キリスト教講座

第1回 旧約聖書の語る神(1)語りかけ約束する神-アブラハム物語を通して-

日時 2005年9月11日(日)午後2時-3時
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

【創世記12章1-4節】

1 主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷
父の家を離れて
わたしが示す地に行きなさい。

2 わたしはあなたを大いなる国民にし
あなたを祝福し、あなたの名を高める
祝福の源となるように。

3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」

4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

 

1.すべてのひとの救い、信仰の原点としてのアブラハム

新共同訳聖書の巻末に、「聖書は、神と人間との歴史における出会いの物語である」と記されています。しかし、神と人間との出会いを、聖書は決して一般化して述べていません。神の恵みとして記しています。聖書は、神がイスラエルという民を選び、彼らにご自身を啓示されたことを語っています。そのイスラエルの祖先は、アブラハムというひとりの人物に遡ります。

創世記12章に記されているアブラハムの召命物語は、聖書が語る神の救いの本質を、もっとも簡潔に明らかにし、また聖書が語る信仰とは何か、その本質が明らかにされているところです。そして、アブラハム物語が示す救いの射程は、イスラエルという民を越えて、全地上的広がりをもつものとして語られています。アブラハムの召命物語には、聖書が語る神は、語りかけ約束する神であることを明らかにしています。今回のキリスト教講座では、このアブラハムの召命物語を通して、聖書が語る、語りかけ約束する神とはどういう方か、この神の語りかけを聞く信仰とは、どのような信仰か、それは、キリスト教徒にだけに語られていることばではなく、すべての人に向けられた言葉として示されていることをお話したく思います。

イスラエルは、「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人である」(申命記26章5節)という自己理解の下に立ち、彼らを選んだイスラエルの神は、「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた」(ヨシュア記24章2節)と彼らの先祖について語っています。

このようにイスラエルがいわば「原点」としているアブラハムのところに立ち返ると、彼らの祖先は、彼を召し出された神と出会い、この神の導きを受けるまで、わたしたちと同じように、「他の神々を拝んでいた」存在であったと聖書は語っています。イスラエルは、自分たちに啓示された神を、聖なる四文字で記しましたが、これを十戒の教えに従い、みだりに唱えることを罪と考え、直接その名を呼ぶことを致しませんでした。そのため、実際その四文字がどう発音されていたのか今なお議論がありますが、学者は、「ヤハウエ」と呼ばれていたのではないかといっています。イスラエルは、その四文字を、「主」という意味を持つ、「アドナイ」という語に置き換えて読みました。アブラハムの召命物語は、イスラエルの生き方の基本は、語りかけ、自らの意思を啓示する神、ヤハウエに聞き従うことにあることを教えています。

しかし、アブラハムは、ユダヤ民族の父であるばかりか、キリスト教徒にとっても「信仰の父」であることを新約聖書は明らかにしています(ローマの信徒への手紙4章1-13節、ガラテヤの信徒への手紙3章7-30節、ルカによる福音書16章19-31節など)。また、イスラム教徒にとっても神の友(エル・ハリル)として深く愛されています。ヘブロンにあるアブラハムの墓は現在、イスラム教徒の巡礼地になっていますが、ユダヤ教徒もキリスト教徒もそこに行くといわれます。

アブラハムは、元々はアムラムと呼ばれていたと聖書は記していますが、この元の名、アブラムは、メソポタミアの言語で、「父は愛する」という意味です。その北西地方では、アブラムは「父は崇められますように」を意味し、またアブラハムとも発音されたともいわれています。

アブラハムと神との出会いは、最初から、地上のすべて氏族を含む救いの出来事の始まりとして、聖書は語っています。そして、実際の広がりにおいても、イスラエルを越えたものとなっています。そういう意味では、この信仰は、神の前におけるすべての人間の生き方の問題として、普遍的な意味を持つものとして聖書は語っています。

 

2.創世記におけるアブラハム物語の占める位置

アブラハム以前の1-11章までの『原初史』は、神が世界の創造者であることを記して始まっています。神が言葉を発せられるまで、「地は混沌であって、闇が深淵の面」を覆っていた状態にありました(創世記1章1節)。しかし、神が「光あれ」といわれると、光があった、と記されています。つまり、神の言葉によって、世界は光を得、世界はこの神の言葉に聞き従って歩む時、希望と喜びに満たされることが、この創造において示されています。しかし、人類の歴史は、神に聞くことに失敗し、自己を神のように高めようとして、神の言葉による一致ではなく、同じ言語に基づく一致を追及し、破局と混乱において終局を迎えたことが、11章の『バベルの塔』の物語において明らかにされています。

「 世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた。

「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう。」

主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。 こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである。
(創世記11章1-9節)

創世記11章2節に、「東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。」と記されていますが、シンアルとは、バビロニア地方のことです。そこに「東の方から移動してきた人々」とは、もともと遊牧生活していたイスラエルの祖先アブラハムの父テラと何らかのつながりのある人々のことを語っているのかもしれません。

大きな石がないバビロニアでは、建物の建設には、日干し煉瓦が用いられますが、「バベルの塔」は、「石の代わりにレンガ」(3節)が用いられたといわれます。これは、強度を高めるために、火で焼かれたレンガであることを示しています。「しっくいの代わりにアスファルト」が用いられたのも、同じ理由からです。

「天まで届く塔のある町」は、直訳しますと、「町」と「その頂上が天にある塔」です。バベルの塔を建てた人間の企ては、神の住む天にまで届く塔を立て、神のようになろうとするものです。その様に「有名になろう」という人間の野心がそこにありました。しかし、天におられる主はいとも簡単に「降って来られ」、彼らが誇った言葉が一つであること、民が一つであることを混乱させ、全地に散らされたことが語られています。言葉がひとつであること、民が大きく一つになることが、国を強くし、神のように高い存在に達する道であると心得る、人間の願望、企ては、ついに「その頂上が天にある塔」を建て、本当に神の住まいさえ脅かすほどに高慢になりましたが、結果は、言葉が混乱(バラル)し、ひとつであった民が全地に散らされることになった、と告げてこの物語は終わっています。バベルは現地の言葉アッカド語では、「神の門」のことですが、ヘブライ語の混乱させる(バラル)という語で、この試みの破局が説明されています。

このような巨大国家、分明の都市の向こう側には、貧民街があり、そこには厳しい労働に虐げられても、いっこうに生活が楽にならない人々の存在があります。その犠牲のもとに、分明や一部の特権階級のみが繁栄するという矛盾を都市文明はいつも内包しています。聖書は、このような人間の繁栄のあり方に批判的な目をもって見ています。人間の繁栄と幸福には、巨大な民として国家が一つになること、また言葉が一つになることがその基礎として不可欠だというというもの見方に否定的です。その試みの失敗した混乱したバベルの姿に、真に神を恐れない分明の最後の姿を見ています。

 

3.人間の再生の道として神の召命と語りかけ

アブラハムに対する主(ヤハウエ)の召し出しの物語は、この「バベルの塔」の挫折から、世界が再び神の祝福に至る道を歩むように招くために語られています。この神の呼びかけ、語りかけは、巨大な文明を築き、巨大な民族を形成し、言葉をひとつに保つことに成功しょうとする国家ではなく、75歳になっても子供が一人もいないアムラムというひとりの人物に向けてなされています。彼の妻は不妊の女といわれていた10歳年下のサライです。肉体的、自然的要素から見れば、その生涯の先には、何の希望も持てない人間に、神の言葉は語りかけられています。今、日本は少子高齢社会になりました。まさに、ここで神から呼びかけられているアブラムやサライのような人が多数を占める社会になりつつあります。その意味でも、このアブラムの召命の物語は、わたしたちの生きる意味を考える上でも、重要な意味をもっています。アブラハムの召命物語は、大切な三つのことを教えています。

①信仰とは、「行きなさい。」という神の呼びかけに聞くこと

12章に記されているアブラムに対する神の呼びかけの言葉は、ヘブライ語では、「行きなさい。」という命令で始まっています。神がアブラムに求めたのは、ご自身の言葉に従うものとなることです。それは自分の行きたいところへ向かって生きることではなく、主の言葉に聞く人生を喜びとする生き方です。神は、アブラムに、「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」と命じられています。アブラムがこの神の呼びかけを聞いたのは、すでに老人の生きに達していた75歳の時です。妻も若くは見えますが(12章10節以下参照)、初老の域を超えていました。この神の命令に聞くことは、その年齢を考えても、決して容易ではありません。神が「行きなさい」と命じるその場所は、神が「示す地」です。しかし、その場所はどこか、この段階では何も示されていません。だから、どこか、これからどのような道を歩むかわからず、行き先を知らずに、ただ神が示されるという約束を信じて旅立つことを、アブラムは神に求められたのです。それ故、この神の語りかけに聞くことは、神への信仰が必要となります。聖書が語る信仰とは、わたしたちが心に抱くことを確信することでありません。神の語りかけに聞くことです。神の意思に従うことです。「わたしが示す地に行きなさい」という神の意志に聞き従うことです。この聞くことに、人間の状況の可能性や、事情はまったく問題にされていません。

②祝福を約束する神

アブラムに語りかける神は、約束する神です。その約束は、アブラム自身に対しては、「あなたを大いなる国民にする」「あなたを祝福、あなたの名を高める」「祝福の源になる」ということを語っています。自分の血を引く子供がひとりもない、妻サライとの間に今後も子供が生まれる可能性の全くない状況にあるアブラムに、この約束は与えられています。それ故、この約束に聞き従うことは、人間の可能性ではなく、神の全能性と、その導きを信じなければできないことです。聖書は、このような信仰を神の恵みに身を委ねるものとして説明しています。4節には、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」と記されています。この聖書の言葉は、アブラムが神の約束を信じて応答する行為であったことを示しています。聖書の語る信仰とは、「行きなさい」という神の命令に聞くことであり、神の約束することを、恵みとして信じることです。

③神の約束する救いはすべての人を含む

神がアブラムに与えた祝福の約束は、彼個人だけのものではなく、その氏族も、国家も、地上のすべての氏族も含まれるものとして語られています。それは、アブラムを祝福するという関係に立つことによって、すべての人が「祝福に入る」ことができるという意味で、アブラムは「祝福の源となる」といわれています。この意味で、アブラムに与えられた約束は普遍的な意味を持っています。

地上に存在する多くの宗教は、部族は氏族、国家の壁を越えることがきません。それは、崇められている神が、限られたものたちのための神であるからです。サムエル・ハンチントンは、アメリカとイスラム社会との対立を「分明の衝突」として、その著書において明らかにしようとしていますが、聖書は、アブラムに語る神は、そのような対立の関係ではない、アブラムを通して地上のすべての氏族が神の祝福に入る道を示しています。

 

4.アブラハムに語りかけ、約束に生きるように励ます神

この神に聞くアブラムとはどういう人物か、それも聖書は明らかにしています。彼は、主の呼びかけ、命令に何もいわず、主の言葉に従う人物でありましたが、自分の命が危機に瀕した時、自分の妻を犠牲にしてでも自分だけ助かろうとした真に罪深い人間でもありました(12章10節以下)。神の約束に対して、アブラハムは微動だにしない信仰を貫いたわけでもありません。神の約束がなかなか実現しないことに、恐れや苛立ちをしばしば示し、その約束を人間的な手段によって実現しようと試みています(15章1-6節)。妻サライとの間に子供が生まれそうもないとわかると、養子を迎えて世継ぎを得ようとしたり(15章)、奴隷女のハガルによって子を得ようと試みています(16章)。神は、ダマスコのエリエゼルを養子に迎えて、神の約束を自ら実現しようとするアブラムに、「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」(15章4節)と語り、どこまでもアブラムと妻のサライとの間から生まれる子供が世継ぎとなるべきことを明らかにされます。

神は人間の可能性を奪いつつ、さらに約束を語り、アブラムを励まし、信仰を導かれます。15章6節には、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」という言葉が記されています。聖書は、これこそ人が神の前に示すべき信仰として、アブラムを信仰のをたたえています。

17-18章には、ついに、アブラム99歳、妻サライ89歳の時、二人の間に、「来年の今ごろ」(18章10節)、「必ず」「男の子が生まれる」という約束が与えられます。この夫婦は、この神の約束を、そんなことはありえないと考えて笑いますが、神は生まれる子の名をイサク(彼は笑う)とつけるように告げます。それは最初の約束が与えられてから24年目のことです。アブラムは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」といって笑いました。それは人間的には考えられない不可能なことであったからです。最初の約束の時から、その可能性は考えられない状況でしたが、25年の時の経過は、ますますそれを不可能にしていました。

しかし、「主に不可能なことがあろうか」(18章14節)と、主はアブラハムに言われます。聖書が語る信仰は、人間の可能性を信じることではなく、この不可能を可能にする、全能の神である主が語る約束を信じて聞き従う信仰です。主の約束に最後まで委ねる信仰です。約束は、人間の確かさではなく、神の持つ確かさ、神の揺るぎない決意によって実現するものです。この事実を聖書は、繰り返し語りつづけています。

聖書をひも解き、わたしたちが聞かねばならないのは、この神が語りかける言葉です。神が実現してくださる約束を信じることです。そこに、希望なき現状に生き、破れの中にある人間にも、神が示す希望と喜びを聖書は明らかにしています。神の語る約束、救いを信じるよう、神はわたしたちを招いておられます。

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