キリスト教講座

第5回キリスト教講座-主題 『十戒-キリスト教信仰と倫理、そして現代倫理を考える』

日時 2006年3月12日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.聖書の人間観と聖書の宗教特質

聖書は、神が御自分にかたどって人を創造され、男も女も神にかたどられ(創世記1章26-27節)、「神に僅かに劣るものとして」、神の「御手によって造られたものをすべて治める」(詩篇8:6,7)特別な任務を持つ存在とされたと語られています。人間に与えられている神の似像性について、神によって秩序づけられた世界を、それにふさわしく保ち治めることとの関連で旧約聖書は語っていますが、新約聖書は、神のかたちを、真の知と義と聖をそなえる宗教性を持つ人間の特質として述べています(ローマ書8章、エフェソ書4章17-24節)。神の似像がすべての人間の男女に平等に与えられていることは、すべての人は宗教的な存在として、神との交わりの中で生きるものとして造られていることを明らかにしています。しかし、その神の似像と人間の宗教性が、罪の結果歪んだものへと変化した事実も聖書は語っています。ローマ書8章は、そこに人間の倒錯した偶像崇拝や、道徳性の混乱が生じる原因があることを明らかにしています。

聖書が前提している人間と神の関係は、人間の真の宗教性と真の生き方とは、神の語りかけに聞くところから始まるということです。この人間としてのあり方は、本質的には、特定の人に限られた問題として論じられていません。それはすべての人間に神の似像が与えられている事実から見てもいえます。それゆえ、世界のすべての人は、語りかける神の声に聞き、その意思に従うとき、人間としての真実な生き方をすることができるというのが、聖書が説く根本的な主張です。

しかし、罪ある人間にいつも平等に神は変わりなくその語りかけを行ってきたかというと、そうでなかった事実も聖書は明らかにしています。イスラエルという民をご自分の民として選び、彼らに救いを約束し、彼らを苦難の中から救い出し、救い出された彼らがその救いの約束のうちに留まるように、《契約》という手段を用いて、いかにして救いへと導く神の語りかけを聞くべきかを明らかにし、また実際語りかけをされた歴史を聖書は記しています。このように、聖書は神の似像としての人間の宗教性の普遍的な面と、現実の宗教の成立としての神の選びというに二面から論じています。この後者の面では、聖書の宗教は、イスラエルのみを選んだという点で非常に差別的で排他的な宗教である、という批判も成り立ちます。しかし、この選びの目的は、その扱いの差別性に置かれているのではなく、救いが神の恩恵よることを明らかにすることに置かれています。

イスラエルの選びの歴史は、人間は、孤立した一人としてではなく、神に選ばれた共同体、「主の民」として、共に神の語りかけにどのように聞くべきか、その聞いたことに対してどのように従うべきか、を問われる存在としてあることを明らかにしています。そしてそれは、《契約》というかたちで、明らかにされています。本講座では、その契約の中心をなすものとして、また総括するものとしての「十戒」についてお話していきたく思います。

 

2.主の民として生きる共同体として

宗教の問題、信仰の問題を、「民」として捉えるという聖書の視点は、わたしたち日本人の宗教観・信仰観と根本的に違うところです。日本において支配的な宗教は、神道と仏教ですが、神道は、言わば村、地縁共同体というものを土台とする宗教です。仏教は、日本に固有の宗教ではありません。そして元来、個の宗教です。個が世界とのかかわりの中で如何に解脱するか、悟りというものを問題にする、そういう特性を持っています。これが徳川時代に檀家制のもとに宗門改めなど思想弾圧の手段として利用され、大きく体制の宗教として変質していきます。しかし、本来の仏教は、家を守るための宗教ではなく、完全なる個の実現を目指す宗教です。神道は、一面「民」としての聖書宗教と似ているように思えますが、その中身は全く違います。どう違うかというと、地縁共同体というのは、同じ場所で生まれた人間、同じ血縁的な関係で結ばれているということを基にしていますので、その本質として自由というものを認めません。同じであることを祭りへの参加などによって強要する、普段は寛容そうに見えても、そういう不寛容な側面がいつもあります。しかし、イスラエルの民というのは、一般に想像されているほど決して、血縁的同質性を基にした民ではありません。

共同体としてのイスラエルの成立において決定的なのは、エジプトからの脱出という出来事があることを聖書は語っています。エジプトから脱出するときの物語が出エジプト記に記されていますが、「脱出の目的」が5章3節に、「ヘブライ人の神がわたしたちに出現されました。どうか、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください」と記されています。それは、神を礼拝するためであることが非常に明瞭に述べられています。ここでイスラエルは、自分たちのことを「ヘブライ人」と呼んでいます。彼らのことをエジプトでは、「ハピル」と呼んでいました。それは元来、「川向こうの人々」という意味で、どこから来たかわからない血筋もはっきりしない、社会的には寄留者、被抑圧者で、様々な生活の乱れとか対立の起こる奴隷的な、社会的に非常に低い層の人々をさす言葉として用いられていました。つまり、イスラエルがイスラエルとなる以前の自分たちの生業(なりわい)をそのように受けとめていた、という事実を見落とさないことが、聖書の宗教を考えるときに非常に大切です。そして、エジプトのファラオの支配から脱出した「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしい数であった」(出エジプト記12:37-38)と言われています。壮年男子だけで60万人ということは、総勢300万人にはくだらない人がエジプトを脱出したということになりますが、実際これだけの人が隊列組んで歩けば、先頭がシナイ山に着いた時、最後尾はまだ紅海を渡っていないということになります。だから歴史家は、実際ははるかに少ない人数であったと見ています。この点について詳しく論及することはできませんが、この記述の中で注目したいのは、「種々雑多な人々もこれに加わった」という言葉です。ケラーという人の書いた『ヘブライ的人間』という本には、イスラエル人の人骨を調べると形質的に一様なものは存在せず、イスラエルという血のつながった血縁関係を認めることができないということが書かれています。これは、イスラエルが血縁的なつながりでできた民でないことを明らかにしています。

また、「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱(ねぎ)や玉葱(たまねぎ)やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。』」(民数記11:4-6)とすぐつぶやく真にまとまりの悪い人々によって構成されていたのが出エジプトの民イスラエルでありました。歴史家は、エジプトを脱出したイスラエルは、本来「民に加わっていた雑多な他国人」が中心であったのではないかと見ています。民数記13-17章には、彼らはモーセを殺そうとさえしたと報告されています。

このようにモーセは非常に統一しにくい民を導いて、シナイ山にまでやってきたことになります。シナイ山に来て「種々雑多な人々」がどうして一つとなりえたのか、それ自体一つの奇跡です。しかしその奇跡がどうして可能だったのでしょう。それは彼らを選ばれた神が、彼らを分け隔てなく愛されたということが、聖書の語っている一番の理由です。聖書の次の言葉がそのことを証言しています。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである。あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。この方は、御自分を愛し、その戒めを守る者には千代にわたって契約を守り、慈しみを注がれるが、御自分を否む者にはめいめいに報いて滅ぼされる。主は、御自分を否む者には、ためらうことなくめいめいに報いられる。あなたは、今日わたしが、「行え」と命じた戒めと掟と法を守らねばならない。」(申命記7:6-11)

ここでイスラエルは「主の聖なる民」と呼ばれています。彼らが聖と呼ばれるに値するものでないことは、これまで述べてきたことからも明らかです。この場合の「聖」という概念は、十戒の安息日の言葉にもありますように、主のためにとっておく、主がご自分のものとされることによってなりたちます。現実のイスラエルは、数が少なく、貧弱な、他の民よりむしろ劣っているといってもよい、そういう存在でした。そんなイスラエルを「主の聖なる民」「御自分の宝の民」とされたのは、「主が心ひかれて」彼らを一方的に愛した故であることが明らかにされています。しかし、選ぶ主と選ばれるイスラエルの関係は、《契約》において結ばれます。この神とイスラエルの契約関係を明確にする批准の儀式が出エジプト記24章3-11節に次のように記されています。

モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」

モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。

この契約は、神の選びと愛に根拠があります。だから、神の呼びかけに聞き従うことによって、神と民との間における関係は維持されることが明らかにされています。選ぶ神の愛に応える道は、その愛に信頼し、その言葉を信じてしたがっていく以外にないのです。それは、傍点で示されたことのうちに明瞭にされています。そして契約は、「契約に血」によって批准されています。血を振りかけるとか塗るというのは、保証することであって、契約は決して壊れない約束であるということが示されています。新約聖書は、主イエスの定めた聖餐を、新しい契約の血によるものとして呼んでいます。それが指し示すのは、主の十字架です。動物の血ではない、主イエスの流す血で約束が守られていく一回性が、その絶対に失われない契約関係であることを表しています。

このように聖書の宗教は契約宗教です。その契約は、単なる個人の内面的な約束としてではなく、どこまでも、「民」に告げられています。主の聖餐に与る民は、主と結ばれたものとして、ひとつの民として主に従っていく、それが聖書の宗教の最も基本にあることです。だから、個人として立派な行いをし、修行をして聖人となるというのは、聖書の宗教には無縁です。その聖は、どこまでも神のものとなったということであり、主の民としての契約の共同体の一員としての宗教性、倫理が「主のすべての言葉」との関係で問われ、これに聞き従うという応答の中であらわされるべきものとして語られています。

 

3.神の恵みの使信としての十戒

今回の講座の案内文に、「十戒」は、キリスト教信仰と倫理の土台であるということを書きました。しかし十戒をその信仰の土台としているのは、キリスト教徒だけではありません。ユダヤ教徒こそ、これは自分たちに与えられたものであると主張しています。しかし、彼らも十戒がユダヤ人という限られた民だけのものでない事実を、これが与えられたときの出エジプト記19章5-6節の次の主の言葉から、その事実を認めざるを得ないことを知っています。

今、もしわたしの声に聞き従い
わたしの契約を守るならば
あなたたちはすべての民の間にあって
わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。
あなたたちは、わたしにとって
祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。

世界は主のものです。そして世界の中にあって、イスラエルは、「祭司の王国、聖なる国民」として他者に先立って主に選ばれた民です。だから、十戒をもって、世界に祭司的執り成しをする宣教命令がこの言葉の中に含まれています。キリスト者は、「新しいイスラエル」として、十戒を与えられて者として、祭司的な世界とのかかわりが与えられています。

十戒が最終的には世界とのかかわり、そのあり方を射程に入れていることは確かですが、直接的には、主の選び、救いというものを土台とし、その関係によって救われた民が、主との《契約》関係において、その祝福に生きるため、その祝福に留まるために示された使信、恵みのメッセージであるという側面を覚える必要があります。

聖書には十戒の本文が二つ記されています。出エジプト記20章1-17節と申命記5章1-21節に記されています。申命記5章1-5節は、十戒が与えられたときの事情を説明するモーセの言葉ですので、本文は6節以下ということになります。そこには、十戒が「今ここに生きている我々すべてと結ばれた。」という言葉があります。歴史家は、十戒が今の聖書の形に最終的にまとめられたのは、捕囚記以降ではないかといっています。そうであるなら、この言葉は、捕囚の民にとって、「今ここに生きている我々すべてと結ばれた」という言葉は、深い感慨を持って聞くことのできた言葉であったはずです。このように、十戒の言葉には、現代人のわたしたちの生活環境とはずいぶん異なる言葉が用いられていますが、そうした古い部分を取り除いても、「今ここに生きている我々すべてと結ばれた」言葉としての新しさを常に持っている、そういう言葉として聞くべきものとして語られていると受けとめることができるし、実際そのように聞くことが求められているのであります。そしてそれは、本来、主のなされる救いの恵みの中に留まるために聞く言葉として示されていることを覚えることが大切です。

 

4.十戒の序文と本文

十戒は序文と本文からなって言いますが、序文は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」という言葉で記されています。この言葉は、イスラエルとの関係は、神がイスラエルをエジプトの奴隷の家から救い出したという事実に基づくことがはっきりと述べられています。この序文の言葉は、この救いに留まるために、その恵みを喜びいつまでも感謝して生きることができるように十戒がイスラエルに与えられた神の恵与であることを明瞭に語っています。

第一戒は、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」です。

日本において、キリスト教は、他の神を礼拝することを認めないので、非常に不寛容な宗教だとよくいわれます。しかし、聖書の宗教が他宗教の存在をはじめから認めないのであれば、「ほかの神」という言葉自体用いる必要がありません。また聖書には、イスラエルの起源について、「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた」(ヨシュア記24:2)という自己理解さえ記しています。そして、この十戒が語られたのは、神が約束する土地には多くのほかの神々がすでに存在し、それらの神々が崇められている多神教の世界においてです。その只中において、イスラエルの民の礼拝の対象はイスラエルを選んだ「わたしをおいてほかに神があってはならない」といわれているのであります。この第一戒は、そのような「多神」を事実認識として前提にしています。だからといって、それらの神や宗教も真実だと認めているわけではありません。認めていれば、このように語られることもないでしょう。この戒めは、第一義的に、神と契約関係に入ったイスラエルの民に「あなたは」といっているのであり、それらの神を自分の神として礼拝している人に述べられた言葉ではありません。捕囚時代の末期に活躍した、学者が第二イザヤと呼んでいる無名の預言者は、「わたしこそ主、わたしの前に神は造られず、わたしの後にも存在しない」(イザヤ書43章10節)という言葉を記し、根源的な意味で、そもそも神は主なるヤハウエ以外に存在しないという批判をしていますが、この第一戒においてはそこまで述べられていません。多くの神を礼拝し、いろんな宗教のお寺や神社に拝みに行くことが信仰深いという考えが一般的な日本人の理解としてあります。そしてこれは非常に寛容な信仰の態度のように見えますが、事実はまったく逆であるということをあえて言う必要があります。

第二イザヤが言うように本来神が複数いると考えるのはおかしなことです。神は存在しないという人もいますので、もし神が存在するとするならば、という表現をあえて用いますと、また、神を最高存在であるという仮定に立つと、神がいくつも存在するということは本来ありえないことです。唯一真の神のみが存在し、それ以外はにせものの神です。それは人間が造り出した、人間が考案した願望の投影としての神でしかない(フォイエルバッハ)ということになります。そして、この唯一の神との関係を聖書は男女の結婚関係で説明しています。複数の神を礼拝する行為を、ホセア書においては、結婚した女性が他の男性のもとにも行く「淫行」として厳しく批判しています。ホセアという預言者は、そのように宗教的立場のあいまいな民に、自らの苦難を通して語るために、主なる神から「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ」(ホセア書1章2節)とさえ命じられています。これは預言者にとって耐え難いことであったと思います。妻としたゴメルという女性は、夫ホセアに愛されながら、他の男のところに行っては姦淫を何度も繰り返す女性でありました。しかしそれでも主は、ホセアに「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように」(ホセア3:1)といって、その妻を愛し続けよと命じています。現実のイスラエルは、このように第一戒を知っていながら、他の神々を慕うそのような歩みをしばしば繰り返していた、という点でわたしたち日本人の宗教性と特別に違っていたわけではありません。しかし、神はそのようにいろんな神を礼拝する行為に激しい憤りと悲しみを覚えておられたのです。気楽に多くの神を礼拝することが信仰深いという考えが間違っていることは、この預言者の苦悩を考えるとよくわかるはずです。

神を多く持つということは、信仰がいくつにも分裂しているということでもあります。神がはっきりしない、その関係がわからない、ということは実はその人生が曖昧になるということと実は深い関係があります。人の生きるべき道は、唯一の神の語りかけから聞く、そこに真の人生が立っていく、民としての歩みがしっかりしていくというのがこの十戒の言葉の根本にあることです。礼拝すべき神がたくさんあるということは、それがますます混乱し生き方が乱れ、倫理観もあやふやになります。また感謝や愛を表すべき対象が曖昧になるということでもあります。多くの神に頼らなければならないという信仰の裏側には、どの神も真剣に信じていないし、信頼できないという心が見え隠れしています。

第一戒が述べている根本的な問題は、神の主権の問題です。イスラエルをエジプトから導き出した神、主のほかに並ぶべき神はいないという神の主権です。唯一の神、わたしという人間を救い出した神が、わたしという人間の人生の主となる。そして、どのように愛すべきか人生をどのように生きるべきか教えてくれるその導きに従うところに、わたしたちの人生がしっかり立って行きます。だから神が多くいるということは、それだけ人生が混乱していく原因になるということをこの戒めから知ることができます。

第二戒は、偶像を造ること、またそれを礼拝の対象にしたり、それを用いて神を礼拝することを禁じています。この点、カトリック教会とルター派教会は少しあいまいです。つまりカトリックでは、キリスト像やマリア像を用いて礼拝をしているわけです。この戒めは、他の神の像を造ったり、それらを用いて礼拝することが禁じられていると理解するわけです。しかし、改革派教会は、すべての像が禁じられていると理解します。

古代オリエントでは、国境線のところに王の像が建てられました。それは、そこから内側はその像で表されている王が支配しているので、そこを侵してはならないという目印として用いられました。聖書は人間が神のかたちに似せて造られたことにおいて、この意味を含めて語っています。人間は神の似像を持つゆえに、その神の支配の下にあり、特別な像を持たずとも、いつも神と共なるものとして神の近くにあり神を礼拝することができます。それは人間にとって、神をどこにおいても、神を非常に近い関係で神を礼拝する自由を意味しますが、それ以上に、人間の勝手な考えで神を礼拝することを決めてはいけないという神の自由が意味されています。人間は像を造ることによって、自分の力で神を近づけ、神を自由に操る誤りを犯しています。神はそのように自由にできる方でない、ということがこの戒めにおいて述べられている大切なことです。

第三戒は、神を利己的な目的のために呪術として用いることの禁止を語っています。神の名というのはそれ自身の中に威力を持つと考えられていますので、魔術のように神の名を唱えて祈願する宗教は多く存在します。しかし聖書の神は、その名において自ら語りかける方です。礼拝においてわたしたちはこの神の名を呼ぶ自由は与えられていますが、しかし祈りにおいて、神の主権と神の御心が行われるように祈ることが本質的なこととして求められています。主の民は、神の示された御言葉に沿って、それが実現するように祈り、自らの生活を整えるべきことが教えられているのです。

第四戒は、安息日の聖別と六日間の労働について述べています。その根拠と理由は、出エジプト記と申命記では異なっています。出エジプト記は、神の天地創造の秩序にしたがって、人間もそのリズムに従って生きるべきことが述べられています。しかし、申命記は「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられた」と述べています。出エジプト記から見れば、安息日は必ずしも主を礼拝するための日であるという主張は弱くなります。むしろここで強調されているのは、六日間働いて七日目に休むという主の創造の秩序に従い、七日目に休むことだけが求められているということもできます。しかし、安息日を「聖別せよ」、といわれていますから、この日は自分の目的のためにとるのではなく、主のために明け渡し、捧げるという意味があります。しかもそれは自分だけが守ればよいというのではなく、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、寄留する他国人もすべての人や農作業などに利用している家畜も休ませねばならないと言われています。申命記は、出エジプトの神の救いのみ業を「思い起こす」ために安息日を守るようにと命じられています。「思い起こす」という行為は、礼拝を表しています。安息日を、主を礼拝する日として聖別する、それを主が命じられたことに意義があります。この日は、どんな理由があれ、人間の都合で勝手にすることができない。その日は、主の所有に属する日であるからです。その日を聖別するということにおいて、主の民であるという信仰を告白するのです。キリスト教会は、週の初めの日曜日を「主の日」とし、安息日を変更しました。それは、キリストの復活の日が日曜日であったからです。この日をキリストの救いの記念の日として新約の教会は聖別しこの日に礼拝を守るようになりました。神の救いのときの記念としてこの日を安息日として覚えるようになったのです。いずれにせよ、時は神が支配し、神のものです。これを自分勝手な考えで変えてはならないのです。神による新しい救いの出来事がなければ、教会はこの安息日の日を変更することはできなかったということを覚える必要があります。

そして、この安息日に与れるよう、息子や娘だけでなく、男女の奴隷も、家畜も、寄留の他国人にもしなければならないと命じています。一家の長として、あるいは会社の社長として自分だけが宗教的に立派になればという考えは、この安息日の教えにはありません。すべてのものがこの日完全に休めるようにする社会とする責任も問われています。元来、「種々雑多な人々」一団でしかない民が、契約においてひとつとなれるのは、安息日に共に休み、心をひとつにして、神を礼拝し、神の言葉を聞くことにおいてです。そこには何の差別もありません。むしろ社会的弱者への配慮を欠いた安息日の聖別はすべきでないという精神が貫かれています。この安息日の重視は、六日間の労働の意義も明瞭に語っています。そしてそれに対する積極的な意義付けも、この安息における民への配慮という観点から、現代における労使関係の問題についても大きな視座を与えてくれているように思います。

このように第一戒から第四戒までは、対神関係が中心になっており、新約聖書は、これを、心を尽くし、精神を尽くして、神を愛することであるということで要約していますが、十戒全体は、実はこの視座で貫かれています。そこから隣人関係を神に互いが結ばれたものの関係としてみるべきことを教えているということを理解する必要があります。

第五戒から第十戒までは、対人関係、隣人関係に関する戒めです。新約聖書はこれをあなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ、という言葉の下に要約して理解しています。そこには、そのような愛の思いがなければこれの戒めをまっとうすることができないという根本的な理解がありますが、その隣人は、基本的には同じ主の民としての共同体のことが念頭に置かれていますが、祭司の民の視点からも、第4戒との関係からも、神が守れと命じている弱者の権利を尊重することが、隣人愛の基本としてあることを覚えるべきです。

この対人関係の戒めの頂点に「あなたの父母を敬え」という第五戒があります。すべての神が立てた人間関係の秩序は最初にその関係が成立する父母を敬うというところから始まります。だから、神の立てた秩序に従うことです。神は、この秩序に従って人の命を大切にされ、人間への愛を示されるのです。だから、第五戒から第十戒の部分に関して言えば、オリエント世界にも共通して見られる戒めでありますが、その意味付けが根本的に違います。キリスト教は先祖を大切にしないという批判がなされることがありますが、この第五戒からは、その批判があたっていないということができます。先祖崇拝をしないという点では、大切にしていないように思われるかもしれませんが、この父母を敬うという行為の中に、祖父母への敬慕とその命の尊重も当然に含まれています。

そして、人命の尊重、男女の性関係の秩序や、財産の侵害や、裁判における偽証のなどは社会秩序を根底から破壊するものとして、厳しく禁じられています。これらの戒めを個人の倫理に関するものでしかないとする聖書研究者の見解もありますが、そのもっている射程は国家の問題にまで及びます。

 

5・現代において十戒が問いかける問題

第七戒に関して、国家の行う戦争や死刑制度は除外されるという意見も存在します。確かに、聖書のこれらの言葉の用い方を見る限り、それは概ね妥当します。特に聖書に、聖戦の教えも存在しますので、一般原則から言うとやはりそれはこの戒めから除外されている、ということができるでしょう。しかし、新約聖書、特に、マタイ福音書5章から7章の「山上の説教」には、平和を造りだすことの大切さ、敵を愛することの大切さが、強く、深く教えられています。そして、イスラエルは主の民として、いわば国家と教会が一体の特殊な国家形態を持っていたことも考慮に入れる必要があります。

これに比べ近代国家は、宗教の自由を前提にした世俗国家です。その国家の行う戦争に聖戦は存在しません。そこにあるのは常に国家の利益に基づく戦争です。もちろんその利益に対する不法な侵害を防ぐ戦争は、今日でも是認されているということはできます。聖書はその国家の権能を基本的に否定していません。しかし、国家の正義の名で行われる戦争であっても、「殺してはならない」という戒めが最も重要な戒めとして覚えられなければなりません。また、近代の戦争の歴史は、戦争という現実は、第七戒から第十戒まですべて破られたことを明らかにしましたし、今行われている戦争においてもそのことが妥当します。

また、グローバリゼーションの時代を迎え、国境なき世界が実現され、インターネットで瞬時にして世界の情報を得ることができるようになりました。世界中の食べ物やいろんな品物を、安価に手に入れることができるようになりました。しかしその反面、森林破壊や富が特定の国や企業や個人にのみ蓄積され、世界の貧富の差がますます拡大しているという現状があります。それは、十戒の光に照らし、特に第四戒の安息日の聖別が、男女の奴隷や寄留の他国人にまで守られるようにということを教えていることを考えるとき、現実にこの戒めを、キリスト者は祭司の民として、預言者的にその適用をこの世界の中で考えることが求められています。国家や、国際的な様々な機関を通じて、その必要性を訴える使命と責任を与えられているということもできます。特定の企業や、国だけが繁栄する道は、広義の意味で、「盗んではならない」という戒めに反するばかりか、本来、世界が神の所有に属し、神が貧しく弱いイスラエルを愛し、彼らにその事実を忘れず隣人を愛せよと教えたこの十戒の精神に反しているといわなければなりません。それは企業人としてのモラルの問題としても、また神の似像として神から世界を治める権を与えられた人間の責任の問題としても、深く考えていかなければならない問題であるということを指摘して、本講演を終わりたく思います。

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