コリントの信徒への手紙講解

12.コリントの信徒への手紙第一4章6-13節 『聖書に従う』

福音宣教、教会を建て上げる時に常に考えねばならない大切な問題が二つあります。第一は、教会が教会として立つところのその土台である「福音の内容」の理解です。教会は常に「福音とは何か」を正しく理解し、「福音を語る」ことに努めることです。そして、もう一つ忘れてならないのは、この福音を語るために立てられた「教職」をどう理解するか、という問題です。パウロはコリントの分派争いに見られる人間的な誇り高ぶりの根本的な原因が、この二つの理解において根本的な誤りを犯していることにあることを見ていました。

コリントの教会の信徒たちは人間的な判断で、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」といって、互いに分派争いをし使徒の間に優劣を設けていました。しかし、パウロは、アポロもパウロも「あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」(3:5)にすぎず、二人とも、キリストに仕える者であり、神の秘められた計画の管理者であり、教会を建て、人々を救うのはキリストご自身の力、キリストを通して働く神の成長させる働きによることを語ってきました。

使徒である自分とアポロが「キリストに仕える者」でしかないことを語ってきたのは、「あなたがたのためを思い、…それは、あなたがたがわたしたちの例から、『書かれているもの以上にでない』ことを学ぶためであり、だれも、一人を持ち上げてほかの人をないがしろにしないためです」と、6節で述べています。

「わたしたちの例から」とは、キリストの選びと召しに与った使徒職としての「仕える者」としての姿勢、そのあり方、謙遜のことを言っています。召された神の意志を踏み越えて自分の意志や考えにしたがって行動するのでなく、常に神の示された意思にのみ従う、わたしたちの例からということです。

使徒が神の意思に従う、キリストに従う姿勢は、彼らから御言葉の解き明かしを受ける教会の模範となります。教会は使徒の模範にしたがって、その生き方、信仰生活のあり方を学ぶことが求められているのです。

しかし、パウロは「わたしたちの例から」、コリントの信徒たちに、神の意志に従え、キリストに従えという直接的な表現を用いていません。「『書かれているもの以上にでない』ことを学ぶため」という表現を用いています。これはわかりにくい表現となっています。この場合の「書かれているもの」というのは、パウロの手紙をさしているのではなく、聖書をさしています。パウロの手紙が書かれた時には、まだ新約聖書は存在しませんので、この場合の聖書は「旧約聖書」をさします。しかし、「書かれているもの」としての聖書の規範性は、今日の私たちの時代においては、新約聖書も含みますから、聖書の全体ということになります。

パウロの手紙が書かれた時の聖書は、旧約聖書ですから、その全体から教会のあり方、信徒としてのあり方を学ぶということは、具体的に意味されていることは何でありましょう。パウロは「だれも、一人を持ち上げて他の一人をないがしろにし、高ぶることがないようにするためです」といっています。パウロの理解によれば「高ぶることがない」ということは、旧約聖書の重要な主張である、ということであります。つづく7節の「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか」という問いかけは、神の選びに与ったイスラエルの旧約聖書に見られる「創造と贖罪に関わる信仰」からでる言葉です。神は無よりこの世界とそこに満ちる一切のものを創造し、人が生きて行けるよう配慮され、罪を犯した後も愛と憐れみを示し、一方的にイスラエルを選び、罪の中から贖い出された歴史は、人間は神の被造物であり、神の恩恵の創造の業、一方的な贖罪の恵みに与るのでなければ、生きていくことのできなかった存在であることを示しています。そして、イスラエルがこの神の恵みを忘れて自ら高ぶった時、惨めな滅亡の道を歩んだ歴史が同時に記されています。

イスラエルは書き記された神の啓示の書、神の御心が示されている聖書から一歩も踏み出して高慢に歩んではならないという原則を、パウロはもう一度、「使徒」というつとめの正しい理解のために、指し示すのであります。

神との本来の関係を忘れた人間の罪の悲惨な歴史、神の一方的な選び憐れみによって救われたイスラエルの贖いの歴史を忘れる時、人間が如何に高慢におごり高ぶったか、をパウロは振り返らせ、彼らが使徒たちにとっている態度を反省させる規準として示すのであります。

教会を建て上げる力としての聖書の規範性は、神の言葉を取り次ぐ預言者・使徒の権威の承認と切り離すことのできない重要な事柄です。彼らは聖書の中心に記されている「キリスト」の救いの恩恵性と、キリストから委託され神の言葉の取り次ぎ手となった者の神的権威を見失った時、その働きを通して自分にもたらされた神の恵みを同時に見落とすことになったのです。

「書かれているもの」としての聖書の神的権威の承認と、これを取り次ぐ御言葉の職務の神的権威の承認とは、一体のものであり、切り離すことができないのです。聖書に向かう彼らの人間的な態度と読み方に、パウロは「高ぶり」のもう一つの見逃せない重要な原因を見ていました。この基本的なことが無視されたことから、コリント教会の問題が始まりました。神的権威が重んじられない世界では、人間的な権威がそれに取って代わり崇められることになります。そこに「一人の人を持ち上げてほかの者をないがしろにする」という偶像化と差別が生じてきます。

ここにいたってパウロの批判は痛烈になります。これまで自嘲していた心は神的な権威を帯びている使徒職に対する人間的な批判・軽視に対しパウロはその激しい憤りを押さえようとしません。

イスラエルの選びと救いがそうであったように、コリントの信徒たちの選びと救いの問題も、決して社会的身分の高さや人間的な優秀さなどによったのでありませんでした。そのことは1章26節以下に明らかにされています。「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」のものでありました。「誇る者は主を誇れ」、パウロはそのことばをそこで用いています。彼らの救い、現在の満たされた状態はすべてキリストにある言葉と知恵を通してもたらされた神の恵みの結果でした。しかし、彼らはその恩恵による事実を忘れてしまっていました。そして、まるで自らの力でそれを得たかのように「満足し」「大金持になり」「王様になっている」気持ちになって誇っていました。パウロはここで、「わたしたちを抜きにして」といっています。それは、十字架の福音を語る使徒の働きを「抜きにして」ということであり、福音の恩恵性を忘れたとんでもない忘恩と思い上がりによっている、というのと同じ意味です。

人間が不当に自分を誇るのは、いつでも、神に対して誇ることになります。神からすべてをいただいているのに、それをもらっていないもののように思うことが、誇ることであります。誰か一人を特別に持ち上げる問題も同じであります。使徒と言えども、自分の権威、自分の力で生きることは出来ません。十字架の福音を宣べ伝える者は、神の恵みによって自ら生かされていることを知っています。キリストが自分に代わって自分の罪を背負ってくださり、十字架に死んでくださったことを知っています。だから、今生きているとすれば、キリストの恩恵のゆえであることを知っています。それゆえ、生きることはキリストのため、死ぬこともキリストのため、使徒として自分が宣べ伝えるのは、自分の思想ではなく、このように自分を救ってくれたキリストの救いです。

この業においてパウロは自分が王様になってはならないことをいつも戒めてきましたし、そのように祭り上げられ尊敬されることも迷惑だといっているのです。自分だけでなくアポロだってそうだといっているのです。

「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように…なさいました。」王様のようになっているコリントの信徒たちに比べて「死刑囚のように」されている使徒の立場をパウロはこのように示しています。神の召しに与るということは、自分の望んだように生きることを意味しません。自分を王様にすることでありません。神の望むところに従うことを意味します。「神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。」パウロが、この言葉で言いたいことは、そのことです。使徒のつとめも、教会も神の選びと意思に従う、神が与えたもうままに受け入れ従う、ところに真実の姿があるということです。

だから、パウロはここで自分のことについて語っていますが、パウロはここで彼らの同情を買うために、その労苦を口にしているのではありません。また、それを誇りにしているのでもありません。キリストの福音を宣べ伝えるために、まさしくキリストが十字架への道を歩まれたように、自らも宣教における重荷を担うことになった現実をありのままに伝えているだけです。

王様にでもなったかのように自分を高く上げることに心を配るのではなく、福音に生きる信仰というのは、「世の屑、すべてのものの滓とされる」ようなことがあっても、キリストに従うものでなければならない、と深く受けとめて生きている使徒パウロの言葉です。それは、自分を救い生かす方の求めであるから、という召しに対する信仰です。この信仰に使徒も一人の信徒であっても変わりがあってはならないのです。教会はいつも十字架の下にあるし、十字架を担われたかたの眼差しを受け、その方の求めに応答する教会として立っているのです。この方の言葉を、聖書からその様に聞き、その様な教会として、いつも立っているかパウロは今わたしたちに向かって、そう問い掛けているのであります。

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