キリスト教講座

第4回キリスト教講座 主題『旧約聖書を貫く信仰-写本伝達に見る神の言葉への信仰-』

日時 2006年2月12日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.危機を克服する信仰を与える神の言葉と聖書

2000年5月に、寂光院の本堂が放火されて全焼するという大変ショッキングなことが起こりました。その門前で土産物屋をしている人は、これでこの門前町は寂れて行くと言っていました。国宝の寺と仏像がなくなれば観光客は見向きもしなくなるからです。言い換えれば、人々はこのお寺とその宗教を信仰の対象としてはほとんど意識していない、ということでしょう。このお寺の僧職や門徒の人が同じ思いであるとは思いません。それから6年経った今、このお寺とそれに結びつく信仰がどのようになっているのか、わたくしは信仰者として大変興味があります。

 

聖書の信仰の世界においても、実はこれと似ことが度々起こりました。イスラエルはカナンという土地を神の約束によって与えられた土地であると信じている民です。その約束に地カナンに定着して王国を築くのは、紀元前1000年頃です。そしてソロモン王の時代にエルサレムに神殿が建設され、そこで神礼拝がなされるようになりました。それまでは、天幕で作られた移動式の粗末な施設で礼拝を守っていました。ソロモン王は神殿奉献の祈りの中で次のようにその信仰を表明しています。

 

「神は果たして地上にお住まいになるでしょうか。天も、天の天もあなたをお納めすることができません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません。わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、今日僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください。そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください。」(列王記上8:27-30)

 

ソロモンは、神殿は人の手で造ったもので、神をそんな小さなところに住まわせるのはふさわしくないという理解をこの言葉において明らかにしているのであります。それでもこの神殿に価値があるとするなら、神がそこに現在されて、目を注ぎ、その名をとどめて、語りかけ、祈りを聞かれるということがある場合に限ります。神の現在という信仰は、天幕で移動して神を礼拝していた時にもあったわけですから、たとえ神殿がなくなってもイスラエルの信仰に根本的な影響を与えるものではないはずです。しかし、一度神殿ができると、神殿に対する偶像化がイスラエルにおいても見られるようになります。そして、神殿は度々破壊され失われました。神殿だけでなく、イスラエルは何度も外国の攻撃を受け、存亡の危機に遭遇しました。

 

紀元前597年に、バビロンのネブカドネザルがエルサレムを征服し、ヨヤキン王がバビロンに捕囚として送られます。ここからユダヤ人のディアスポラの歴史が始まります。そして586年に、ネブカドネザルはエルサレムを再度征服し、神殿、王宮、城壁を破壊し、ユダ王国の終焉を迎えます。その際、国の主だった人たちが次々に捕囚にされ、イスラエルの信仰に最大の危機が訪れました。日本旧約学会の会長の並木浩一氏は『旧約聖書における文化と人間』という本の中で、「古代の民族は一度国家を失うと、アイデンティティをも失って消滅した。古代世界のこの通則を破ったところに、イスラエル民族の特異性があった」と述べています。つまり、イスラエルはそういう危機を、この後もびたび経験しますが、アイデンティティを失わず、消滅しなかったのです。

 

消滅しなかったどころか、実はそこからイスラエルの真の信仰の歴史が始まった、イスラエルの本当に大切にしなければならないアイデンティティがそこから確立したと言っても過言でないことが起こるのです。捕囚時代以後、イスラエル民族のアイデンティティ確立に大きな役割を果たしたのは、安息日の聖別と割礼という儀式の遵守です。この二つのことを重んじることが、自分たちは神に選ばれた契約の民であるという強い自覚と共同体意識を高めるしるしとして大きな役割を果たすことになります。しかし、信仰というのはそのような外的なしるしを持つだけで本当に持続できるかというと、それだけでは不十分です。内的に支える確かなものがないと、歴史の現実を生きる力になりません。イスラエルは国土を失い、国民が一つになって礼拝をささげる神殿を失って、民の大多数は「離散の民」(ディアスポラ)となりました。その「離散の民」に立ちあがるきっかけを与えたのは、預言者たちの語る神の言葉でありました。イザヤ、アモス、エレミヤなど多くの預言者が「審判預言」を語っていました。つまり彼ら預言者は、時代の民に対して外国の侵略の脅威の中で、神への信頼を説いていました。しかし、預言者はしばしばそれら外国の侵略者を神の僕としてイスラエルの罪を裁き、悔い改めに導くために遣わされている存在であるから、それに抵抗せず、その事実を受け入れよとさえ説きました。しかし、その預言者が語る言葉を神の言葉として聴かなければ、イスラエルは本当に神に裁かれると語っていました。その審判預言の言葉をもう一度思い起こさせ、それを新たに救済預言として語りなおし、悔い改め、神の恵みにやる救いへ信仰を持って応答するように語る、第二イザヤや、エゼキエルなどの預言者が出現します。そして、国の滅亡と捕囚を経験した「離散の民」は、異国の地でシナゴグと呼ばれる会堂で礼拝を守り、そこで聖書の言葉を聞きました。だから「離散の民」の信仰を内から支える力は、シナゴグで語られ聞かれる神の言葉でありました。

 

神殿も国土もなくしても、神は存在するし、存在できます。神はどこにおいても現在されます。特に神の言葉が語られ、聞かれるところに神はおられる、イスラエルは、離散の民になってこの重大な事実に気づかされます。この神の約束の中に、祖国への帰還に望みを抱くようになります。そして捕囚時代以後、今日の聖書学者が「申命記的歴史書」と呼んでいる著作や詩篇の多くの部分がこの時代に書かれます。聖書は長い歴史を経て編集されました。ですから、前6世紀の捕囚時代には、今日わたしたちが旧約聖書と呼んでいる書物の全体から見れば、一割にも満たない程度であった、という研究者の意見もあります。いずれにせよ、今日の旧約聖書の形にほぼ整うようになるまでには、捕囚時代から約300年後の前2世紀まで待たねばなりませんが、聖書の言語の面でも変化が見られるようになります。旧約聖書の一部がアラム語で書かれたり(ダニエル書の一部)、ディアスポラとなったユダヤ人の間で、ヘブライ語が読めない者たちが多数現れるようになり、信仰の継承に新たな問題が起こります。ヘレニズム時代にはギリシャ語が公用語として普及し、旧約聖書はギリシャ語にも翻訳されるようになります。いわゆる七十人訳聖書(セプチュアギンタ)といわれているギリシャ語聖書です。しかし、このギリシャ語聖書は、単にヘブル語聖書からの翻訳ではないないことが最近の研究で明らかになされました。つまり、それぞれの本文にない独自の記事がどちらにも見られる事実が明らかにされています。それは、ギリシャ語の聖書には、今わたしたちがヘブル語のテキストとして伝えられたのとは異なる別のヘブル語本文からの翻訳ではないかというのが、現在の有力な見解です。

 

このように捕囚は、教育の面でも、歴史理解の面でも、聖書の言語や文書保存の面でも重要な転機となりました。イスラエルの信仰のよりどころとなった聖書本文の伝達の歴史については、次にお話します。

 

2.旧約聖書はどのようにして伝えられたか

旧約聖書を書いたイスラエルの民は金持ちではありません。貧しい人々です。その殆どがパピルスで書かれました。パピルスは安価で手に入りやすいという利点がありますが、水にもろく、保存に不利です。保存に便利なのは羊皮紙です。しかし、これは大変高価です。聖書が羊皮紙に書かれて保存されるようになったのは、キリスト教がローマの国教として認められる紀元4-5世紀のころです。そのころからの写本は保存状態もよく、よく残っています。その前のものは一部しか残っていません。よほど乾燥した場所でないと腐食して残りません。パピルスの現存する最古の写本は前6世紀のものです。聖書では前1世紀のものです。ということは、聖書の原筆は失われてないということです。しかし、写本は連綿と伝達されて残っています。それが旧約聖書の大きな特徴です。

 

旧約聖書の古い物語は、語部(かたりべ)によって伝えられたり、民間伝承として存在しました。ではいつ頃聖書は書かれるようになったかというと、イスラエルがエジプトを脱出して二百数十年後のカナンにしっかりと定着し、王国を築くダビデ・ソロモン時代です。紀元前950年頃です。その後旧約聖書は前2世紀頃までの間に、39巻の正典が書かれました。偽典や外典をいれますともっと多くなります。

 

物事を調べ、書くという作業は、ある程度国が安定しないとできません。それが可能となったのが、ダビデ王の時代です。しかし、その聖書の伝達の担い手は受難の歴史を歩みました。

 

簡単にその歴史を記すと次のような出来事がその歴史に存在します。

聖書はこのような苦難の間にできて、伝えられました。そうした苦難の時代にユダヤ教の一つの習慣が生まれます。毎土曜日に巻物(聖書の各書)を開いて読むことです。私たちが手にしている聖書は、一冊に製本されています。これをコーデックス版といい、紀元2世紀に始めて登場します。それまで、聖書は巻物として読まれていました。読み終わるとまた丸められます。それを繰り返すわけですから、摩滅して字が消えて行きます。読めなくなった聖書は、会堂の脇にゲニーザと呼ばれる貯蔵庫にしまわれます。しかし、それまでに次の写本が作られねばならなかったのです。写本はそういう歴史の中から生まれてきました。

 

3.死海文書発見の意義

断片ではなく、ヘブライ語の伝承本文(マソラ)として現存する最古のものは、10世紀のものです。新共同訳の底本として用いられたのは、1008年のレニングラード写本といわれるものです。これは最も純粋なヘブライ語写本であるという評価がありますが、写本伝達がその長い歴史に何人もの人の手でなされたわけでありますから、果たしてどれだけ正確にそれがなされてきたのかという疑問が当然のごとく出されていました。しかもこの写本は、聖書が書かれてから千年乃至二千年経過しています。

 

しかし、この疑問を否定する考古学上の発見が今世紀に入ってなされました。1947年になされた死海写本の発見です。それは、ベドウィンの少年が羊を追って洞窟に入ったことによって偶然になされた実にドラマチックな発見でありました。死海のほとりにあるクムランという洞窟から発掘されましたので、クムラン写本とも言います。この写本を所持していたのは、エッセネ派といわれる人々です。写本は前2世紀から紀元1世紀のもので、その完全な解明までに百年あるいはそれ以上かかるといわれています。これら写本群の特色は、四つあります。

 

第一に、レニングラード写本よりも千年も古く、羊皮紙で書かれていて保存状態も非常に良く、前2-3世紀のイザヤ書を主とした写本であるということです。

第二に、完本としてはイザヤ書のみですが、エステル記を除く旧約聖書全巻が含まれ、他に外典、偽典、クムラン教団の遺品と見られる独自の文書があることです。

第三に、この発見で、ヘブル語旧約聖書の本文伝達が驚くべき正確さでなされていたことが判ったということです。

第四に、この発見によって、ヘブル語文法、書体学、本文批評学に大きな貢献をしたことです。

 

4.旧約聖書本文伝達とその背後にある精神

旧約聖書が書かれた時代が危機的であるとするなら、それが保存される過程の時代にも大きな危機が何度もありました。何度も再建されたエルサレム神殿は、紀元70年に壊滅され、ユダヤ民族も崩壊しました。この時はユダヤ教の最大の危機でありました。それは同時に、旧約聖書の本文伝達にとって最大の危機でありました。しかし、ローマ軍にエルサレムを完全に包囲され、崩壊直前の状況の中で、指導者のヨハナン・ベン・ザッカイは、エルサレムを脱出することに成功します。

 

この時、ゼロータイ(熱心党)は、逃亡しようとする人も阻止して玉砕しました。そんな中でなぜ、彼が脱出することに成功したのか。それは非常に興味深いことです。戦争が起こりますと沢山の戦死者が出ます。死者は町の外に葬られます。死者を町の中に置くと、疫病が発生するからです。しかし、大量の死者が出ると墓に葬りきれなくなるのです。町の人々にとっては、敵の攻撃も恐ろしいが、死者が放置されて疫病が発生することは、さらに恐ろしいことです。ヨハナン・ベン・ザッカイは、自分が戦死することは恐ろしいとは思いませんでしたが、神の言葉が記されている聖書が失われて伝えられなくなることを恐れたのです。そこで人々のこの不安心理を利用して死んだふりをして、トーラーの巻物などを抱えて棺おけに生きたまま自ら入り、弟子に運ばせて脱出し、ローマの軍門に下って、捕虜となり、収容所に入れられるということを実行いたしました。その場所は、ヤムニヤというところでありました。そこは、ユダヤ教が旧約聖書の正典を39巻と決めた場所であるといわれています。その中心人物となったのが、ヨハナン・ベン・ザッカイであったといわれています。ヨハナン・ベン・ザッカイのこの機転と、大胆な行動がなければ、旧約聖書の本分は伝えられなかったかもしれません。

 

そして、キリスト教は、このヤムニヤの会議で決められたという39巻を正典として受け入れたのです。

 

イエスの時代、つまり神殿が崩壊する紀元70年まで、ユダヤ教は、神殿と律法の二本柱で信仰を守ってきたわけです。神殿は神が現在する場所であったからです。しかし、イエスはわたしの体が神殿であるといって、これを否定する者としてユダヤ教徒から告発されました。また律法に対しても、これは自分を証しするものであるといって相対化したため、この点でも告発されました。

 

しかし、神殿消滅は、ユダヤ人が今後何で生きて行くかを問うことになりました。神殿消滅後の紀元70年から90年の時代、何が聖書正典であるか会議で決めて行く時代を迎えました。こうしてユダヤ人は、「書物の民」となります。書物を読み、朗読し、解釈します。その中心にいたのが、ザッカイです。

 

その後ユダヤ人は国の再建に取り組みますが135年に第二次ローマ戦争で、今度は本当にユダヤの国は完全に滅びます。その時殉教した指導者がラビ・アキバという人物です。この人は聖書の本文を標準化したことで有名です。ありがたいことに死海写本は紀元2世紀のヘブライ語のテキストを残しています。それは今日私たちがマソラ本文と呼んでいるテキストと全く一致するわけです。これによって、2世紀に旧約聖書のヘブライ語本文の標準化が行われたことが判るわけです。

 

そして、紀元2世紀から5世紀に、聖書本文を書き写したソーフェリームという写本家が現れます。その名はサーファール(数える)という言葉から来ています。彼らは聖書各書の文字一字一字を勘定します。

 

例えば、創世記は、べレシートという言葉ではじまっていますが、この語が創世記中にいくつあるか数えるわけです。さらに、その書物の真中の単語が何であるかまで書くわけです。それを書いた人は創世記の最後にこういう風に書きます。「強かれ、創世記の節は1534。その中央は27章40節。その区分は12。その段落は43。その章の数は50。開いた区分、閉じた区分は43と48」。ヘブライ語は右から左に書きます。あるところまで行ったら、その後は開けること、そういう約束が決められています。それが「開いた区分」です。それが、創世記に43箇所なければならない。そこで必ず行変えをするわけです。そしてあるところに行くと、一語空けると考えるのです。それを「閉じた区分」と言います。それが創世記に48なければならない、というのです。同じ大きさのパピルスに同じ大きさの字で書かれていれば、その巻物二つを重ね透かして見ますと、空いていないところ、一語空けるのを忘れたところがすぐわかる仕組みになっています。ソーフェリームという写本家は、そういうことをして、いかに本文を正確に伝達するかを考えたわけです。

 

ところが5世紀から9世紀にかけて、ユダヤ人にとって最悪の時代を迎えます。この時代はキリスト教がローマの公認宗教として一番力を持つ時期です。この時代、キリスト教はユダヤ教徒がイエスを殺したといって、ユダヤ人をゲットーに閉じ込めました。しかし、この困窮の時代こそ、後にユダヤ人が学問や芸術や経済の分野で活躍する素地を固める時となるのです。ゲットーの中では、男子は全員シナゴーグの傍にある学校に入れられ、ヘブライ語やユダヤ教の習慣について学ばせられました。12歳まで徹底的に暗記するように教えられ、それが過ぎたら、今度は先生のいうことを徹底的に批判させるのです。そうして独創性をもつことを要求するのです。彼らは国土も土地も持たず、保証されるものは何もないから、のんきに構えられないのです。こうした訓練の中で音楽、医学、科学の分野で活躍する人が輩出してきます。また、利息を取ることは聖書の教えに反するということで、そういう仕事はユダヤ人にさせました。このお陰でユダヤ人は金融経済の分野で力をつけることになります。

 

ユダヤ人の歴史は本当に危機と蹂躙に包まれていました。しかし、彼らはその中で聖書を与えられました。その聖書は、彼らのアイデンティティを育て、文化と批判の精神を教え、これが神の言葉であるという信仰からその正確な伝達技術を修練させました。聖書は神の言葉であるという信仰は、聖書によって自己批判させる精神を育て、人間の言葉、人間の誤りにより、間違ったものを伝えないようにという精神を育てました。その峻別は、それを解釈し教える教師の言葉に学びますが、批判する精神をまた教えます。ユダヤ人の批判精神は、まさにイエスが律法学者やファリサイ派の人々にとった態度そのものであります。

 

聖書は、私たちを神に向わせます。しかし、聖書は、神のものとそうでないものを鋭く峻別させ、批判精神を育て、偶像化を拒否する働きをそれ自体にもっています。写本伝達に関わった人たちは、その精神を学びつつ、その精神をさらに後代の人々に伝えました。

 

5世紀から9世紀に活躍した写本伝達家をマソラ学者と言います。マソラ学派には二つの有名な家が存在します。ベン・アシュル家とベン・ナフタリ家です。マソラ学者の功績は、ヘブル語本文に母音記号をつけて読めるようにしたことです。それまでの写本は、子音記号だけで、母音記号はなかったのです。言い換えれば読みの可能性はいくらでもあったのです。読みが確定するということは良い反面、困ったことも起こります。例えば両家では少しずつ読みが異なります。しかし、ユダヤ人のシナゴーグでは、この両家でつくられた写本が置かれ、それが朗読されます。ユダヤ人はこの異なる写本を決して融合して一つにしようとしません。混合本分というのはどちらかが持つ純粋性を失うという精神から、そうしないのです。

 

新旧同訳のもとになるヘブル語本文は1008年のレニングラードにあるコーデックスB19Aというマソラ本文です。パウル・カレーという人がこれを校訂本の基礎に使う低本とするよう決め、1929年から1937年まで多くの学者が加わって校訂し、「ビブリア・ヘブライカ」(BHK)校定本文を確定しました。しかし、ユダヤ人学者はこれに批判的です。この校訂本は、沢山の欄外注が付けられています。そのため、聖書翻訳に大きな影響を与えることになります。

 

この批判を受けて、一切レニングラード写本をいじらないという方針でテキストとして用いたのが、ドイツ人の学者による「ビブリア・ヘブライカ・シュトットガルテンシア」(BHS)です。しかし、ユダヤ人の学者はこれにも批判的です。彼らは、レニングラード写本より古い、930年のアレッポ写本という最古のマソラ写本にこだわります。彼らはそれをもとに本文確定の作業を1957年から始め20年かけてようやくイザヤ書の本分確定を終えています。その時ユダヤ人の学者は全部終るまであと何年かかりますかとたずねられて、平気な顔をして150年ですと答えます。

 

そこには神の言葉を正確に伝えねばならないという信仰があります。だから、旧約聖書の本文というのは、正確に伝わるのが不思議なような、いばらの歴史を歩んだのにもかかわらず、正確に伝えられてきました。そのことがわかったのは死海写本の発見のお陰です。千年という時間を超えて手書きで伝えられたのにもかかわらず、殆ど間違いらしきものがない状態で伝えられたのは、ソーフェリームやマソラ学者の大変な努力のお陰です。しかし、彼らをそこまで努力させたのは、聖書が神の言葉であるという信仰です。神の言葉は人間の勝手な考えで変えてはならないという信仰です。

 

そこから私たちの聖書に対する態度のあり方が教えられます。聖書にはこう書いてあるが、私はこう読むというのはよくないということです。ユダヤ人が本文伝達において示した姿勢と努力に謙虚に従うことが大切です。それができないようでは、結局は聖書を読んでいないことになります。聖書のテキストに対する忠実さは、神の言葉に聞くことへの熱心、信仰に表れます。

 

旧約聖書の本文というのは、千年以上あるいは二千年の間、過酷な条件の中で、聖書を正しく伝えようと命を賭けた人々によって伝達されてきたものです。旧約・新約の「約」は、《契約》を表しますが、ギリシャ語のディアセーケ、ラテン語のテスタメントゥーム、英語のテスタメントは何れも「遺言」という意味を待ちます。その理解には、遺言のように神から残された言葉であるという信仰と、その伝達の歴史に対する敬意を払って、遺言を読むように読まねばならないという信仰が根底にあります。

 

旧約聖書とその歴史を貫いているのは、神の言葉に対する信仰です。

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