。神は、そのようなものとして生きるわたしたちの全存在、全行為を肯定して受け入れてくださる、ここにわたしたちの大きな喜びが与えられていることを、積極的に見ていくことが大切であります。

キリスにある命を自由に楽しむことができるものとして、教会の交わりにおいても互いの自由を大切にすることが求められているのであります。そして、20節において、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とパウロは、キリスト者に与えられている自由の用い方の根本にある問題を明らかにしているのであります。

新約聖書講解