コリントの信徒への手紙講解

10.コリントの信徒への手紙一3章16-23節『聖霊の宮としての教会』

パウロが3章16,17節で述べていることは、キリストに結び付けられたものであるわたしたち一人一人が聖霊の宮とされて、わたしたちの内に聖霊なる神が住んで下さることによって、わたしたちは聖なるものとされ、神の神殿としての働きを担わされた存在とされているということです。

Ⅰペトロ2:5によれば、教会を構成する信徒ひとりひとりは、神に選ばれ、キリストの御言葉に与り、「生きた石として」、「霊的な家に造り上げられる」働きを担うものとされていると言われています。神はイエス・キリストとその言葉を信じる信徒一人一人を生ける石とし、神の教会を築き上げる土台としてくださいます。その人の内に聖霊を住まわせ、聖霊を通して教会の中に現在されることによって、この様に神は現在されるのです。旧約聖書の信仰において、神は神殿に住むと考えられていましたが、神は人の手で作った石造りの造営物である神殿にお住まいになるのではなく、神の霊は神の新しい神殿である教会に住まわれるのであります。イエス・キリストと結びつく生ける石としての信徒の交わりである共同体としての教会に、聖霊が内住する、そこに聖なる神の神殿としての教会が完全な形で存在します。ここに生ける石で建てられる霊の家としての教会の責任と光栄が語られているのであります。ここに教会を教会として霊の家として建て上げる原理、力が徹底して神のものであることが語られているのであります。神の聖性、完全性に神の神殿である教会全体が与っているので、教会の聖性、完全性もまた保たれるのであります。

しかし、この地上の教会が持つ聖性、完全性を破壊する者がしばしば現れます。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」といわれています。その理由は、「神は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」と言われています。神の聖性、完全性が、その破壊行為自体を阻止するというのです。神はご自身との会見の場である神殿を常に聖にして完全であることを求められるのです。そして、その場をご自身の所有とされるのです。教会を構成する「あなたがた」を神は選び、「その神殿」とするのは、神ご自身です。わたしたちは、神の所有とされて既に神の聖、完全に与り、その様な者とされている存在であることを覚えるべきなのです。

教会の聖性、完全性は人の力で造り出せるものでありません。それは既に神が持っておられるものです。本来神の中にしかないものです。その神の聖性、完全性が聖霊を通してわたしたち一人一人に与えられているのです。だから私たちは聖なるものとしてこの聖性に与っているのです。そこでわたしたちがなすべきことは、全存在を神に委ね、その力と恵みに感謝し自らを与らせていく、そこに、わたしたちの神の神殿としての完全なあり方があります。

この聖性、完全性を破壊するのは、神の知恵たる十字架の言葉を愚かとして退け、この世の知恵を導入しようとするあらゆる人間的な試みです。わたしたちは、十字架の言葉の前に、世の知恵を用い賢いものとなる時、この誘惑に負けます。神の本当の知恵に与るために、わたしたちは、愚かな者となることが求められています。十字架の言葉の前で自分を打ち砕き、自分の罪を認め、神の恵みの力を認めていく時、神の大きな救いの恵みと力を知ることができます。そして、本当に謙遜に自分を見、キリストの御言葉の働きを正しく見ることができるようになります。

「この世の知恵は、神の前では愚かなものだ」と知る信仰の判断が、私たちをこの世の知恵から自由にします。そして、「この世の知恵」自体を絶対化し一人歩きさせる魔術的な力から解放し、自由にすることができます。

この世の知恵を誇り絶対化する時、その知恵を豊かに持つ者に対する偶像化が起こります。特定の使徒、教師を他の者よりも上に置き、教会の中に序列を生むことになります。しかし、そこには教会の主、王がもはや神ではなく、人がその王座に就いてしまうことになります。人を誇ることの愚かさは、常にそういう姿をして現れてくるのであります。

しかし、パウロは、「主は知っておられる、知恵ある者たちの論議がむなしいものであると知っておられる」と述べた上で、「だれも人を誇ってはなりません。すべては、あなたがたのもの」と告げています。

教会の主は、パウロでもアポロでもケファでもありません。教会はパウロが所有するものでも、アポロが所有するものでも、ケファが所有するものでもありません。教会の主は神であり、教会の所有者は神です。使徒たちは教会のものです。なぜなら、教会自体が神に属するからです。従って、使徒は、教会の主ではなく、教会に仕える者として神に遣わされたものです。その意味で「あなたがたのものです」とパウロは言うのであります。

教会を構成する「信徒一人一人」は、勿論、教会の主ではありません。わたしたちは、キリストに属するものです。そして、わたしたちは、キリストに属することによって神に属するものとされているのです。神は、教会の所有者、主として、キリストの復活の力を通して、世に勝利されるお方であること、死に打ち勝たれる主であることを示されました。

この世に勝つ勝利の力と恵みは、今も聖霊を通して教会の中に現されています。御言葉に仕える者は、この神の知恵、神の力であるキリストの十字架の言葉を宣べ伝えるために、神によって、キリストによって遣わされた存在にすぎません。神に遣わされたものであるゆえに重んじられねばならないのです。しかし、その者を決して教会の主の位置に置いてはならないのです。そうするなら、わたしたちは、神の主権とその玉座を汚す者となります。御言葉に仕える者、長老や執事という教会のつとめに付けられている者は、神の恵みの管理者です。だから教会に結び付けられた者は、これらの御言葉を説くものの言葉に耳を傾け、キリストの十字架の言葉に耳を傾け、神の知恵を受け入れ、聖霊の恵みに己を委ねる時、神はわたしたち一人一人を、生ける石とし、神の神殿とし、神の霊を内に住まわせ、神の聖性に与らせ、聖なるもの、完全なものとして、すべての恵みに与らせてくださるのです。長老や執事たちの働きは、そのようにしてなされる宣教の業を支えるためのものです。この大切な点をわきまえて、教会に仕える長老や執事を尊敬し、共に仕える教会は、神の祝福に与り、聖なる者としての働きを続けることができるのです。

教会を建てる神の力と恵み、それを明らかにする御言葉の役者との関係、御言葉の役者の働き、彼らを通して与えられるキリストの十字架に与ることを大切にし、その言葉の前に己をむなしくして、神の恵み、神の知恵に全存在を委ねる者を、神は生ける石とし神の神殿としてくださるばかりか、聖霊を与え、聖霊を内住させてくださいます。その様に聖霊の恵みに与ることによって、わたしたちは、聖なる者、完全な者として、世に打ち勝つ者とされるのです。