キリスト教講座

第11回キリスト教講座『預言者、その時代と使信(3)ホセア-愛する神-』

日時 2007年2月11日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.繁栄と没落の中で

時代というものは実に不確かで移ろいやすいものです。そのように移ろいやすい時代、世の出来事に、人はどう関わるべきかをまじめに考えて生きている人は、いつも苦悩しながら歩んでいます。それに対して聖書はいろんな答え方をしています。パウロは「世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです。」(Ⅰコリント7:31)と語っています。これは、時代と向き合わなくても良いという意味で語られたことばではありません。世のことは、しょせん過ぎ去る有様(ファッション)でしかないから、その中に重心をおいて生きるべきでない。むしろそれと「かかわりのない人のように」生きるべきだといっているのです。移ろいやすい世を軽く見て、移ろうことのない確かなもの、永遠に失われることのない価値、それと結びついた生き方にこそ目を向けるべきだ、ということを言うためにパウロはこの言葉を述べているのです。

永遠に失われないものは人間の中にあるのではなく、ただ永遠に失われることのない方である神の中にしかない、そのことを聖書は語っています。

ではそれはどのようにして示されるのか、聖書が語るのは特殊な方法です。聖書の語る神は、人間の生きている現実の中でご自身を示し、ご自身が示す永遠に失われることのない命の関係の中で、どのようにその人生を築き、国の歩むべき方向をいかに築くべきかを示す神です。それを、神は、イスラエルという民を選び、彼らの生きている現実の中で語りかけ、彼らに教えるという方法で明らかにされたのです。なぜ神はそのような方法をとられたのか、その理由は、神が一方的に彼らを愛されたと語られるだけです(申命記7章6節以下)。

しかし、このイスラエルに示された神の愛は普遍的な意味を持つものとして示されています。選びという特殊な経路をたどっていますが、すべての民、すべての人が心して聞くべき事として語られています。そこに人間が神と向かい合うべき真の姿が示されていますし、神がどのように私たちのことを愛しておられるかが示されています。

しかし人間は、移ろいやすい現実の中で生きています。その現実の中でいかに神に愛されて自分はあるかということを忘れやすい存在でもあることを、聖書は明らかにしています。今回取り上げるホセアという預言者は、そのように移ろいやすい世のただ中で、移ろいやすい人間の現実にまさに入って行って、その時代の民が何を見失い、人生をどのように間違い、国としての歩むべき方向を見失っているか、その犯している罪とは何であるかを明らかにした人物です。しかし彼は単に罪を糾弾するだけの人間ではありませんでした。彼は彼を遣わした神からその罪の問題を自ら背負わされ、自らの苦悩を通して、その罪の何たるかを深く認識させられることになりました。その現実の中から、イスラエルがいま犯している罪が何であるかを示し、その罪から離れて神に立ち帰るように語ったのが、ホセアという預言者でありました。彼が味わった人生の苦悩の本質は、彼の結婚生活に凝縮されて現わされました。そして、ホセアの苦悩は、実は神がその選びの民イスラエルに抱いている苦悩そのものを表わすものでありました。

では、ホセアの生きた時代とはどのような時代だったのでしょうか。彼が預言者として活動を開始したのは、ヤロブアム二世(前787-747年) の時代で、北王国史上、最も平和で、最も繁栄した時代でありました。彼はアモスよりも少し遅れて現われました。その活動時期は少し重なっていますが、互いに知ることもなく、一緒に活動することもなく、同じ時代の問題を見つめ、同じ問題を違った目で見て、本質において同じことを語りながら、神について二人は違った姿を示し語っています。アモスの活動は短く、彼はヤロブアム二世の繁栄の時代だけを見てその預言を語っています。かつてはイスラエルの市民は、誰でも土地から得られる富の分配に与って、自分と家族の生計を支えていましたが、この時代には、貿易の拡大と王のとった政策によって、他人の元手で自分の財産を増やし、またそのためには陰険な手段や容赦のない術策を弄することも辞さない資産階級が形成されました。その裏では貧しい、彼らに虐げられている人たちもいました。その繁栄の裏にあるイスラエル人の生活の基盤は、崩壊の危険に脅かされていたのを見て、アモスは情け容赦なく社会批判をし、主の正義と公平を行なうように語りました。しかし、ホセアの預言活動はアモスよりも長く、彼はヤロブアム二世の後の混乱と没落していく時代に生き、その中で預言活動をしています。ホセア書1章1節には、ユダの4人の王の名が記されていますが、イスラエルの王の名は、ヤロブアムだけが記されています。それは、ヤロブアム以降、正統な王と呼ばれるに値する人物が現われなかっただけでなく、その治めた期間もきわめて短かったこととも関係があります。

ヤロブアム以降のイスラエルの王は、次表のごとくわずか15年の間に6人の王が交代し、その内4人が暗殺されて退位しています。

第11回キリスト教講座『預言者、その時代と使信(3)ホセア-愛する神-』

 

ヤロブアム2世が死んだ後、アッシリアではティグラト・ピレセル3世が世界帝国を夢見て軍事活動を活発化させていました。北イスラエルでは、アッシリアに隷従して安全を保とうとする王が現われたかと思うと、それにすぐ反対する勢力が起こり、王は暗殺され、エジプトを頼ってアッシリアに対抗する新しい王が立つという状況で、政治は混迷を深め、722年の滅亡に向かって坂を転げるように衰退して行きました。ホセアは、このような時代に預言者として活動しました。ホセアがそこで見た光景は、宗教的には、まことの神を求める信仰ではなく、金銀で造られた偶像の神を拝み、人間の願望を実現する神を期待するものでありました。そして政治的には、神の歴史支配と導きを信じない人間的な目先の知恵と判断で勝手に動こうとする野心家たちの烏合の衆と化した現実です。そのときの状況をホセアは次のように語っています。

彼らは王を立てた。
しかし、それはわたしから出たことではない。
彼らは高官たちを立てた。
しかし、わたしは関知しない。(ホセア書8章4節)

こうした状況の中でホセアの預言者としての活動がいつまで続けられたのか、断定的なことは言えませんが、アッシリアによって国が滅ぼされる少し前の725年頃までであったのではないかと考えられています。

ホセアは神を信頼しないこの国の滅亡を予見していました。前722年、3年間にわたる包囲の後、北イスラエル王国の首都サマリアは陥落し、王国は滅亡し、全土がアッシリアの属州となります。その事態をホセアは、焼き上げるために火の上に置かれた菓子が裏返されずに、黒焦げになっていく有様にたとえて語っています。

エフライムは諸国民の中に交ぜ合わされ
エフライムは裏返さずに焼かれた菓子となった。
他国の人々が彼の力を食い尽くしても
彼はそれに気づかない。
白髪が多くなっても、彼はそれに気づかない。
イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢である。
彼らは神なる主に帰らず
これらすべてのことがあっても
主を尋ね求めようとしない。
エフライムは鳩のようだ。
愚かで、悟りがない。
エジプトに助けを求め
あるいは、アッシリアに頼って行く。
彼らが出て行こうとするとき
わたしはその上に網を張り
網にかかった音を聞くと
空の鳥のように、引き落として捕らえる。(ホセア書7章8-12節)

繁栄の時代を一度経験した人間は傲慢になりやすい。それが大した努力なく、時代の色んな要因で得られたものである場合、余計にそうなりやすいものです。ヤロブアム二世の時代の繁栄は、北のアッシリアも南のエジプトも勢力を弱め攻めてくることができない幸運に恵まれて得た、見せかけの繁栄でしかなかったのです。アッシリアでティグラト・ピレセル3世が世界帝国を夢見て軍事活動を活発化させる動きを示し始めると事態は一変しました。ヤロブアム2世以後の王たちの時代のイスラエルをホセアは、「エフライムは鳩のようだ。愚かで、悟りがない。」といっています。王たちは、アッシリアに媚を売るか、あるいはエジプトに助けを求めて、その事態を回避しようとしました。それはいずれにしても、それらの国の思惑通りに動くことになり、国は滅ぼされなくても膨大な貢納を強いられ、焼け焦げる菓子のように、惨めに滅びを早めるだけでした。

このような現実を前にして、なぜ自分たちの国はそのような道をたどることになったのか深く考えることは、その国がたとえ滅びることになったとしても、その後生きていかねばならないものにとって大切なことです。それはその人自身の人生の問題としても大切なことです。過ぎ行く世に流されないでしっかり時代を見ていくという点では、偽りの繁栄の時代にも、研ぎ澄まされた目を持つことは大切なことです。その場合、国のあり方にせよ、人生のあり方にせよ、それを見る目をどこから得てくるかが重要な問題となります。ホセアは、それを「神を知ること」から始めなければならないことを語ります。それは「真の自己認識は、真の神認識に依存する」と語った宗教改革者のカルヴァンの認識論につながる問題でもあります。

しかし、神を知るという問題を抽象的に考えては、聖書の語る神を理解することができません。ホセアは、神を知ることを神と人間の人格的な交わりの中で考えています。そして、その理想の姿を荒野時代に見ています。ホセアはそこから神を知ることの問題を人々に問い、真の宗教性と真の人間性の回復の道を明らかにしていきます。

 

2.愛する神

ホセアの神は愛する神です。人を見捨てることのできない神です。その姿が最も見事に描かれているのがホセア書11章です。

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。
エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。
わたしが彼らを呼び出したのに
彼らはわたしから去って行き
バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。
エフライムの腕を支えて
歩くことを教えたのは、わたしだ。
しかし、わたしが彼らをいやしたことを
彼らは知らなかった。
わたしは人間の綱(つな)、愛のきずなで彼らを導き
彼らの顎(あご)から軛(くびき)を取り去り
身をかがめて食べさせた。(ホセア書11章1-4節)

ホセアは神とイスラエルの関係を、ここでは父子の関係で語っていますが、ホセア書全体は夫と妻の夫婦愛の関係で語っています。そのいずれの場合も、一方的に愛する父であり、夫の姿が描かれています。ここにはまさに一方的にイスラエルを愛し、わが子とした神の愛が語られています。どのように神はイスラエルを愛したか。13章4-5節には次のように述べられています。

わたしこそあなたの神、主。
エジプトの地からあなたを導き上った。
わたしのほかに、神を認めてはならない。
わたしのほかに、救いうる者はない。
荒れ野で、乾ききった地で
わたしはあなたを顧みた。

エジプトで奴隷として苦しめられていたイスラエルを不憫に思い、愛して、その地から、神は導き、救われたというのです。「荒れ野で、乾ききった地で、わたしはあなたを顧みた」というのです。荒れ野で乾くイスラエルの喉(魂)をいやし、その空腹を満たし、霊の恵みで満たし、慈しんで導き続けられたというのです。

しかし、人間は恩を忘れることが早く、感謝の気持ちを忘れやすいものです。神が約束し導かれたカナンの地に入ると、イスラエルは神への忘恩を繰り返しました。

養われて、彼らは腹を満たし
満ち足りると、高慢になり
ついには、わたしを忘れた。(ホセア書13章6節)

この言葉を、11章3-4節の言葉と重ね合わせて読んでみてください。カナンの地に入ったらどうすればよいかを含めて、その歩み方を、神はイスラエルに教えていました。人間の賢い父親も子供をそのように教え諭します。神はそれ以上に深い愛と導きをこの民に施してきたのです。そこまでして、「わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。」(13章4節)と神は主張されるのです。しかし満腹になり、満ち足りると高慢になり、イスラエルは自分たちを導かれた神を忘れたのです(13章6節)。

恩を忘れるだけなら、まだましです。表わすべき崇敬を履き違えることは、もっと大きな、恥ずべき罪です。

バアルに犠牲をささげ
偶像に香をたいた。(11章2節)

ホセアはこれこそが、彼らを導かれた神、ヤハウエに対する最も大きな罪、忘恩に当たることとして糾弾しています。

イスラエルに約束された地カナンは、人のいない、宗教も文化もないところではありません。そこには高い文化とイスラエルの人があこがれる都市文化も、豊かな農作物もありました。そして、その実りは、その土地であがめられていたバアルによってもたらされるものであると考えられていました。その地に入って、イスラエルは彼らを導かれた神ヤハウエのことをまったく忘れたわけでも、礼拝しなくなったわけでもありませんが、カナンにおいては、彼らの信仰はまったく違ったものに変えられて行きました。バアルとヤハウエの同一視がおこりました。バアル宗教は、広く中東世界に認められるもので、一つの神、一つの信仰の形しかないというものでありません。カナンに見られたバアル宗教は、天から雨を降らせ、土地に実りをもたらす、いわば「五穀豊穣」の神として崇められていました。その恵みは性行為のように、天からの雨は男性のもたらすもの、大地はそれを受け入れる母胎として理解されていました。その恵みを占い約束するものとして、バアル祭儀が行なわれる神殿には、聖娼といわれる売春婦がいました。古代オリエントには母の胎を開くための儀式があり結婚可能な年頃となった少女の処女を祭司ないし祭儀参加者が神の委託を受けて聖所で奪う儀式が行なわれていたといわれます(ヴォルフ)。イスラエルはこうしたバアル祭儀をヤハウエ礼拝の名において取り込み、そうした祭儀行為を公然と行なう背信的な罪を行なっていました。そうしたバアル祭儀は、高い山や、丘の上で、樫、ポプラ、テレビンなどの木陰で、酒宴と共に行なわれていました。ホセアは、それはヤハウエに対する礼拝ではなく、「神のもとを離れて行なう淫行」であると厳しく断罪しています。

ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。
わが民は木に託宣を求め
その枝に指示を受ける。
淫行の霊に惑わされ
神のもとを離れて淫行にふけり
山々の頂でいけにえをささげ
丘の上で香をたく。
樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。
お前たちの娘は淫行にふけり
嫁も姦淫を行う。
娘が淫行にふけっても
嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。
親自身が遊女と共に背き去り
神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。
悟りのない民は滅びる。(ホセア書4章11-14節)

それらの祭儀行為は、本来のヤハウエ宗教にはない、逸脱した偶像崇拝であり、祭儀行為に名を借りた姦淫行為であり、驚くべき背信的で不道徳なものでありました。それはもはや、「主を捨て、聞き従わない」(3章10節)行為でしかなく、礼拝という名に値しないものでした。ホセアはこの民の逸脱した礼拝を嘆く主の言葉を次のように伝えています。

わたしが喜ぶのは
愛であっていけにえではなく
神を知ることであって
焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6章6節)

ホセアは祭儀的な礼拝すべてを否定したのでありません。しかし神を本当に人格的に知り、神への真の信頼と感謝と喜びを知らない生き方を神は喜ばれません。神が喜ぶのは、ご自分が彼らを愛したように同胞の民を愛し、平和に生きることです。それが「神を知ること」です。そのように神を知ることから人間の真実な生き方が現われます。バアル宗教化したヤハウエ礼拝は、「神を知ること」とは程遠いものとして、ホセアの神はその現実に対して深い嘆きと憂慮を表わしています。ホセアの神もアモスの神のように審きを語りますが、ホセアの神は情け容赦なく民を審く神ではありません。

ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。
イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか。
アドマのようにお前を見捨て
ツェボイムのようにすることができようか。
わたしは激しく心を動かされ
憐れみに胸を焼かれる。
わたしは、もはや怒りに燃えることなく
エフライムを再び滅ぼすことはしない。
わたしは神であり、人間ではない。
お前たちのうちにあって聖なる者。
怒りをもって臨みはしない。(ホセア書11章8-9節)

ホセアの神は、愛する神で、罪ある人間を簡単に見捨てることができないのです。ホセアはそれこそが神の本質であり、人間と異なるとこころであることを示します。「わたしは神であり、人間ではない。」「怒りをもって臨みはしない」という神です。

 

3.象徴としてのホセアの結婚と家庭

主なる神がホセアに最初に語った言葉は、「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」(ホセア書1章2節)といものです。

ホセアはこの神の命令に従って、ディブライムの娘ゴメルと結婚し、3人の子供が彼女との間に生まれ、主に命じられた名をホセアがつけたと1章に記されています。最初の子は男子で、「イズレエル」という名がつけられています。それは、「神、種を蒔きたもう」という意味です。その名は、イスラエルの王たちの冬の離宮があった地名でもあります。イエフは忠実なヤハウエ信奉者としてオムリ王朝の根絶に踏み切り、そこで血を流しましたが、「イズレエルにおける流血の罰を下し、イスラエルの家におけるその支配を絶つ。」という主の言葉がここに記されて、主の契約の共同体の中での流血は、ヤハウエ礼拝の純粋さを保つためだからという理由で是認されるべきでない、という主の御旨を明らかにしています。

二番目の子は女子で、「ロ・ルハマ」(憐れまれぬ者)という名がつけられました。それはもはやイスラエルを憐れまないという主の意志を示すものとして名づけられました。「だが、ユダの家には憐れみをかけ、彼らの神なる主として、わたしは彼らを救う。弓、剣、戦い、馬、騎兵によって、救うのではない。」(1章7節)とその災いがユダには及ばないことが述べられています。その際になされる救いに関しても、軍事的な力によらないことがはっきりと語られています。

そして第三子には、「ロ・アンミ」(わが民でない者)という真に不名誉な名が与えられています。主に背き続けるイスラエルは、主の民と呼ばれるに値しないから、「あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ。」という審きの宣告として語られています。

ホセアの結婚と家庭については、昔から、神がそんな命令が与えるはずがないと考えて、色んな解釈が試みられてきました。しかし、現代の聖書学者の間では、これを文字通り読むべきだという方向で意見が一致する傾向にあります。ホセアの結婚と家庭には、神のイスラエルに対してなそうとする啓示的な意味がある、というのです。

しかし、ホセア書全体のメッセージとすべて一致するわけでもありませんので、これらの子の名や、その家庭の存在そのものが啓示的な意図を持って神の命令に従って築かれたと解することもできません。

イスラエルは最初から神に離反した歩みをしていたのでも、宗教的な混淆状態にあったわけでもありません。神とイスラエルの関係は、荒野時代、豊かな愛の絆によって結ばれていました。

荒れ野でぶどうを見いだすように
わたしはイスラエルを見いだした。
いちじくが初めてつけた実のように
お前たちの先祖をわたしは見た。
ところが、彼らはバアル・ペオルに行った。
それを愛するにつれて
ますます恥ずべきものに身をゆだね
忌むべき者となっていった。(ホセア書9章10節)

神とイスラエルの夫婦の愛に包まれたよき時代は長続きせず、カナンの地に入るやすぐに崩れることになりました。それが「恥ずべきものに身をゆだね、忌むべき者」となるイスラエルの罪に原因があります。ホセアが妻に裏切られ、その姦淫に苦しむように、民は神を苦しめたのです。ホセアはその結婚生活の苦悩、妻の背信に苦しみ、神がイスラエルの罪にいかに苦しんでおられるか、その理解を深めざるを得ません。神はこの姦淫の妻イスラエルとその子らへの審きを語りますが、その直後に回復と救いを繰り返し語っています。2章はまさにそのような構造になっています。神はイスラエルの罪を告発し、審きを語りますがそれは決して最後の言葉ではありません。

エフライムは撃たれた。
彼らの根は枯れ、実を結ぶことはない。
たとえ子を産んでも
その胎の実、愛する子をわたしは殺す。
わが神は彼らを退けられる。
神に聞き従わなかったからだ。
彼らは諸国にさまよう者となる。(ホセア9章15-16節)

確かに神はそのように審きを語られ、イスラエルはそのようにアッシリアによって滅ぼされることになりましたが、それがイスラエルに向けられた最後の言葉ではなかったのです。

主はホセアに対し、「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」(3章1節)とイスラエルに向けられた愛が変わらないことを明らかにしておられます。ホセアはそのように自分の妻を愛し、なお苦しまねばならないのですが、この命令にも聞き従い、「銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って」、奴隷にされていたゴメルを買い取っています。

この姦淫の妻との間でホセアの苦悩は深まるばかりです。しかし、彼はその深い苦悩の中から神がイスラエルに抱いている苦悩の深さ、愛の深さを、存在の根源において知ります。自分が妻に裏切られるよりももっと多く裏切られ続けている神が、裏切るその民をなお愛し続けておられる。ロ・アンミと一度言ったのに、アンミ(わが民)として愛し続けておられる神がそこにいます。ホセアが神の愛を心に沁みるように語ることができたのは、ホセアが同じ苦悩を味わったからです。それは模倣としてでなく、神の現実としてホセアが体験させられたからです。彼の苦しみの背後において、その存在の深いところには、その苦しみを共感し、そのような苦しみをしてもなお民を愛しておられる神がいます。このホセアの苦悩は、十字架のイエスの苦悩を指し示す影でもあります。神が肉体を取り苦悩し、その罪を背負うキリストの姿を、ホセアの苦悩の姿に見ることができます。

 

4.神を知ること

ホセアが民に対して持つ不満は「神を知らない」ことにあります。それは神にいけにえを捧げる礼拝の場で示している現実をホセアは見ています。神を知るとは、単に神に向かって礼拝だけを守っていることではありません。それは神を本当に深く愛することです。神に深く愛されている自分を知ることです。そして、神が同じく愛している同胞を愛し大切にしていくことです。ヘブライ語の「知る」を表わす、ヤーダーは、心的、霊的活動とともに性交を意味します。ヤーダーは自分のものとすること、感じること、魂の中に受け入れること、といった意味を含みます。「神を知ること」(ダアス・エローヒーム)という語は神への共感、全人格的愛慕、神を知り愛すること、神と関わり、神を愛慕し、神に献身する行為を意味します。

わたしが喜ぶのは
愛(ヘセド)であっていけにえではなく
神を知ること(慕うこと)であって
焼き尽くす献げ物ではない。(ホセア書6章6節)

知ること(ダアス)は、ヘセド、すなわち愛と呼応します。神とイスラエルの関係を結婚、夫婦の関係で語ったのはホセアが最初です。この考えはエレミヤに受け継がれ、新約聖書のキリストとその花嫁としての教会との関係において受け継がれています。夫婦の愛の絆で結ばれて、イスラエルは神に愛されているのであるなら、そのことを知るイスラエルが偶像崇拝したり、他の神に仕えたり、他の神をヤハウエと取り替えて礼拝することは、まさに夫がありながら他の男のところに行くような姦淫の罪に相当します。ホセアがなぜイスラエルの罪を姦淫として厳しく糾弾し続けるのか、その理由は、神を知らないものとしふるまっているからです。そのようにして神との関係を根底から覆しているからです。

イスラエルは、神に愛を注がれても気づかず、罪を犯し続け滅びてしまいました。滅んでしまったイスラエルにとって、ホセアの言葉はどう意味を持つのでしょうか。国の滅亡や、人生における挫折は、将来に希望を何も残さないのでしょうか。そうではないでしょう。それらのものは、移ろい行くものでしかありません。しかし、神との関係、神を知ることは、永遠に続く問題として聖書は語っています。だからホセアは、神に立ち帰るべきことを語っています。

イスラエルよ、立ち帰れ
あなたの神、主のもとへ。
あなたは咎につまずき、悪の中にいる。(14章2節)

人は神に立ち帰らないから、「咎につまずき」「悪の中に」留まる人生を歩むのです。差し出される神の愛、恵みの言葉に聞き、神に立ち帰らないから倒れるのです。しかし、立ち帰る者は、神の深き愛を知り、その神との交わりの中で生きる人生の本当の深き喜び、価値知り味わうことができます。それは信仰に生きることによって味わうことができます。ホセアの語る神は、妻とした民に裏切り続けられても立ち帰る日を待ち続ける神です。愛し続けるのです。帰るところのない人間はどこまでも生活は崩れ、希望を持たないものとなります。しかし、わたしたちが立ち返ってくることまっておられる神がいるということの中に救いがあります。そして、神を知るということは、恵みの神に委ねていかないとできない人生の根本問題であるということを認識すべきなのです。この神の愛は、

その日には、わたしは彼らのために
野の獣、空の鳥、土を這うものと契約を結ぶ。
弓も剣も戦いもこの地から絶ち
彼らを安らかに憩わせる。
わたしは、あなたととこしえの契りを結ぶ。
わたしは、あなたと契りを結び
正義と公平を与え、慈しみ憐れむ。
わたしはあなたとまことの契りを結ぶ。
あなたは主を知るようになる。(ホセア書2章20-22節)

といって結ばれた契約、結婚の契りの中で結ばれた愛を消さないで愛し続ける形で表わされています。

ホセアはなおも語ります。

ああエフライム
なおも、わたしを偶像と比べるのか。
彼の求めにこたえ
彼を見守るのはわたしではないか。
わたしは命に満ちた糸杉。
あなたは、わたしによって実を結ぶ。(ホセア書14章9節)

たとえ国が滅び、人生の挫折を多く味わうようなことがあっても、その者をなお神は見守り、「あなたは、わたしによって実を結ぶ。」という言葉のもとに、私たちの存在も置かれます。

ホセアは、このように最後まで愛する神を知るよう、わたしたちを招いています。

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