キリスト教講座

第14回キリスト教講座『闇から光へーバビロン捕囚とイスラエル(1)哀歌・申命記史家』

日時 2007年7月8日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

序.実り多き災禍-バビロン捕囚-

イスラエルにとって、前597年と587年のバビロン捕囚は、大きな挫折を意味していました。それは神の選びの民のしるしとなるあらゆるものを失ったからです。約束の土地を失い、永遠に存続すると信じられていたダビデの血を引くユダ王国が滅亡し、信仰の拠り所であった神殿も焼失するという重大な危機をもたらすことになりました。これらのことは、イスラエルを選び、イスラエルに約束を与えた神ヤハウエは無力なのか、そうでないとすれば、その破局の出来事は何か意味を持っているのか、持っているとすればどのような意味を持っているのか、という問いを必然的に引き起こすことになりました。王国の破局の出来事は、こうした疑問やそれに対する答えを求めて、多くの神学的な答えを生み出すことになります。そして、この暗黒の時代と思える状況の中から、旧約聖書の重要な著作が生まれてきます。

イスラエルはその答えを二つの方向で、探求することになります。第一の方向は、「古くかつ信頼感を与える神の約束に立ち戻る」という方向です。第二の方向は、「未来における神の約束を頼りにする」という方向です。

イスラエルは、捕囚の機会を利用して、何が本当に重要なのか、何が希望に導きうるのかを書き残しました。この時代の諸文書や諸記録の著者たちは、真摯に敗北と正面から取り組み、大胆に希望し、計画しました。

本講座においては、ラルフ・W・クライン著『バビロン捕囚とイスラエル』(山我哲雄訳、リトン)の議論を紹介し、3回に分けて講義を進めたく思います。今回取り上げるのは、哀歌と申命記史書を著した申命記史家です。

 

1.バビロン捕囚とは何であったか

次に、バビロン捕囚という出来事がどういう出来事であったのか簡単に概観しておきます。

バビロン軍のユダ征服は、物質的、社会・経済的な問題を引き起こしました。

ネブカドネツァルは、前597年に、ユダの王ヨヤキンをはじめ、王族、貴族、大土地所有者、軍事的指導者、長老、職人、祭司、預言者たちを捕囚にして連れ去りました(第一回バビロン捕囚の開始)。その総数は1万人弱に過ぎませんが(列王下24:14、エレミヤ52:28)、指導的階層を失ったユダ王国にとって大打撃でありました。

前597年以降10年間、ユダ王国はヨヤキンの叔父ゼデキヤのもとで存続します。589/588年に、ヨヤキンはバビロンに反旗を翻したため、ネブカドネツァルは、エルサレムを攻め包囲、2年後、都は陥落し、逃亡を企てたゼデキヤは捕縛され、神殿に火がかけられ、さらに多くの人が捕囚にされました。バビロニア人が任命した総督ゲダルヤが暗殺された時、ユダとベニヤミンの多くの人びとはエジプトに逃亡しました。その時、預言者エレミヤは、彼らと共に強制的にエジプトに連行されます。さらに、前582年に、第3回目のバビロン捕囚が行なわれました(エレミヤ52:30)。前561年に、バビロニアでヨヤキン王が幽閉から解放されます(列王下25:27-30)。これ以外に、前539年にペルシャ王クロスがバビロンを征服し、ユダヤ人の一部のパレスチナ帰還を許可するまで、聖書は歴史的な出来事についてほとんど沈黙しています。前539年のバビロン陥落を持って捕囚時代は終わります。

捕囚は、死と強制移住、破壊と荒廃を意味していました。この期間にどれだけの人が死んだか、また捕囚とされた人の人数も正確には分りません。しかし、捕囚は国に影響力のある人びとを主たる対象としていたために、相当の社会的・経済的、及び心理的打撃を与えました。捕囚とされた集団は、その後バビロンに恒久的にユダヤ人が存続するほどに十分大規模なものでありました。エルサレムは組織的に破壊され、ユダのその他の多くの町々も同じ運命に陥りました。

かなりの数の人びとが引き続きパレスチナに住み続けていたと考えられますが、人口が減少し、経済状態も劣悪なものになっていたと思われます。パレスチナ残留ユダヤ人の生活の困窮と信仰の危機とは、捕囚民と同じでありました。

バビロンにおける捕囚民の状況は想像されるほど厳しかったわけではありません。彼らはかなりの自由を享受し、いくつかの共同体を造って住み、結婚することができ、ある程度の自治権も認められ、かなりの富さえ蓄えることができました(アクロイド)。パレスチナとバビロンとの間で通信も可能でありました(捕囚民に宛ててエレミヤは手紙を書いています)。しかしある人々にとって、時の経過と共に、捕囚の苦しみは増大して行ったと思われます(イザヤ13-14章、エレミヤ50-51章、イザヤ46-47章)。

神殿の焼失は、神学的な大打撃を与える過酷な問題を提起することになりました。神殿はイスラエルの選びの象徴で、神がこのためのためになした歴史における恵みの業の記念であったからです。神殿は炎の中に崩れ去り、異邦人が足を踏み入れることが許されなかったその聖域(申命23:3-4)が、敵の足によって蹂躙されました(哀歌1:10)。だから、神殿破壊は、神への疑念を引き起こすことになりました。ヤハウエよりも強力で優越した神々が存在するのか、或いはヤハウエが何らかの理由により、彼の民と彼の場所を見捨てたのか、という疑念が起こりました。

ダビデ王朝の断絶もまた神学的問題を引き起こしました。ダビデへの約束を与えた神の信頼性にとって、それは何を意味するのかが問われることになりました。もし神が約束に忠実であるとすれば、現にあるように、神は王権を裁き、それを拒絶したということでしかありえないことになります。

国土の喪失も重大な神学的問題を引き起こしました。土地と子孫の約束は、族長以来の鍵をなす要素でありました。ヤハウエは土地の所有者で、ヤハウエがそれをイスラエルに賜物として与えたことは、とりわけ申命記史家と詩編作者によって賞賛されました。ところが、イスラエルの嗣業の地は、いまや異邦人の手に渡されてしまいました。それは、ヤハウエが、約束を守らなかったからか?無力だったからか?それとも、それほど自分の民に怒りを発しているからか?いずれかです。

数多くの祭司が捕囚とされ処刑されたことや、犠牲祭儀が廃止されたこともイスラエルの信仰にジレンマをもたらした。古い象徴体系のほとんどすべては、もはや何の役にも立たないものになりました。イスラエルの敗北は、自分たちを選んだ神が他の神々に敗北したことを意味するのだとすれば、その民族にとっていかなる未来があるのか?或いは、それが神への背反に対する神の断固たる拒否の必然的反応の結果であるとすれば、その民族にとってどのような未来がありえるというのか?が問われることになります。

この時代には、このほかにもさまざまな懐疑が湧き上がってきました。人びとは挫折感から、開き直って神を非難さえしています。哀歌には、ヤハウエは敵のように振る舞い、彼自身の民に向けて武器を振るっている神を非難する歌があります(2:4-5)。捕囚の民には、捕囚を父たちの罪が罪のない子たちの上に及んだ罰として不平を言い(エレミヤ31:29、エゼキエル18:2)、自分たちの身の潔白を主張する者もいました(詩44:18-19、79:8)。

しかしすべての反応が否定的であったわけでありません。最も古い約束とモーセ的理念への回帰を訴える者(祭司文書)、過去を否定し、神の新たなる救いの業の必然性を説く者(第二イザヤ)、異質な文化環境の中で、割礼と安息日を重んじることによって、選ばれた民としてのアイデンティティを維持しようと試みる者、罪を告白し、ヤハウエへの業の全面的正当性を承認し、ヤハウエに立ち返るべき時期として捕囚を捉える者(申命記的歴史家)、神の赦しに新たな強調点を置く者(エレミヤ31:34、第二イザヤ、祭司文書、ミカ7:7-20)、などが出現しました。物質的、神学的問題への哀悼を公言することが、ある種のカタルシスをもたらし、ヤハウエを動かすことができると考えるものも表れました(哀歌2:18-19)。第二イザヤの僕の歌とエレミヤの運命は、ヤハウエのみを信頼し、ヤハウエの僕として、歴史の転倒を黙々と耐え抜くことこそ、処罰においてさえヤハウエがいかに偉大であるかを諸国に示す信従の道として示しています。

このように捕囚時代に、哀歌(詩編の一部を含む)、申命記史書、エレミヤ書、エゼキエル書、第二イザヤ書、モーセ五書中の祭司文書が生まれました。これらの書物には、希望がほとんど見られず、未来に向けてのきわめて抑制した展望しか見出せないもの(哀歌、申命記史書、エレミヤ書の一部)もありますが、未来がいかなるものか、いかなるものであるべきかについて、展望を開くものもあります(エゼキエル書、第二イザヤ書、祭司文書)。前者は、パレスチナに残留した共同体から生み出されたものと考えられ、後者はバビロンで成立した可能性が高いと思われます。これら捕囚時代の著作は、自己同一性の問題、希望の根拠、イスラエルの不安の原因となるのが誰であり、何であるのか、さまざまな象徴や象徴体系が永続的妥当性を持ちうるのか、急激な変化の時代とは何か、その中でいかに生きるべきか、等々の問題に、根無し草となってしまった人びとや、未来を失い、争いに怯(おび)える人々の問題を扱っている点で、きわめて現実的で現代的な意義を持っています。

 

2.哀歌

哀歌の作者は、エレミヤの最後の攻囲期間における過酷な状況や、前587年以降の悲惨な生活を、身をもって体験しました。彼は、自己の悲惨を、荒廃のさまざまな局面を描くことを通じて表明しました。

哀歌の詩人たちにとって、その嘆きの原因は、本来ならイスラエルの律法により聖所への入場を禁じられているはずの敵なる異邦人が神殿に足を踏み入れていることにありました(申23:3)。しかもそれは礼拝するためではなく、略奪するためになされました。神殿のあるシオンは、約束の地であり、出エジプトと征服によるヤハウエの恵みの賜物であり、それゆえに、イスラエルの誇り、イスラエルの栄光であった。シオンは不滅の都であるはずなのに、今や廃墟の丘の一つに過ぎない。その城門も、城壁も、廃墟と化し、神殿の聖域とその祭壇にも打撃が加えられ(哀歌2:7)、神殿の宝物は略奪され(1:10)、安息日を含む祭礼は廃止されました(1:4,2:6,7)。ダビデの血を引く最後の王ゼデキヤは捕らえられ、その子らを目の前で殺された後、目をえぐられて、終身の流刑としてバビロンに連れ去られた。

最悪なのは、飢餓がもたらした結末でありました。生き延びようとする絶望的な努力の中で、母親たちは己の子供を食らい、祭司や預言者が主の聖所で殺されました(2:20,4:9-19)。

哀歌の作者にとってエルサレムの災禍の究極の原因は、バビロンの兵士たちではなく、むしろ彼らを道具としてその残虐行為を行なわせているヤハウエ自身でありました。ヤハウエは敵となり、ヤハウエの計画としてそれが整然としかも無慈悲に破壊され(2:8)、しかも、繰り返し威嚇の成就として行なわれている(2:17)。

哀歌の作者は、破局の真の原因はエルサレムの罪にあることを認めます。その罪の主犯は、宗教的指導者であり(2:14)、預言者たちや祭司たちは、エルサレムで罪のない者の血を流していました(4:13)。これら宗教的指導者は、王や人々の暴虐を黙認したが故に(2:7)その不正に責任があります。哀歌においては、シオンはヤハウエの公正さに決して不平を言うことはありません。

主は正しい。

わたしが主の口に背いたのだ。(1:18)

このように、「哀歌」は、エルサレムの陥落と、それにともなう悲嘆という、暗い影の下で書かれています。この詩人は救済史伝承のどこにも希望を見出すことができません。しかし彼は悲しみの吐露と罪の告白だけをしているのではない。なお一つの希望を語っています。哀歌の作者にとって、シオンを慰めるために、なぞらえることのできるものは存在しません(2:13)。しかし、エルサレムの陥落とともに、イスラエルの最悪の日々は過ぎ去ったと考えています。第二イザヤにとってもそれは同じです。しかしこの預言者はさらに一歩進んで民の罪の赦しとエルサレムの苦役の満了を語りますが、哀歌における祈願は、それはあくまで遠くからの響きに過ぎません。

呼び求めるわたしに近づき
恐れるなと言ってください。
主よ、生死にかかわるこの争いを
わたしに代わって争い、命を贖ってください。(3:57-58)

悲しみの解消は、周辺諸国に対するヤハウエの義の貫徹にかかっています。哀歌においては、シオンは、自身の背きの罪を否定したり、自身に下された運命の正当性を疑うことはありませんが、ヤハウエが諸国民の悪をも、自分の場合と同様の厳しさをもって正しく裁いてくれるようにと要請しています(1:21-22)。この主題は、3章52-66節で大規模に展開されています。

哀歌3章は、悲しみを払拭しようとする詩人の企てにおいて、重要な基石をなしています。そこで詩人は、ヤハウエの恵みに終わりはなく、その憐れみは尽きることがないと歌っています(3:22)。彼は神の恵み深い性格を想起しています。神の恵みは朝ごとに新しく、決して涸れることなく、尽きることがなく、神の助けは不変で、神に希望を託し神を求める者に対して、神は常に善意をもって答えると結論しています(3:25)。しかし、神に希望を託すには、黙して苦しみに耐え、攻撃や非難を黙して甘受するのがふさわしい(27-29節)。この忍耐は解放を目指したもので、ヤハウエの拒絶は永遠に続かず(31節)、ヤハウエは懲らしめても、その慈しみによって憐れんでくれる(32節)。神が人を苦しめるのは「不可思議な業」であり、神の本心から出たことではない。神の世界支配は善であるゆえに(37-38節)、受苦者は自分の罪が自分にもたらしたものについてとやかく不平を述べることができない(39節)。彼は希望のうちに神を待ち望み、苦難を甘受します。神は必ず災いを恵みに変えてくれると信じ、それが神の至高なる自由の一部であることを信じながら、神の善性を肯定した後、今や自分の善性を問題にします。神が容赦なく殺し(43節)、祈りに背を向け(44節)、敵どもに嘲笑をもたらし(45-46節)、民を徹底的に滅した(47節)のは、民の赦されざる罪のためであると告白します。彼はヤハウエが顧みてくれるまで(50節)、絶え間なくこの滅びについて泣き叫び続けようと決意します(48-49節)。神の慈しみと憐れみは「新しく」、尽きることがないという、個人の嘆きの詩編(哀歌3章1-39節)から得られた洞察は、悲しみに打ちひしがれたシオンにとって希望の源泉となります。勿論ただ悲しみ嘆くだけでは十分ではありません。それには、反省と謙虚な悔い改めが続くのでなければならないのです。

最終的な希望の表明は、5章に見出されます。彼はそこで次のように告白します。

「主よ、あなたはとこしえにいまし代々に続く御座にいます方。」(5:19)

彼は廃墟となったエルサレムで神の永遠の王権を確認しています。捕囚の中で、エゼキエルと第二イザヤは、新しい出エジプトに示される神の王権に訴えています。詩編72編と102編は、創造された神の主権を引き合いに出しています。しかし哀歌の詩人は、神の永遠の王権を改めて確認するに過ぎません。哀歌は決してハッピー・エンドでは終わりません。悲惨な状況は依然として続きます。彼はこの詩の最後の部分でただ一度なぜと問いかけています。

なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ
果てしなく見捨てておかれるのですか。(5:20)

それには、御許に立ち帰らせてくださいという祈願と、わたしたちは立ち帰りますという悔い改めの告白が続き、昔のように日々新たにされる恵みによる救いへの信仰の祈願としています。哀歌の詩人は、荒廃と飢餓の中で、なお神の王権を承認し、その現実を神が覚え、省みられることを期待し、ひたすら、神がその嘆きを聞いてくれることを願い、嘆き続けるのです。哀歌の詩人にとって、この嘆きこそ神に聞かれる祈りであり、神の王的支配を信じるが故の嘆きとして、それはゆるぎない神への信仰の表明の残されたただ一つの手段でした。それは何も持たない、すべてを失った者の闇の中から朝を待つ信仰を表わしています。

 

3.申命記史家

申命記史書と呼ばれる歴史書が捕囚時代に著されます。申命記、ヨシュア記、士師記、サムエル記,列王記がそれです。これらの著作を申命記史書と名づけたのは、マルティン・ノートというドイツの学者です。申命記史家は、カナン征服から南王国の滅亡にいたるまでのイスラエルの歴史を、申命記の神学に基づき解釈しました。この歴史家にとって、イスラエルの民の悲劇的な終焉は、パレスチナ滞在中の全期間を通じてヤハウエを拒絶したことに対する帰結でありました。それゆえ申命記史書は、イスラエルの罪の告白の性格を持ち、徹頭徹尾教訓的で神学的です。申命記史家のイスラエル史の分析は,特別に構成され、指導的な人物の口を通して語られ、演説や祈りの形で随所にちりばめられています。この歴史書は、捕囚中にほぼ最終的な形態に到達したと考えられています。

申命記の中で申命記史家に記される部分は、いずれもモーセの語った言葉という形を取っています。しかし捕囚時代に生きる著者は、それを前6世紀の同時代人に向けられた言葉として記しています。ヤハウエはなぜ、約束の土地を滅ぼしてしまったのか(申29:23)、申命記史家は自問自答し、それは、主がエジプトの国から彼らを導き出されたとき結ばれた契約をイスラエルが捨て、他の神々にひれ伏した罪にある(申29:24-25)、と答えています。

捕囚世代に向けられた「モーセ」の言葉は、それがまさに、イスラエルが約束の地に足を踏み入れようとしている時に発せられたという設定で語られているだけに、特別な鋭さと神学的な力を持っています。イスラエルは土地と律法という二つの賜物をヤハウエの恵みとして受けました。しかし、民はやがて他の神々に仕え、契約を破るので、ヤハウエは彼らを怒り、彼らを棄てるであろう、と予告されています(申31:16-17,20)。この言葉は、前587年の破局を契約違反の結果を解明するだけでなく、同時にこの出来事を、神の信頼できる言葉の帰結として位置づけています。ヤハウエは土地の約束を誠実に守り、イスラエルの未来について予告した運命についての忠実であったのに、イスラエルは、まったく契約を守らなかった。モーセは、ヤハウエの目に正しいことを行なうのを怠れば、土地を失い(4:26)、諸国の中に散らされると威嚇した。申命記史家はこの視座から、北イスラエルと南ユダの罪を明らかにします。カナンの地におけるイスラエルの歴史の始めから終わりまで、耐えざる契約違反として特徴づけられ、その不服従に対して、約束を成就する神ヤハウエがその審きを断言します。それは、土地を失った捕囚の民が、土地を約束したヤハウエは信頼できず、信ずるに値しないと誘惑に駆られて語るのを否定する意味を持っています。申命記史家は、神の約束とその成就の間の誤りのない関連性に固執します。イスラエルの受けたその運命は、徹頭徹尾、イスラエル自身の不服従と、契約違反によって引き起こされた、と語ります。

ノートは、申命記史家の意図は神の裁きがまったく正統なものであったことだけを示し、申命記史家は個々の歴史の意味を解明したが、未来に対していかなる希望も約束しなかったといいます。しかし、申命記史家は、かつてヤハウエがイスラエルの父祖たちに誓った、土地の約束に頻繁に言及しています。申命記史家にとって、父祖たちへの約束は、現在と未来における悩みと苦しみの時にあっても、ヤハウエへの立ち返りの希望を与えるものです。主は憐れみ深い神であり、見捨てることも滅ぼすことも、先祖に誓われた契約を忘れられることのなく(申4:31)、一本の明るい光線は、族長たちへのヤハウエの約束に発しています。

フォン・ラートは、申命記史書全体を、ヤハウエの二種類の言葉が貫いていることを指摘しました。一方は、モーセと預言者たちの言葉であり、彼らの律法と警告を黙殺したことが、前721年と前587年の破局につながった。しかし他方では、サムエル記下7章にダビデへの約束の言葉があり、それはユダの王たちへの罰を延期させた。そして実際に裁きが下った後も、この約束の言葉は、ヨヤキンの幽閉からの解放(列王下25:27-30)において、依然として希望と約束を与え続けている。フォン・ラートはサムエル記下7章のダビデへの約束を,歴史に働くヤハウエの創造的な言葉の一つとして解釈しました。その後、彼の説について、いろいろ批判がなされていますが、申命記史書がヨヤキンの名誉回復で締めくくられていることは、申命記史家がこの出来事のうちに、新しい祝福の時代の始まりを見ていると見なすことができます。申命記史家は、条件付きのダビデへの約束(列王上2:3-4,9:5-6)と無条件のそれ(サム下7章)との双方を取り入れることにより、ダビデの家系の最後の屈辱(ゼデキヤ)と、ダビデへの約束の永続的な積極的作用(ヨヤキン)とに対して余地を残しています。神は、依然として彼の民のために働き続けておられる。たとえ土地が失われたとしても、神のよき言葉は信頼に値する。そこに、イスラエルは繰り返し、神に立ち返り、悔い改めるよう呼びかけられ、回復への希望の余地が残されていることを明らかにしています。そう語ることによって、破局後にもなお希望の道が残されていることを示しています。

キリスト教講座