キリスト教講座

第2回 旧約聖書の語る神(2)苦難を共にされる摂理の神-ヨセフ物語から-

日時 2005年10月9日(日)午後2時-3時
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

【創世記37章3-7節】

1 ヤコブは、父がかつて滞在していたカナン地方に住んでいた。
2 ヤコブの家族の由来は次のとおりである。ヨセフは十七歳のとき、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。
3 イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。
4 兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。
5 ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。6 ヨセフは言った。「聞いてください。わたしはこんな夢を見ました。7 畑でわたしたちが束を結わえていると、いきなりわたしの束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、わたしの束にひれ伏しました。」

 

序.

前回、わたしたちは、創世記12章に記されているアブラハムの召命物語を中心にして、旧約聖書の語る神は「語りかけ約束する神」であることを共に学びました。

アブラハムを召し出した神は、「行きなさい」という命令を発し、「わたしが示す地に」という約束を与え、聖書が示す信仰には、神の語りかけに聞き従うことと、神の約束を信じることとの二つの面があることを明らかにされます。そして、アブラハムに与えられる約束には、彼の氏族へという線と、彼を通して世界のすべての民にというもう一つの線で、神の祝福と救いが広げられることが語れています。この意味でアブラハムは、「祝福の源」となると約束されていました。

第2回目の主題は、「苦難を共にされる神」です。アブラハムに与えられた約束が、その子孫たちの歴史においてどのように受け継がれ、成就していくか、その歴史を聖書は「救済史」として物語ります。今日学ぶヨセフ物語は、イスラエルの名を与えられたヤコブの物語に属し、イスラエル12部族の祖たちの歴史が物語られているところです。その歴史は、家族を崩壊させるような原因を自ら作り出した人間が、飢饉や様々な試練に直面しながら、それらの事態を、神の導きとして理解する信仰を与えられて、和解へと導かれる歴史として物語られています。ここでは、神は約束の受領者である人間の苦難を共にし、その歴史を導かれる摂理の神として示されています。

 

1.ヨセフの父ヤコブの歴史

ヨセフ物語は、創世記の中では、ヤコブ物語の一つの出来事として取り扱われています。神の約束は、族長であるアブラハム、イサク、ヤコブという人物に与えられ、族長は神の「祝福の源」として、その子孫に神の約束を媒介する仲保者とされています。

ヨセフの父ヤコブは、アブラハムの息子イサクから、双子の兄弟の弟として生まれました。ヤコブの父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛する(創世記25章28節)、偏愛の中で子を育てています。エサウの空腹につけこんでヤコブは長子の権利を得たり、兄エサウが受けるはずの族長の祝福を欺きによって得ています。そのため兄エサウから憎しみを買い、叔父ラバンの下へ逃ればならなくなります。ヤコブは叔父ラバンの下でその娘レアとラケルと結婚し、彼女たちと、その二人の娘に仕えるビルはとジルパたちとの間から12人の子供を授かりますが、ヤコブは叔父ラバンの下で、さんざんその欺きに苦しみながら20年間仕えることになります。兄弟を欺いてきたヤコブが皮肉にも叔父ラバンに欺かれて苦しみを味わいます。

ヤコブは家畜を飼う技術に長け、ラバンに多くの財産を築かせることになりましたが、自分も多くの家畜を得ていました。ラバンはそれを手放すことが惜しくなり、全部自分のものになるよう画策しますが、ヤコブはラバンに勝る知恵と技術で多くの財産を自分のものにすることに成功して、ついにラバンの下を去ることに成功します。しかし、父母の下に帰る事は兄エサウとの再会を意味しています。それは、兄から命を奪われるかもしれないという危険を冒す旅を意味していました。ヤコブは思案し、その危険を回避するための帰還準備をし、不安な夜をヤボクの渡しで過ごし、その夜、主と格闘してヤコブは、イスラエルという名を与えられます。その名は、神と戦って勝った記念として与えられたと創世記32章29節に記されています。

聖書は、父母の偏愛の中で育ち、欺き欺かれる人生を歩んだヤコブが、神と組み打ちして戦い勝って、イスラエルという名をいただいたその事実を告げ、「選民」の歴史の始まりを記しています。そこには聖家族といえるような、純愛や家族の美しい絆を見出しえない、どろどろとした醜い罪に汚れた歴史が見られます。イスラエルは神と戦って勝ったといわれますが、イスラエルの歴史は、この人間の罪の中で、自ら戦いながら生きねばならなかったことを聖書は書き記しています。

 

2.ヤコブの偏愛とヨセフの夢の結果

父母の偏愛の中で育ったヤコブもまた子を偏愛する父親でありました。「イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。」(創世記37章3節)という偏愛は、「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった。」(同4節)という兄弟の憎しみ、嫉妬を生みます。ヤコブは、四人の妻たちの中で、ラケルだけを愛していましたので、ラケルの子だけを偏愛して子供を育てました。「ヨセフは年寄りの子であった」といわれていますが、ヨセフはヤコブの12番目の子として産まれます。この父に溺愛された子ヨセフは、兄たちが何かするたびに、「兄たちのことを告げ口する」(37章2節)実に性格の悪い子として育っています。

兄たちは、父がヨセフだけを愛することに快く思っていないのに、このヨセフがまた、自分たちのことをいつも悪いように父に告げ口するものですから、余計に憎くらしいという思がつのります。それだけなら、まだ心の中の問題で済んだかもしれません。しかし、ある日、ヨセフが見た夢のことを、傲慢な態度で兄たちに話したために、ついに兄たちは機会があればヨセフを殺したいと思うほどに憎むようになります。ヨセフが見た夢の内容は、37章6節以下に記されています。それは、ヨセフが王になって、兄たちや父も、ヨセフにひれ伏して仕えるようになる、というものです。

父の溺愛とヨセフの夢は、兄たちのヨセフに対する憎しみを決定的なものにし、ついに、この家族の平和を決定的に破る出来事を引き起こします。それは、ある時、シケムで父の羊の群れを飼っているところへ、ヨセフが父の使いで出かけた時に起こります。ヨセフはシケムまで出かけますが、そこに兄たちがいないので、ドタンまでさらに長い道のりを尋ねて行きます。シケムからドタンは北に30キロ離れていますが、ヨセフはヘブロンからやって来ていますので、ヘブロンからシケムまで少なくとも90キロほどの距離です。そこは父の目から非常に遠く離れた場所です。父から貰ったすその長い晴れ着を着たヨセフの歩く姿は、遠くはなれていても、兄弟たちは、それが誰であるかすぐ気づきました。そこで兄たちは、ヨセフを殺す相談(創世記37:18)を始めました。とりあえず、ヨセフは兄弟たちに捕らえられ、裾の長い晴れ着を取られて、水のない空の穴の中に、投げ込まれることになりました。兄弟たちはヨセフを穴に投げ込んだ後、腰をおろして食事をしていた時、シュマエル人の隊商がやってくるのが見て、四男のユダが、弟を殺しても何の得にもならない。それより、イシュマエル人に売ったほうが良いという意見にみんなが賛同しますが、のんびりこの相談をしている間に、ミデアン人たちの商人たちが通りかかり、ヨセフを穴から引き上げて、「銀二十枚」でイシュマエル人に売ってしまいます。こうしてヨセフはエジプトに売られていくことになりますが、相談がまとまって長男のルベンがヨセフを引き上げようと穴のところに行き、そこにヨセフがいないのを知って、ルベンは動転します。兄弟たちは、父の溺愛の象徴であるヨセフのすその長い晴れ着を殺した雄羊の血に浸し、それを自分たちでもって行かずに、使いの者を通じて父のところに届け、ヨセフが野獣に襲われたと信じ込ませることに成功します。兄たちは、父親から今度こそ自分たちに愛が向けられるかも知れないと、密かな期待をもっていたかもしれません。

しかし、ヨセフを失って、父はただ愛する息子の死を幾日も嘆き悲しみ、息子や娘たちの慰めを拒んだといわれています。

家庭の崩壊は実に些細なことから起こりえます。この物語は偏愛の家庭の崩壊を描きますが、この崩壊した家庭は、何によって救われるのか、それはこの家庭にとって新しい希望につながる何かを示すことがで切るのか、そのことを読者であるわたしたちが考えるように促しています。

 

3.ヨセフ奴隷からエジプトの司政者となる

ヨセフは、17歳の時、エジプトに奴隷として売られました。父に溺愛され、平安に過ごしていた生活は、その日から一変しました。ヨセフをエジプトで買い取った人物は、ファラオの宮廷の役人で、侍従長をしていたエジプト人ポティファルです(創世記39章1節)。ヨセフは彼に信頼され、家の管理やすべての財産を託され彼の家は繁栄し大変喜ばれますが、彼の妻は、「顔も美しく、体つきも優れていた」ヨセフは彼の妻の欲望の対象にされ、主人への忠誠を守ろうとしてこれを拒むヨセフは、逆上した彼女から、事実無根の罪で、監獄に入れられることになります。

しかし、この出来事を記す39章は、「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、…主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである。」という言葉で結ばれ、主はエジプトの地で苦難を経験するヨセフと共におられることを明らかにされています。これらの苦難は、主のご計画の中にあり、その苦難を主が共にされます。「主が共のおられる」という言葉からこの事実を読み取ることが大切です。

ヨセフの苦難は、夢から始まりましたが、ヨセフのエジプトでの苦難から栄光への転換もまた、「夢」をきっかけとして起こります。ヨセフは同じ牢獄に入れられた王の給仕役と料理役の二人が見た夢を解きがきっかけで(40章)、王の見た夢の謎を解く機会が与えられることになります(41章)。

ファラオが夢を見て、その夢の意味を解くため、エジプト中の魔術師と賢者といわれる人を集められますが誰も解けないということが起こった時、2年前ヨセフに夢を説いてもらった給仕役がヨセフのことを思い出し、王にヨセフのことを進言し、ヨセフはファラオの夢の謎を解くことになります。

ヨセフは、ファラオが見た夢を聞き、その夢は7年間の大豊作の後、7年間の大飢饉が訪れ、豊作であったことが忘れてしまうような飢饉が国を滅ぼしてしまう事を示すものであるといってその謎を解きます。そして、ヨセフはその知恵によって、ファラオからエジプトの司政者として任じられ、王に次ぐ地位につきます。ヨセフ三十歳のときで、奴隷として売られた日から13年の歳月が過ぎていました。

ヨセフは、ファラオから「ツァフェナト・パネア」(エジプト語で「彼は生きる、と神は語った」という意味)という名を与えられ、オンの祭司ポティ・フェラの娘アセナトを妻として与えられました。ヨセフのいう通り、エジプトの国に7年間の大豊作が訪れます。飢饉の年がやって来る前に、ヨセフに二人の子が生まれます。ヨセフは長男にマナセ(忘れさせる)という名をつけ「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった。」と告白します。次男には、エフライム(増やす)という名をつけ「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった。」と告白して、13年間のエジプトでの労苦の日々を回顧します。その労苦の中で神の恵みの支配と導きが表されることをヨセフは知らされます。13年間のエジプトでの労苦はヨセフの信仰と生活に大きなものを与えました。

それから、7年間の大飢饉が起こり、「世界各地にも及ぶ」(創世記41:56)未曾有の大飢饉となります。ついに、世界中の人々がエジプトのヨセフのところに穀物を買いに来るようになりました。当然この飢饉はカナン地方も襲いました。

 

4.兄弟たちと再会するヨセフ-夢の成就、和解へ導く飢饉-

ヨセフの父ヤコブは、エジプトに穀物があると知って、息子たちにエジプトに穀物を買いに行くよう命じ、ヨセフは兄たちと再会することになります。父の命を受けてエジプトにやってきたのは、十人の兄たちだけで、ヨセフの弟ベニヤミンは同行していません。父ヤコブは、最愛の息子ヨセフを無くした悲しみが忘れられず、その弟ベニヤミンまで失いたくなかったので、同行させなかったからです。ヨセフもベニヤミンも今は亡き、最愛の妻ラケルが産んだ子でありました。父親の偏愛は少しも変わっていません。

「ヨセフの兄たちは来て、地面にひれ伏し、ヨセフを拝した。ヨセフは一目で兄たちだと気づいたが、そしらぬ振りをして厳しい口調で、「お前たちは、どこからやって来たのか」と問いかけた。

彼らは答えた。「食糧を買うために、カナン地方からやって参りました。」

ヨセフは兄たちだと気づいていたが、兄たちはヨセフとは気づかなかった。ヨセフは、そのとき、かつて兄たちについて見た夢を思い起こした。ヨセフは彼らに言った。「お前たちは回し者だ。この国の手薄な所を探りに来たにちがいない。」(創世記42章6-9節)

この再会の場面は、かつてヨセフが見た夢が成就する場面でもあります。しかし、それは奴隷に売られることになったヨセフの憎しみ・敵意の感情をあらわにする出会いでもありました。ヨセフは一目見ただけでそれが自分の兄たちであると判りますが、兄たちは、それがヨセフであることに気づきません。

兄たちは、「お前たちは回し者だ。」と激しく詰問するヨセフに、身の内話までして(創世記42:13)、自分たちは決してそのようなものでないことを必死に弁明します。

「僕どもは、本当に十二人兄弟で、カナン地方に住むある男の息子たちでございます。末の弟は、今、父のもとにおりますが、もう一人は失いました。」

この告白を聞いたヨセフは、最初、九人を監禁し、誰か一人が行って末の弟を連れてくるよう要求し、それが本当かどうか試すといって、三日間、彼らを監禁しますが、三日目後、ヨセフは、「兄弟のうち一人だけを牢獄に監禁するから、ほかの者は皆、飢えているお前たちの家族のために穀物を持って帰り、末の弟をここへ連れて来い。そうして、お前たちの言い分が確かめられたら、殺されはしない。」(創世記42:18-20)とその要求を緩和します。

兄弟たちはこの要求を突きつけられて、なぜこのような苦しみに合うか、「ああ、我々は弟のことで罰を受けているのだ。弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった。それで、この苦しみが我々にふりかかった。」(創世記42:21)と言ってその原因を考えるように導かれます。しかし、長男のルベンは、自分はそもそもその計画を止めさせようとしたが、「お前たちは耳を貸そうとしなかった」といって自己弁護しています。

ヨセフと兄弟たちとの会話は、すべて通訳を介してなされていましたので、かつての事件のことで嘆き、また自己弁護する言葉をエジプトの司政者は知らないだろうと、彼らは思っていましたが、ヨセフはそれらすべてを聞いていました。そしてたまらなくなり、「彼らから遠ざかって泣いた」(創世記42:24)といわれています。その涙は、激しい望郷、父や弟との再会を望む思いが込み上げて、という意味だけでなく、このいがみ合う兄弟たちを今許せないでいる自分の整理しきれない感情からわき上がり流された涙でもあったでしょう。

ヨセフはシメオン一人を縛り上げ、他の兄弟たちの袋に穀物を詰め、穀物を買うために支払った銀も袋に詰めて、その道中の食糧さえも与えて、兄弟たちを父のところへ帰します。道中で袋を開けた一人は、自分たちが持参した銀が袋に入っているのに驚き、それを神のなさった業として、その意味を考えながら帰ります。

兄弟たちは、エジプトで遭遇したすべての不思議なことを報告し、末の弟を連れて行かなければ、自分たちが回し者でないことを証明できないばかりか、人質にとられたシメオンも帰ってこないし、二度とエジプトに自由に出入りできないことを父に告げます。

これを聞いたヤコブは、「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」(創世記42:36)といって深い嘆きを表します。ルベンは必死に父を説得しようとしますが、父は頑として聞こうとしません。しかし飢饉がひどくなり、エジプトから持ち帰った食糧も底を尽きますと、再び息子たちにエジプトに食糧を買いに行くよう促します。今度はユダが、弟のベニヤミンを一緒に連れて行かなければ、それは不可能なことを告げます。これを聞いたヤコブはなぜ弟がおるなどと身内の事情まで話し、わたしを苦しめるようにしたのかと彼らの非を責めます。しかしユダは、忍耐深くその事情を説明し、ルベン同様、自分が犠牲になってその責めを負うからといって、父ヤコブを必死に説得し続けます。一度壊れた家族の平和、一致の絆が、この危機を契機に戻り始めています。ついにヤコブはベニヤミンを連れて行くことに同意します。

 

5.弟ベニヤミンとの再会を果たすヨセフ-罪の自覚と和解への導き-

ヨセフの兄たちは、末の弟ベニヤミンを連れて、エジプトのヨセフの前に再び立ちます。ヨセフはベニヤミンが一緒なのを見て、家の執事たちに命じて食事の用意をさせます。ヨセフの兄たちはこの異例の歓待に恐れを抱きます。ヨセフの屋敷にわざわざ連れてこられたのは、「あの銀のせいだ」と判断し、そのためにここにつれてこられ、今に奴隷にされるのではないかと恐れます。それ故、ヨセフの家の執事たちに、エジプトから帰りの道中のことを報告し、袋に入っていた銀を返すために持参したことも伝えます。執事は、「御安心なさい。心配することはありません。きっと、あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたたちの銀は、このわたしが確かに受け取ったのですから」と答え、シメオンを兄弟たちのところへ連れて来て、食事の席につくよう彼らを招きます。食事の席がすべて整ったところに帰宅したヨセフは、父の安否を尋ねた後、弟ベニヤミンをじっと見つめ、「前に話していた末の弟はこれか」と尋ねて、ベニヤミンに祝福の言葉を述べますが、弟懐かしさにヨセフは胸が熱くなり、こみ上げてくる涙を制しきれなくなったので、急いで席をはずし、奥の部屋に入って一人泣きます。そして顔を洗って、平静を装い、兄弟一同そろう食宴が始まります。ヨセフは注意深く、相伴するエジプト人と兄弟たちの食事を別々に用意させました。それはエジプト人のいとうことであったからです。ヨセフは、兄弟の年齢順に座らせたので兄弟たちは顔を見合わせ驚きました。そして、ベニヤミンには他の誰よりも5倍多く料理が配られました。ヨセフは、父や弟ベニヤミンと離別した20年の日々を噛み締めるように食事をしました。そして、この弟ベニヤミンを自分のもとにおらせたいという感情に深く支配されるのを抑えることができなくなっていったとしても、少しも不思議ではありません。たとえそれが父を悲しませることになろうとも、ヨセフはそうしたいと強く願うようになりました。

食宴の後、ヨセフは執事に命じて、めいめいの袋一杯に運べる限りの食糧を入れさせ、銀もそれぞれの袋に入れ、自分の銀の杯をベニヤミンの袋に穀物の代金の銀と一緒に入れるよう命じます。それは、弟のヨセフを自分のところに留めさすための策でありました。ヨセフは執事に命じて、一行が町を出てあまり遠く行かないうちに、彼らに追いついたら、「どうして、お前たちは悪をもって善に報いるのだ。あの銀の杯は、わたしの主人が飲むときや占いのときに、お使いになるものではないか。よくもこんな悪いことができたものだ。」(創世記44:4-5)というように命じます。

今度も身に覚えのない兄弟たちは、無実を証明するために、めいめい持参した袋の口を開けます。もし誰かの袋からそれが出てきたなら、そのものは死罪にあたる。そして自分たちは全員、「ご主人様の奴隷になります」と申し出ますが、執事は、ヨセフの銀の「杯」を盗んだ者だけが、奴隷になればよいと答え、年上のものから順次袋が開けられます。ついに一番年下のベニヤミンの袋を開けられて、それが出てくると、「彼らは衣を引き裂いた」と記されています。それは嘆きと悔い改めをあらわす行為です。父の悲しみを考えると彼らは、ベニヤミンだけをおいて帰ることなどできないと思い、ヨセフのいる町へ引き返しました。

ヨセフの屋敷に入れられ、ヨセフからその身に覚えのない罪について問い詰められて、ユダはその事態を、「神が僕どもの罪を暴かれたのです。」と捉え告白し、「この上は、わたしどもも、杯が見つかった者と共に、御主君の奴隷になります。」(創世記44:16) といって答えています。ヨセフを穴に投げ込み、殺そうとしたり、奴隷に売ろうとして、父の下から失わせることになって、家庭崩壊に至らせた罪を、神からの審きとして今このようにあらわされたと、この事態をユダは受け止めて告白しているのです。失われていた家庭への平和の意識が、この罪の告白から芽生えているのが判ります。この物語には、神が直接語りかけたり、ご自身を啓示される場面がありません。しかし、起こる事態を神の導きとして信じる、ヤコブの家族の信仰の姿が少しずつ、そして段々強く表れています。苦難を共にされる摂理の神の導きが段々彼らの心に迫る形で、ドラマは展開します。

ヨセフは、このユダの言葉に、「そんなことは全く考えていない。ただ、杯を見つけられた者だけが、わたしの奴隷になればよい。ほかのお前たちは皆、安心して父親のもとへ帰るがよい。」とそっけなく答えています。

しかしユダは、父ヤコブの心情を思いやり、ヨセフに次のように訴えています。

「今わたしが、この子を一緒に連れずに、あなたさまの僕である父のところへ帰れば、父の魂はこの子の魂と堅く結ばれていますから、この子がいないことを知って、父は死んでしまうでしょう。そして、僕どもは白髪の父を、悲嘆のうちに陰府に下らせることになるのです。

実は、この僕が父にこの子の安全を保障して、『もしも、この子をあなたのもとに連れて帰らないようなことがあれば、わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます』と言ったのです。何とぞ、この子の代わりに、この僕を御主君の奴隷としてここに残し、この子はほかの兄弟たちと一緒に帰らせてください。この子を一緒に連れずに、どうしてわたしは父のもとへ帰ることができましょう。父に襲いかかる苦悶を見るに忍びません。」(創世記44:30-34)

 

6.自分の身を明かすヨセフ-苦難を共にし導く神を明かしするヨセフ-

このユダの言葉は、ヨセフの心を深く揺り動かしました。そしてもはやヨセフは平静を装うことはできなくなり、「みんな、ここから出て行ってくれ」といってそばに仕えているもの全員を去らせ、声を上げた激しく泣きました。その声は、エジプト人にも聞こえ、ファラオの宮廷にも伝わることになりました。ついにヨセフは兄弟たちに、

「わたしはヨセフです。お父さんはまだ生きておられますか。」

と身の内をあかします。兄弟たちはヨセフの前で驚きのあまり、答えることができず、しばし呆然とそこに立ち尽くしていたことでしょう。

その呆然と立ち尽くす兄弟たちにヨセフは、次のように語ります。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。この二年の間、世界中に飢饉が襲っていますが、まだこれから五年間は、耕すこともなく、収穫もないでしょう。神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。神がわたしをファラオの顧問、宮廷全体の主、エジプト全国を治める者としてくださったのです。」(創世記45章4-8節)

特に傍点をふったヨセフの言葉に注目してください。ヨセフは自らに起こった苦難の20年間の意味をこのように語っています。それは、神の御心と支配の中で起こったことであるので、兄弟はそれを「悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」と赦しを語っています。その苦難、家庭崩壊が、大きな神の救いの計画であるとすれば、その苦難を神が共に担い、神がその苦難を共にして歩んでくださった恵みの歴史であったということができます。そして、それはまさに、家族の救い、他者の救いのための役立つために与える、神による苦難ということになります。

ヨセフはこの後、父も一緒につれて来るように頼みます。そして一緒にこの地で住むよう提案しています。そして、「ヨセフは、弟ベニヤミンの首を抱いて泣いた。ベニヤミンもヨセフの首を抱いて泣いた。ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」と記されています。

兄弟の和解がこうして実現します。ファラオの計らいで多くの品や馬車まで与えられます。そしてヨセフは、父を迎えに行く兄弟に「途中で、争わないでください」といって送り出しています。

ヨセフがまだ生きていると聞いた父ヤコブは、最初は、気が遠くなり、それを信じることができませんでした。しかし、ヨセフが父を乗せて迎えるために用意した馬車を見て、「父ヤコブは元気を取り戻した」といわれています。こうしてヤコブは、エジプトに下ります。そしてついに、ヨセフと父ヤコブは、20年ぶりにゴシェンの地で再会を果たします。「ヨセフは父を見るやいなや、父の首に抱きつき、その首にすがったまま、しばらく泣き続けた。」(創世記46章29節)この描写は、重い20年、失われた時を感慨深く噛み締める二人の心が一つになる、深い喜びを見事に描いています。そして、 イスラエルはヨセフに言った。「わたしはもう死んでもよい。お前がまだ生きていて、お前の顔を見ることができたのだから。」この言葉は、神の恵みの導きにより再会を果たすことができた父のただ一つ言い得る、一番言いたいと望んでいた、喜びの言葉です。

このヨセフの顔の輝きを見たヤコブは、その背後にあって輝く神の導きの確かさを深く覚えることができたでしょう。

わたしたちの人生もまた、このヨセフとその兄弟たちのように、父母の溺愛に対する嫉妬から兄弟の関係が破れるようなことも起こらないとは限りませんし、現実に、色んな些細なことから家庭を崩壊させるような危機が起こっています。その時、その危機を人はただ嘆くだけで過ごしてしましやすい。しかし、その苦難の中に神の導きをみる人は、その苦難を喜びと希望の目で見ることさえできることを、この物語はわたしたちに教えてくれます。

その意味で、使徒パウロの次の言葉を覚えて、この物語のまとめとしたく思います。

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。

(コリント人への手紙第二7章10節)

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