コリントの信徒への手紙講解

5.コリントの信徒への手紙第一1章26-31節『誰も神の前に誇らせず』

パウロは、コリントの教会のある人たちがキリストと結びつく自分たちはもはや言葉にも知識にも豊かになったといって高慢になって、自分を誇っていると聞いて、1章5節で、キリストにある、あらゆる言葉、あらゆる知識がキリスト信徒を豊かにすることを述べています。コリントの信徒たちの間に見られる知識における高慢は、分派争いに発展し、教会分裂の危機を招きかねない状態でありました。パウロは、人間の知恵を誇るものに向かって、使徒として、言葉の知恵によらないで告げ知らせることに心を配ったと語ります。パウロは、人間の知恵に対して、神の知恵たるキリスト、十字架のキリスト、十字架の言葉を提示しました。人間の知恵に神の知恵を対立させたのであります。十字架の愚かさこそ、神の知恵、神の力である。キリストの十字架の無力の中にこそ、神の本当の力、知恵が表されたと語りました。

パウロは、26節で再びコリントの信徒たちに向かって「兄弟たち」と呼びかけ、神の知恵は、十字架のキリストの弱さ、貧しさの中に表されただけでなく、コリントの兄弟たちの間においても表されたことを示そうとしています。

「召されたときのことを思い起こしなさい。」この言葉は、コリントの信徒たちが十字架の福音に触れ、その救いの恵みにあずかった日のことを思い起こし、そこに立ち返りなさいとの呼びかけです。「人間的に見て」(カタ・サルカ)は、直訳すると「肉によれば」です。つまり、この世的な外見的な評価をするならば、という意味です。コリントの教会の信徒たちは、能力の点でも、家柄の点でも、優れた人が多かったわけでないとパウロは語ります。

パウロは、「多かったわけでもありません」といっているのであって、コリントの教会に一人の人も家柄や人間的な能力の点で優れた人物がいなかったといっているのではありません。多かったわけではなく、いたとしても実に少ない人たちしかいなかったといっているのです。能力のあるなしを問題にしているのではなくて、また、能力や才能があることを悪とみなしているのではなく、キリストの福音にあずかり信仰へと召された者の圧倒的大多数が、世の人から、無学な者、無力な者、身分の卑しい者として、軽蔑され、軽んじられ、無視され、見捨てられていた人たちであった、とパウロは言いっているのであります。これは、事実を述べているのでありまして、コリントの信徒たちにとって、否定することのできない明白な事実でありました。

コリントの教会の信徒たちの大多数の人は、人から注目されることもなく、むしろ、身分の卑しさ、その無学さなどから人々から軽蔑され、軽んじられている人たちが多数を占めていたというのです。神がキリストにあって選び、信仰へと召し救いにあずからせ、今コリントの教会に連なっている人たちとは、そういう人たちでした。

パウロがここで一番述べねばならないことは、人がキリストの救い、選びにあずかる条件はその人自身の持っている何かではなく、どこまでも神の恵みの選びの結果だということです。神がキリストにおいて選ばれたという事実の上に存在するということです。世界の創造が、無より、神の意志とご計画によって一方的になされたように、私たちの救いも、神の一方的な憐れみ、先行する恵みとしてなされたことを、私たちが知る者となるために、人から無価値な者、小さな者、貧しい者と思われている人たちが選ばれたというのであります。

そしてそれは、「知恵ある者に恥じをかかせるため」であったというのです。衆人環視の下で恥じをかくという、感情的な恥ずかしさのことではなく、救いに関し、教会の働きに関し、家柄や知恵に優ること、能力に優ること、その他一切の人間的な何かを人よりも優秀であることを理由にして、人より高い地位を占めることを許さない、神の前における事実が述べられているのであります。もし、教会の中で、「家柄や知恵に優ること、能力に優ること、その他一切の人間的な何かを人よりも優秀であること」を誇りとするということがあり、誇りとしていたことがあったならば、それを誇りとしていた人、誇りとしている人自身が人の前というよりもむしろ、神の前に恥じ入らざるをえないとパウロはいうのであります。

言い換えれば、キリストが教会を統治している原則は、世の肉における原理ではなくて、どこまでも霊的なものです。この霊的な神の側における物差しを差し置いて、人間の肉の目、肉の原理、肉の物差しで計る、そこに人間の根本的な罪があります。

パウロは、神の前には、どのような人間の知恵も、能力も、すべて無に等しく、特に、神の救いにあずかるのに何の役にも立たない。それは、神が肉において無力な者、貧しい者、卑しい者、見下げられている者を、優先させて選び、救いへと召されたという事実の中に見ることができるではないかと、パウロはいうのであります。

それは、まさにイエスの宣教の姿に見ることができます。ルカによる福音書4章18、19節において、イエスはイザヤ書61章1、2節を引用して、貧しい者への福音の告知をもってその業に従事しておられます。

28節の「見下げられている」という言葉は、「侮辱する」「見捨てる」という意味の言葉です。イエスは、人々から侮辱され、見捨てられていた「存在する価値なき者」を省み「存在する価値ある者」へと変える救い主です。
ギリシャ人にとって、神は「あってある者」です。そして、知恵ある者は、価値ある者、存在に値する者です。しかし、パウロはいいます。彼らから見て、侮辱され、見捨てられていた「存在する価値なき者」を、神が省み、キリストにあって選び、信仰へと召し、「存在する価値ある者」へと変えられたのであります。それは、「地位ある者を無力な者とするため」であったというのであります。28節の「無力な者とする」(カタルゲーオ)は、「実を結ばなくさせる」「絶やす」という意味があります。地位ある者の人生の価値は、それ自体では、決して実を結ばない、やがては絶えていくしかない存在であるというのであります。

ここに、知恵や能力をめぐる神の評価と人間の評価の決定的な違いが、神の選びという視点から明らかにされています。

そして、パウロは言います。神の選びによる救いは、神の憐れみによるのであって、「それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」になされた神の知恵であるというのであります。

人が救いへと至るのは、どこまでも、キリストにある選びによります。私たちの誰一人として、キリストにある者とされていなければ、望みのない者です。キリストと結合する信仰とは、この恵みを感謝し、己の何をも誇らず、ただ自らの貧しさを神の前に率直に認めることが求められます。キリストは、ほかでもない罪の中で滅んで行こうとしている私の存在に憐れみをかけ、十字架において、私の死ぬべき死を死んでくださった救い主なのであります。神は、この私の罪を、キリストの十字架において裁かれたのです。そして、キリストを信じる私の命を、キリストの復活にあずからせることによって、回復してくださったのであります。そのように憐れみをかけてくださったのであります。

神の知恵は、キリストの十字架の言葉の中に啓示されています。そして、わたしたちの信仰がこのキリストと結びついている。キリストは、私たちの知恵となり、まさにキリストの義、聖、贖いが、わたしたちのものとなる、とパウロはいうのであります。キリストの義、聖、贖いを、神がわたしたちのものとして勘定してくださることによってそれは実現するのであります。

教会は、キリストにある恵みの選びにあずかった者たちの集まりです。教会の中には、神の恵みが満ち溢れ、神の偉大さが現れているのであります。神の力と知恵がキリストの死の中に啓示されているように、教会の無に等しい弱さの中にこそ、力と命が与えられているのであります。本当に、救いは神の恵みであります。

「肉によれば」、すなわち、「人間的な規準によれば」、まったく「無に等しい者」が、いまやキリストにあって知恵と義と聖と贖いを受けたのであります。「キリストにあって」とは、キリスト者が、キリストにあって到来した新しい世、すなわち神の国の現実の中へと受け入れられ、その一員とされたということであります。これによってキリスト者が、この世からの者でない「新しい」終末的な生を受け取ったということであります。コリントの人たちも、わたしたちも、無に等しい存在です。キリストの中にある存在とされることによって、新しい存在とされ、キリストのあらゆる救いの宝を内に持つ真実の存在に達したというのであります。キリストにあって知恵と義と聖と贖いを受けた、とはそういうことです。

この点に関して、誰も誇ることができません。もし、私たちが誇ることを許されるとするなら、この恵みを私たちの間で成し遂げてくださる主であります。だから、パウロが最後に「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるといっていることを深くかみ締める必要があります。

神の前に自分を誇るのは、キリストの救いを知らないこの世の人間のすることです。ただキリストにおいてのみキリストの教会は、知恵と義に満ちるのです。だから、わたしたちは、私たちの救い主イエス・キリストにあって、神を誇る者でなければならないのであります。キリストの十字架を信ずるということは、キリストの十字架と共に、自分を完全に葬るということです。キリストを信じ受け入れる者は、自分から目を離し、キリストにある神の恵みの業をのみ、仰ぎ見るのであります。