コリントの信徒への手紙講解

11.コリントの信徒への手紙第一4章1-5節『裁くのは主』

コリント教会に見られた分派活動は、その指導者と見られる人々の賜物を互いに比較して、一人の人をとりわけ尊敬し貴ぶことによって、他の者を貶め合う争いにまで発展していました。この争いの嵐はパウロをも巻き込むことになりましたが、パウロはその渦中にあって、人の評価を気にすることもなく、自己弁明に走ったり、一緒になって他の指導者のことを非難したりすることもしませんでした。パウロが第一に心がけたのは、そもそも、福音とは何であるのか、使徒とは何であるのか、教会と使徒と神との関係は何であるのか、その根源に立ち帰り、自らの使命を明らかにしていくことでありました。

しかし、パウロは自分だけの問題として使徒の使命を明らかにしているのではなく、分派の指導者として崇められたアポロやケファのことも含めて、使徒の「つとめ」が何であるかを明らかにするのであります。パウロは、「わたしを」というのではなく、「わたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです」といって、そのことを強調しています。

1. 「仕える者」としての使徒のつとめ

「仕える者」と訳されたギリシャ語のヒュペ-レテ-スには、「下の(ヒポ)漕ぎ手(エレテ-ス)」という意味があります。この語は、元々、二段もしくは三段になった櫂(かい)を持つガレー船の最下段の櫂を漕ぐ人足を指す言葉です。ガレー船の船尾には指揮官座りが太鼓を打つような格好をして規則正しく板木を叩くと奴隷たちがその音に合わせていっせいにオールを漕ぎます。その仕事は実に単調な、しかも全力をふりしぼって漕がなければならない、実に過酷な労働でありました。後に、このヒュペ-レテースという語は、一般的に、人の下で働く者を意味するようになりました。新約聖書でも、裁判官や祭司の「下役」や「会堂の係」の者などに用いられています。

パウロは、ここでヒュペ-レテースという言葉を、役職名ではなく、身分の低い僕の意味で用いています。パウロはここで、使徒である自分が、キリストの前では「奴隷」(ローマ1:1)であり、最下位の労働者である、と言っているのであります。これは単なる謙遜から出た言葉ではなく、パウロの実感から出た言葉でありました。パウロは15章において述べているように、自分がキリスト者、また使徒として「月足らずで生まれたような」人間であり、「神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」であることを実感していました。しかし、神は道に転がっている石ころからアブラハムの子孫を起こすように、神の教会の敵であったパウロを使徒とされたのです。パウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と、15章10節に告白しているように、この破格の神の恵みを終生忘れることがなかったのです。キリストが弟子たちの足を洗い、その仕える者としての姿勢を示されましたが、パウロはキリストの召しに与った感謝の思いから、最下位の労働者として「神の僕」として仕えることを喜び、その責任を果たすことの大切さを深く噛み締めて使徒のつとめを忠実に全うしようとしたその姿勢に、心を強く打たれます。

2. 「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」としての使徒のつとめ

パウロは、第二に、「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」としての使徒のつとめについて語っています。「管理者」と訳されたギリシャ語のオイコノモスは、元来、家政もしくは家財の管理人、「家令」を表す言葉です。使徒というのは、神の家族の中にあって「神の秘められた計画(奥義)」をゆだねられた家令です。特に、ヒュペ-レテ-ス(下僕)という、人に使われる最も下で使われる身分でありながら、「この世の支配者」でさえ受けることのできなかった「秘められた神の計画」という最高の宝を託されたことを自覚すればするほど、パウロは神の大きな愛顧に応え、その信任に応えるべく、管理に最善を尽くすことだけをこころがけていたのです。

パウロは、「この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです」と言っています。この忠実さには、二つの面があります。

第一は、委ねられた御言葉(十字架の福音)の内容を変えないということに対する忠実さです。言い換えれば、教理の純正さを保持することに対する忠実さ、御言葉の命を伝えることに対する忠実さということができます。

福音の内容が変質することになれば、神の救いが変質し失われてしまうことになります。福音の内容の変質は、即ち、神の命を地上から奪い去ることを意味します。十字架の言葉は、それが持つ本来の意味を失うことなく、啓示されたままに常に純正な形で伝えられねばならない、これが御言葉に仕える者に求められている最も大切な使命と責任であります。そのことを正しく自覚する教会であること、特に御言葉に仕える教師に求められているのです。

第二は、この御言葉を伝える「つとめ」に対する忠実さです。「神の秘められた計画」、即ち「十字架の福音」の委託は、大切に仕舞い込み保存するためのものでありません。活用し、人に宣べ伝えることによって果たされるものであります。タラントの譬話に明らかにされているように、御言葉に仕える者は、福音という宝を「ゆだねられた」ものとして、それを宣べ伝える使命と責任があるのです。時がよくても悪くても、人が聞くことを望んでいるか望んでいないかに関わりなく、そのつとめをどこまでも忠実に果たす責任があるのです。神の言葉は生ける言葉であって、福音宣教という行為を通して、人々の間にキリストの言葉と救いが受肉化していく、耳障りがよくなくても、福音を純正に語り尽くしていくことによって、健全な信仰を育て、教会を健全に建て上げていく働きをするのです。これが、御言葉を委ねられたものの使命であり、果たすべき責任です。

3. 「人間の法廷で裁かれようと…」

コリントの教会の分派主義者たちは、明らかに人間的な知恵で使徒の評価を行う誤りを犯していました。パウロは、そのことを強く意識し、「あなたがたに裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと…」、と言っています。

「人間の法廷」は、直訳すると「人間的な日」となります。この場合、「日」は、裁判の開廷の「日」をさします。そこからその日に行われる裁判を意味するようになったといわれています。パウロは、これを明らかに3章13節の「かの日」、即ち、「最後の審判の日」と対照的な意味で使っています。神の審判と区別された、人間による判断のことを言っています。人間の判定は、最終決定的なものではなく、常に修正変更可能な暫定的なものでしかありません。そこには不完全さと誤りが起こる可能性が常に付きまとっています。

自己を厳しく深く省察する「良心」の持ち主であれば、もっと正確な自己に対する審きを行いうるかもしれません。しかし、パウロはその「良心」に照らして、何らやましいところがないけれども、「それでわたしが義とされるわけではありません」といいます。パウロは、「人間の法廷」の中に、「良心」による自己批判の働きも含めて、自分で自分を裁くことをしないと言っているのであります。パウロは自分の内面的な判断において何一つ恥ずべきこと、やましいことはないといいます。フィリピ3:6においてパウロは、「律法の義については非のうちどころのない者でした」といっています。しかし、パウロはそれでも自分の良心の判断を絶対化することはありませんでした。自分が無罪だと意識していることと、義と認められている存在であるということは決して同じではありません。わたしたちは、皆自分がそんなに罪深い人間だと思って生きていません。結構良心的に正しい判断と行いに生きている人間であることを自負しています。しかし、その良心は決して絶対ではなく、時代の考えに影響されたりして、規準が揺れ動き、誤ることもあります。良心は絶対ではない、という良心的な判断、良心の謙遜さへの真の厳しさは、それを最終の法廷とはせず、神の声ではないと知る、神の審判の前に己を黙らせる信仰からのみ生まれます。

己を義と自ら認めるものは、神の義を退けます。キリストの十字架の福音を拒みます。パウロが十字架の福音を宣べ伝える事ができるのは、己の罪を十字架において見ているからです。そして、同時に、十字架において神の裁きの彼方にある救いを見ているからです。キリストの十字架により、神によって義とされている自分の姿を見ているからです。もはや誰も自分の罪を告発し、罪に定めることのないキリストにある神の赦しと義を、パウロは知っています。終末の日に表されるその判決を信仰において見ています。神の審きの前で、だれも裁くことができない。罪に定めることができない。彼の働きの価値も裁くことが許されないことを知っています。そして、神は、わたしたちの心の企てさえも知り、人の目には見ることのできない暗闇に隠されているような秘密さえも明るみに出し、審く神であることを知っています。

このことは、言い換えれば、神は人の目に隠れている真実な信仰と神の召しに忠実な人の働きをも知っておられることを信じる信仰の目があるということを意味しています。わたしたちは、パウロが持っているこの信仰の目を持つ時、どのような時も、どのような境遇の中にあっても、平安に過ごすことができます。「わたしを裁くのは主なのです」という信仰をこそ大切にし、ゆだねられた賜物と召しに忠実であることを、共に覚えたく思います。

わたしたちは、究極に裁く主を知る時、その日その時与えられているつとめと本分に全力を尽くすことができることを、パウロの信仰から学ぶべきです。