キリスト教講座

第6回キリスト教講座『恵みと憐れみの神-新約聖書の福音理解と宣教の架け橋ヨナ書』

日時 2006年4月9日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.いまヨナ書を学ぶ意義

今回のキリスト教講座では、ヨナ書を学びます。このヨナ書は、新約聖書の福音理解と宣教を理解する、架け橋となる書です。ヨナ書が伝えるメッセージは、非ユダヤ人(異邦人)のほうが実は神の意思に沿い、ユダヤ人アミタイの子ヨナのほうが、神の御心を理解していない、というものです。「アミタイ」とは「ヤハウエは真実である」という意味で、「ヨナ」は「はと」という意味です。しかし主の前に真実な信仰を言い表したのは、ヨナではなく、むしろ異邦人です。彼は神に強制されてやむなく異邦人に神の言葉を伝えはしたものの、なぜ神がそのようになさるのか、まったく理解できなかったのに、彼は「異邦人への使徒」の最初の人物となります。ヨナは、救いは神に選ばれた民ユダヤ人にのみ与えられるものであり、それを異邦人には与らせるべきではないという狭隘(きょうあい)な自民族中心主義(ナショナリズムの信仰)に凝り固まっていた人物です。ヨナ書には、彼の考えの狭さを批判する神の言葉を記され、彼の考えを正そうとする神の言葉が記されています。ヨナ書の最後は、救いは異邦人にも宣べ伝えられるべきではないかという神の問い、疑問文で閉じられています。

それゆえ、この書を読む者は、いつの時代を生きる人間であっても、差別意識を相克し、神の前に平等な救い、等しい人間としての扱いをして生きることの必要を促すこの問いの前に立たされます。その意味で、この書はきわめて現代的な課題を問う書であるということができます。この時代にこそヨナ書は読まれる必要べき書であるということができるでしょう。

 

2.ヨナ書のメッセージ

土岐健治は「イエスと初期ユダヤ思想」(「イエス・キリストの再発見」百瀬文晃編、中央出版社所収)において、ヨナ書は、明らかに列王記下14章を前提にしている、と述べています。以下に土岐の議論を紹介します。列王記下14章23-27節には、イスラエルの王であったヤロブアム二世(前785-774年)のことが書かれています。彼は神の前に徹底的に悪を行ったが、なんと41年もの間、平和な治世を続けることができ、その間にイスラエルの領土は非常に拡大します。神の前に悪いことばかりした王が長い治世に恵まれて、しかもイスラエルはかつてない繁栄を謳歌します。その時代に「アミタイの子ヨナ」が登場します。列王記下14章には、ヤロブアム二世の治世が祝福され、恵まれたのは、アミタイの子ヨナが語った通りであるという意味のことが記されえています。アミタイの子ヨナは、神の前で悪いことばかりしている王でも神が豊かな恵みをお与えになるのだ、という預言をし、その通りなったのです。ヨナ書の著者は、これはちょっとおかしいのではないか、ということを言っていると土岐は述べています。

ヤロブアム2世が神の前に悔い改めたということ一言も記されていません。ところがヨナ書では、ヨナがニネベに行って神の言葉を伝えるとニネベの人々が悔い改めてしまったということが書かれています。ニネベという都市は、イスラエルの人々にとって、自分たちの国を滅ぼした憎き宿敵アッシリアの首都です。しかしその町が悔い改め、神は災いを下すのを思い返されます。旧約聖書中、ユダヤ人以外の異邦人に対して、「神が災いを下そうとしたことを思い返された」(3:10)という言葉が使われているのは、ヨナ書だけです。その時ヨナは「だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方である」(4:1-3)ということを知っていたから、といって怒っています。

これは実に奇妙です。なぜ神の行動にヨナが怒るのか、導かれる結論は一つだと土岐は言います。神がユダヤ人に恵み深いのはよいが、異邦人に恵み深いことをヨナは許すことができない。それは、列王記下14章の生涯悔い改めることなく悪いことばかりしたヤロブアム二世の時に、神が豊かな祝福を与えることを預言したあのヨナという預言者の姿が一種のパロディー化されている、と土岐は言います。ヨナ書はそれを批判しながら書かれているということは、「そうでない」と考えるよりもはるかに自然だと土岐は結論付けています。

この解釈は土岐の一つの仮説的なものですので、それをそのまま採用してよいかどうか慎重さが求められますが、その福音理解を逆転という点で捉える土岐の見方には傾聴に値する面が多くあります。

 

3.ヨナ書の内容

「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」と報じてヨナの物語は始まります。この記述において見逃してならないのは、「主の言葉が…に臨んだ」という啓示に言及している点です。著者は人間の経験ではなく、神の言葉と行為を前面に出して、事柄を信仰において受け入れ、知ることを期待して、筆を進めています。

「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。…」(2節)と、ヨナに向けて神は命じておられます。ヨナは大いなる都ニネベに行き、「彼らの悪はわたし(神)の前に届いている」と戒告せよと命令を受けています。ヨナはニネベの罪に対して神の審きを語る預言者としての召命を受けたのです。

しかし、ヨナは逃亡し、神の命令から身を引こうとしました。ヨナは、自分が神の命令に従ってニネベに向かって主の審きを語れば、ニネベは悔い改めて救われるかもしれないと恐れたからです。それゆえヨナは、神の計画を無効にしようとニネベと反対の方角にあるタルシシュに向かう船に乗って逃亡します。

ヨナ書1章には注目すべき鍵になる語があります。それは、クームとヤーラードというヘブライ語です。神はヨナに向かって、「立ち上がれ、そしてニネベで呼ばわれ」(1:2)と命じています。「立ち上がる」はヘブライ語ではクームで、「呼ばわる」は「カーラー」です。ヨナは神によって「立ち上がれ」と命令されても、繰り返し上に上らないで下に下って行きます。「下る」はヤーラードです。ヨナはまずヤッファに下り、そしてタルシュシュ行きの船に乗ります。この「下る」も「乗る」もヤーラードです。そして嵐になったときには、さらに船の底まで下って行きます。上に上れといわれたヨナは、ひたすら下に下り続け、ついに魚の腹に入って海の底まで下ってしまいます。ここでヨナの信仰は下へ「下る」(ヤーラード)ばかりです。反対に、異邦人のほうが神への恐れもって、最初は自分たちの神の名を呼び(5節)、最後には「大いに主=ヤハウエを恐れ」、その名を呼んだといわれています。彼らのほうが信仰的に「立ち上がるもの」(クーム)であることを示しています。そして、異邦人の船乗りは、いけにえをささげ、誓いを立てています(16節)。それは船を下りてからヤハウエ崇拝者として、主を礼拝するものになったということを示しています。

この過程でヨナは、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」(9節)といっていますが、彼は本当に主を恐れるものとしてふるまっていません。新共同訳聖書は1章16節については、ヨナの言葉にのみ「畏れ」という漢字をあて、船乗りについては、「恐れ」という漢字をあてていますが、ヘブライ語では同じ言葉が用いられています。

2章には、海に投げ込まれた後のヨナの消息が語られています。2章1節が報じていることは、「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませて」救われたという主の恵みと憐れみによる救いです。御言葉に背いて罪を犯したヨナは神の審判により海に投げ込まれることになったが、神は、「巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませ」、三日の後再び陸地に吐き出させるという不思議な方法によって救われました(11節)。

こうして救われたヨナは、再び、自分が逃れようとした元来た道に連れ戻されています。3-10節に記されている、ヨナが魚の腹の中でささげたとされる祈りには、ヨナの悔い改めと真実な信仰への立ち返りを示したように見えます。しかし、3-4章に見られる彼の行動は、まったくそれと逆のことを行っています。

3章には、ヨナに向けられたニネベに行って主の言葉を告げよとの二度目の要請がなされ、ついにヨナがその命令に従った物語が記されています。

ヨナは再び、「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ」(3:1)との主の命令を受け、今度はそれを実行しています。ヨナはニネベに行って、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」との主の言葉を告げています。

すると、ニネベの人々がヨナの言葉を聞いて、神を信じ、「身分の高い者も低い者も(原文は「大人も子供も」)」、王も大臣も悔い改め、国中に悔い改めの呼びかけの布告を発して、国中が悔い改め、神は思い直されて、宣告した災いをニネベに下すのをやめられるという事態が起こります。

3節2行目の「ニネベは非常に大きな都で」は、ヘブライ語を忠実に訳せば、「ニネベは神にとって大きな町で」となります。ニネベが神にとって大きな町であったのは、神の目から見て「大きな意味を持つ」という意味です。即ち、その救いのご計画の中で、そのようなものとして取り扱おうとさた神の決意がこの言葉に表されています。

ヨナの祈りの言葉にある、「救いは、主にこそある」(2章10節)ということが、ここで主の真実として起こっています。

ニネベは、ヨナの宣べ伝えた「主の言葉」を聞き、悔い改めたのです。人を悔い改めへと導くのは、主の言葉です。その言葉において働く主の恩恵の力です。ニネベは、主のご計画の中で、「主にとって大きな町」としての意義を持っていました。

この主の御旨の中で「あと四十日で、ニネベの都は滅びる」との裁きの言葉を聞いて、ニネベは悔い改め、主の審きから免れ、救いに与りました。

主は、この事実を通して、ヨナに代表される、ユダヤ主義に立つ、救いの優越信仰を否定されます。救いは、主の恩恵としてのみ存在します。選びの特権は、主が与えている限り揺るがない。しかし、その選びはまた、主の恩恵によって異邦人にまで広げられることがあります。そのことの故に、先立って選ばれた民は、妬(ねた)んだり、拒んだりして、宣教の命令に反する行動はゆるされていません。

ユダヤ人中心主義の独善的な救済観を訂正するのは、神の恩恵の意思です。しかし、ヨナはそれを未だ自覚していません。ヨナの頑なさ、それは、わたしたちの心の問題でもあります。神は、私たちの心の願いや期待に反して、自らが「大きい」とするものを、「大きい」ものとして扱われます。神の恩恵の大きさ自由さに従うところに、世界大の宣教、普遍的な福音の提供の道が開かれていきます。神はこのようにして人間の己惚れを打ち砕き、自らの力によって、世界への宣教の道を開かれる方であることを告げ、新約の主イエスの福音の準備をされます。

4章には、ニネベの救いに対するヨナの抗議と主の答えが記されています。

ここには、狭いユダヤ主義の信仰を相克させる徹底した主の恩寵による福音理解のあり方を示す言葉が記されています。最後に記された主の言葉は、「ヨナよりも勝る者」として出現する新約のイエス・キリストの福音を指し示すものです。

ヨナは、「救いは、主にこそある」(2:10)と告白しましたが、主にこそある救いは、選民であるユダヤ人だけに与えられるものであるという考えに凝り固まるユダヤ主義者でした。だから、二度目のニネベへの宣教命令に従っていても、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」という主の審きの言葉は、文字通りそのまま行なわれることを期待してヨナは告げています。

しかし、ヨナがニネベに審きの言葉を告げると、その言葉を聞いたニネベは悔い改めました。そして、主はニネベの悔い改めを見て、下そうとしていた災いを思い直され、やめられました。この結果はヨナにとって意外でした。ヨナは主の救いは主の選びの民ユダヤ人にのみ与えられるものと信じていたからです。ヨナは、その信念に基づき、憤り、公然と主に抗議しています。

ヨナはこのところで、主の命令に背いてなぜタルシシュに行ったかその理由を、「わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(2節)、と述べています。ヨナはこの点正しく主を見ていました。にもかかわらずヨナの信仰は、ユダヤ主義の狭隘さを克服できません。ヨナが見ていた通り、主は「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方」です。その様な神として、ニネベに下そうとしていた災いを思い直されたのです。ヨナは自らのユダヤ主義の信仰から、この結果に対する不満、憤りを表明し、この期待に答えない主に対してヨナは、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです」(4章3節)といって抗議しています。

ヨナの信仰は「こうあるべきだ」というところに立つ信仰です。こうあるべきだという願望は、「恵みと憐れみの神」としばしば対立します。神に自分の思いの中で行動してもらおうとします。

しかし、主は「お前は怒るが、それは正しいことか」とヨナに向かって主は問われます。それはまるで主がヨブに対していわれた言葉のようです。

「これは何者か。知識もないのに
神の経綸を暗くするとは。」(ヨブ記42章3節)

ヨブに向かっていわれたように、主はヨナに向かって、「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われます。しかし、主の言葉にヨナは直ぐに答えていません。かつてエリヤは自分の命を取ろうとする敵の攻撃を受けて主に対する疑いの呟きの言葉を述べました(列王記下19章)。エリヤの呟きは、宣教の挫折と迫害がその理由でありましたが、ヨナの場合は、反対に彼の意図に反して宣教は成功しています。ヨナは、その結果によって、彼の信条が拒否され、神の恵みによって自分の信念が崩れ去る危機を感じて、主に公然と抗議しています。エリヤは見えない神の偉大さにまでその信仰を飛躍させることができませんでした。そして、ヨナは神に敵対して生きていた異邦人まで悔い改めさせ救いへと至らせる恵みと憐れみの神の偉大さによって、その信仰の狭隘さを克服することができないでいます。

「お前は怒るが、それは正しいことか」という主の問いに対するヨナの答えがないままこの物語は続きます。「ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」と5節に記されています。それは、主がどうされるか見てやろうではないかという実に高慢な態度です。しかし、主はどうされたかというと、ヨナを強い日射しによる暑さの苦痛からから守るためにとうごまの木に命じて芽を出させられた、と記されています。ヨナはこの快適さに不満は消え、このとうごまの木を大いに喜びます。しかし、翌日神は虫によってこのとうごまの木の葉を食い荒らさせた上で、東風を吹き付けるように命じられたので、ヨナはあまりの暑さで死を願うほど苦痛を感じ、「生きているよりも、死ぬ方がましです」と呟くようになります。

このように怒り狼狽するヨナに向かって神は、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」(9節)と更に問います。ヨナがとうごまの木のことで怒りを表すのはある意味で当然です。なぜなら、ヨナには何故とうごまの木が突然はえてきて、また何故突然枯れたのか、その理由が分からないからです。それは、神の業であったからです。ヨブが「これは何者か。神の経綸を暗くするとは」と問われたように、ヨナの怒りは人間的には当然と思えても、人間の目に見えない神の深い計画を自分の願わない結果となって現れたからといって、神のなさるわざに怒りを表明することは間違っている、との主の問いかけがここにあります。

しかし、ヨナは最後まで主の驚くべき恵みと憐れみに満ちた計画を喜びをもって知ることができないでいます。

そして、「それは正しいことか」との主の問いに対して、ヨブは「もちろんです」と答えています。ヨナはとうごまの木が生えるように自ら祈り願ったわけでも、それに水をやって管理していたわけでもない。とうごまの木の生えること枯れること、そのいずれもヨナの意志とかかわりなく存在します。そのことに対してヨナは何の関わりもない。そのところに木を茂らせたのは神であり、ヨナは自ら労しもせずにたった一日といえどもその快適さを喜ぶことができました。それは、主の恩恵として与えられた喜びであり、救いを意味していました。

ヨナにこの事実に目をむけさせるため、主は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」(10-11節)と答えています。

主は小事に目を向けさせ、より大きなことへと目を向けさせようとしています。ヨナは自ら労して育てたわけでもないとうごまの木が一夜で枯れたことを惜しんでいます。それならば、神の恵みによって選ばれた者だけでなく、これまで神の救いに与ることなかったニネベにいる多くの異邦人や罪人に同情しない神は矛盾ではないか、と主はヨナに問うているのであります。

実はヨナ書の最後は疑問文で終わっています。ヨナ書のテーマはアッシリアの首都ニネベです。この同じアッシリアをテーマとして記された書が旧約聖書の中でもう一つだけありますが、それも疑問文で終わっています。聖書中、疑問文で終わっている書は、この二つだけです。新共同訳聖書はどちらも疑問文で訳していませんので、それを読んだだけでは分かりません。もう一つの書はナホム書です。ナホム書の最後は、アッシリアがいかに周囲の民族を苦しめたか、アッシリアが以下に悪いことばかりしたか、アッシリアから苦しめられなかったような民族はあっただろうか、そんなアッシリアは滅びてしまえ、いや滅びるに違いないだろう、と言葉鋭く疑問文で締めくくられています。ナホム書はアッシリアが滅びる直前に書かれたと考えられていますので、ヨナ書から何百年も前の書です。ヨナ書はこれを意識しながら、同じ疑問形で全体を締めくくったと考えられます。アッシリアのニネベを神が「わたしが惜しまないでいられようか」、と同じ疑問文で終わりながら、ナホム書とまったく逆のことをヨナ書は提示しています。そうすることによって読者自らこの問いに答えるように促しています。

 

4.ヨナ書と新約聖書とのかかわり

新約聖書には、ヨナ書の言葉、名、地名などと深いつながりを持っていると思われるところが沢山あります。そのつながりから、新約聖書がヨナ書をいかに意識して書かれているかということが見えてきます。この点に関しても土岐は深い洞察をしています。

ヨナ書のギリシャ語訳には、新約聖書で重要な言葉、「宣教する」(ケーリュッソー)という動詞やその名詞形の「宣教」(ケーリュグマ)という語が用いられています。これは「宣べ伝えられたもの」という意味ですが、この二つのギリシャ語は、「呼びかけよ」というヘブライ語の「カーラー」の訳として、1章と3章に用いられています。3章2節の「わたしがお前に告げる言葉を告げよ」は、「わたしのケーリュグマに従ってケリュッソーせよ」となっています。4節の「ヨナは・・・叫び」も、5節の「ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ」も、7節の「布告を出し」も「ケーリュッソー」です。この語は旧約聖書中ヨナ書だけに出てくるものではありませんが、新約聖書とこれだけ関連を持った語が短い書物の中に繰り返し現れることは注目すべきことです。パウロは旧約聖書を引用するとき、ほとんどギリシャ語訳聖書から行っていますので、その福音理解においても重要な影響を与えたであろうと考えられています。

新約聖書の中でイエス自身「ヨナのしるし」(マタイ12:38-41、ルカ11:29-30,32)に言及されていますが、中でも注目すべきなのは、マタイ福音書16章4節で「ヨナのしるし」に言及し、さらに16章17節では、イエスに対し、「あなたこそキリスト(新共同訳聖書はこれをヘブライ語のメシアとわざわざ訳している)、生ける神の子です」という最初のキリスト告白をしたペトロに対して、イエスは「シモン・バルヨナ」と呼びかけています。ペトロの添い名としてのバルヨナという名は、ほかでは知られていません。「バル」とは子供という意味ですから、「バルヨナ」は、「ヨナの息子」という意味になりますが、他の福音書伝承では、ペトロの父親は別の名(ヨハネ)を持っています。「ヨナのしるし」や「ヨナに勝る者がここにいる」ということを12,16章で繰り返した後で、マタイは、キリスト告白をしたシモン・ペトロはまさに「ヨナの息子」である、つまりヨナ書に示されている精神を受け継ぐものであるということを言っているのではないか、というのが土岐の意見です。

列王記下ではヨナの出身地はガト・ヘフェルといわれていますが、それはガリラヤのナザレのすぐ隣村で、数キロ以内のところにあります。ヨナ書では、そのヨナがヤッファに下り、タルシシュへと向かいます。タルシシュがどこかいろんな意見があります。サルディニアとする説もありますが、言語学的には「海」という意味であろうというのが現在有力だと土岐は言っています。紀元後1世紀のユダヤ人歴史家ヨセフスは、ヨナ書の関連で出てくるタルシシュは「キリキアのタルソス(タルソ)」のことだと明言しています。新約聖書使徒言行録には、「キリキアのタルソス」出身だと述べているパウロは言葉が記されています(21章39節)。しかしパウロの書簡の中にはそのことが一度も触れられていません。

土岐は、ガテ・ヘフェルからヤッファ、そしてタルソスへ向かい、結局タルソスへは行かず、世界の中心地ニネベに達する、というヨナ書の構造をかなり早い時期のキリスト教徒の間で意識されていたのではないかと推論しています。

ヨナを超える者と言われるイエス、ガト・ヘフェルのすぐ隣村であるイエスの出身地ナザレ、このナザレから福音が始まります。使徒言行録ではヤッファはペトロの関連でしか現れません。ペトロによって福音は担われ、ヤッファまで行き、そこを舞台に異邦人受け入れの準備が整い(10-12章)、入れ替わるようにパウロが登場し、「タルソスの人」パウロにその福音は手渡され、ローマへと至ります。土岐は、これはヨナ書において世界の中心地であるアッシリアのニネベへと神のケーリュグマが伝わったこととパラレルではないか、と指摘しています。

そして土岐は、パウロは「異邦人への使徒」としてのヨナの使命とヨナ書のメッセージを強く意識し、自分自身の使命と福音理解をこれと重ね合わせたのではないかと述べ、当時一般に、救いはまず第一にイスラエル民族に与えられる、異邦人が救われるとしてもそれはそのあとのこと、と考えられていたのですが、パウロはこの順序を逆転させた。その逆転に到達する思考の過程において、パウロはヨナ書から重要な示唆を与えられたのではないかと大胆に推論しています。

土岐が示すこれらのヨナ書と新約聖書の関連に関する仮説は、そのまま受け入れることはできないにしても、新約聖書の福音理解を考えるとき、このヨナ書で示された逆転の発想は、重要な意味を持っていることだけは確かです。

少なくとも、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ3:26-29)というパウロの言葉は、「どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」というヨナ書の最後の言葉と福音理解と本質において通底しているということができるでしょう。

混乱した現代世界の中で世界の平和や一致を考えるとき、この世界の救いに積極的な態度を示す神について語るヨナ書の視座をもつことの大切さを深く思わされます。勿論、それは一人一人の信仰問題、救いの問題を、その視座から問い直し、他者の救いをこの視座から見る目を一人の人間が持つことから始めなければなりません。しかし、そうであるが故に、このヨナ書の最後の疑問文を自分への問いとして受けとめて一人一人が生きていくことが大切さを深く思わされます。

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