キリスト教講座

第10回キリスト教講座『預言者、その時代と使信(2)アモス-主の正義と公平-』

日時 2006年11月12日(日)午後2時-3時30分
場所 日本キリスト改革派八事教会
講師 鳥井一夫牧師

 

1.アモス-その人物と時代-

自分の言葉が集められて書物となった最初の預言者はアモスです。アモスはユダの王ウジヤ(前784年-746年)並びにイスラエルの王ヤロブアム2世(前787年-746年)の治世の時代に、ユダの荒野に接したテコアの牧者をしていたときに預言者としての召命を受けました(1:1)。「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』」(7:14-15)という主の召しにしたがって、預言者となったことをアモスは語っています。それは、エリヤが現われてのち、およそ1世紀のことです。この時代に再び多くの預言者が出現し、北のイスラエルでは、アモスより少し遅れてホセアが現われ、南のユダ王国にはイザヤとミカが現われます。このアモス書によれば、彼は南王国ユダの出身であるにもかかわらず、北王国で活動した預言者であるということになります。しかし、最近では、彼はガリラヤのテコア出身であるという研究者もいます。桑の実は地中海沿岸の沃地か、ユダの低地に産するもので、エルサレムより20キロ南に当たるテコア地方は高地で不向きであるというのが最大の理由です。アモスの出自に関わる言葉から、彼が桑の栽培と家畜を飼う農夫で、農村で生活する無学で貧しい人物で、その体験に基づく問題意識から預言を語ったと考えられがちですが、1-2章の諸国民に対する審判預言は、彼がそれぞれの民の事情に精通し、それぞれの国の体制を的確に概略できる人物であったことを明らかにし、当時の諸事情に対し驚くほどの知識を利用しえた教養豊かで洞察力に富んだ人物であることを物語っています。

アモスは前760年頃、まず北王国の首都サマリアで活動し、次いでベテルの聖所へと赴き、そこで、秋の大祭に集まる多くの民衆に向かって預言活動をました。それを王と王国に対して危険人物であると感じた祭司アマツヤは、そのことを王に進言し、またアモスにも直接あって、ユダに逃れるよう警告され、王国より追放された(7章10節以下)と考えられています。したがってアモスはほんの短期間の預言活動の後、故郷のユダに戻ったのではないかといわれています。

彼が活動した時代とは一体どういう時代だったのでしょうか。「ヤロブアム二世の統治は、北王国史上、最も平和でおそらく最も幸福な時代に一つであった。しかし、ちょうどこの時代に、イスラエルの社会状況にはっきりした変化が生じた。かつてはイスラエルの市民は、誰でも土地から得られる富の分配に与って、自分と家族の生計を支えたのであるが、この時代には、貿易の拡大と王のとった政策によって、他人の元手で自分の財産を増やし、またそのためには陰険な手段や容赦のない術策を弄することも辞さない資産階級が形成されたのであった。したがって、幸福そうに見える表面的な状況とうらはらに、イスラエル人の生活の基盤は、崩壊の危険に脅かされていた」(R・レントルフ『旧約聖書の人間像』)といわれています。

アモスはその預言の中で次のような痛烈な批判をあびせています。

彼らが正しい者(ツァディーク)を金で
貧しい者(ダッリーム)を靴一足の値で売ったからだ。
彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ
悩む者(敬虔な者)の道(デレク)を曲げている。
父も子も同じ女のもとに通い
わたしの聖なる名を汚している。
祭壇のあるところではどこでも
その傍らに質にとった衣を広げ
科料として取り立てたぶどう酒を
神殿の中で飲んでいる。(アモス書2章6-8節)

彼らは町の門で訴えを公平に扱う者を憎み
真実を語る者を嫌う。
お前たちは弱い者を踏みつけ
彼らから穀物の貢納を取り立てる(アモス書5章10‐11節)

ここには、イスラエルの社会法が崩壊し、主の正義が曲げられている現実に向けてのアモスの厳しい批判が語られています。そして、一部の特権的な身分享受する資産階級の豪奢な生活ぶりに対し、アモスは次のような批判をしています。

お前たちは象牙の寝台に横たわり
長いすに寝そべり
羊の群れから小羊を取り
牛舎から子牛を取って宴を開き
竪琴の音に合わせて歌に興じ
ダビデのように楽器を考え出す。
大杯でぶどう酒を飲み
最高の香油を身に注ぐ。
しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。(アモス書6章4‐6節)

王家や資産階級は「冬の家と夏の家」を持ち、その家は「象牙の家」と呼ばれる高価な大邸宅にすんでいましたが(4章15節)、彼らに搾取された「貧しい者」(ダッリーム)は、一握りの土地とその上に建てた家とを手放し、債務奴隷に身を落としていった小農層の人々でありました。100年以上にわたるアラム人との戦争がその貧富の差を拡大させました。傭兵制採用と土地付与によって、大土地所有はますます増強される一方で、税の強化によって小農層の農奴化は急速に進みました。

この社会正義の欠如と貧富の拡大の原因を、アモスは主との契約を忘れた宗教性にあると見て批判をしています。しかし、アモスの宗教批判は、ホセアのように偶像崇拝に向けて先鋭化されてはいません。むしろその批判は、ベテルやギルガルという中央聖所とその祭儀に向けられ(4:4-5,5:5)、空疎な礼拝と偶像に対して向けられています。仰々しい無意味となった祭儀が止むときはじめて、ミシュパートとツェダカーとを再び民に期待することができる、とアモスは語っています。アモスの宗教批判は次の言葉に顕著に表わされています。

わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
祭りの献げ物の香りも喜ばない。
たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
穀物の献げ物をささげても
わたしは受け入れず
肥えた動物の献げ物も顧みない。
お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
竪琴の音もわたしは聞かない。
正義(ミシュパート)を洪水のように
恵みの業(ツェダカー)を大河のように
尽きることなく流れさせよ。
今、お前たちは王として仰ぐ偶像の御輿や
神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。
それはお前たちが勝手に造ったものだ。(アモス5章21-26節)

 

2.アモスはどのような預言者であるか

アモスは、北王国の中心地、その中央聖所であるベテルに現われ預言しています。その言葉は挑発的で、国家を転覆させるような危険なものであると受け止められました。だからベテルの祭司アマツヤは、ヤロブアム王に対し、次のように進言しました。

「イスラエルの家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられません。アモスはこう言っています。

『ヤロブアムは剣で殺される。
イスラエルは、必ず捕らえられて
その土地から連れ去られる。』」(7章10-11節)

アマツヤは、翻ってアモスに向かっても次のように忠告をしています。「先見者(ホーゼー)よ、行け。ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。だが、ベテルでは二度と預言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから」(同12-13節)と。アマツヤは王の側に立つ祭司としてその権利と利益を共有する立場で、その土台を揺るがすようなことを、王国の中心で白昼堂々と語るアモスの存在を看過できないと考えただけでなく、この危険な人物を追放しなければならないと考えていました。ヤロブアムが殺され、イスラエルは捕囚として連れ去られる、という言葉は、明らかに前722年のアッシリアによってイスラエル王国が滅亡させられる出来事を指していますが、それは、その出来事のおよそ40年前、「あの地震の2年前」(1章1節)であると考えられます。当時、国は政治的にも経済的にも繁栄の絶頂にあり、北からの脅威はぜんぜん感じられなかったし、誰もそのようなことを想像することすらできないときでありました。

アマツヤは、これまでヤハウエが王あるいは王朝を廃位すると語る預言者(ナービー)が存在したことを知っています。しかしそれは、たいていの場合、名誉欲にとりつかれた官僚の謀反の企てへの協力としてなされることが多かったことを知っています。しかし、アモスにはそれらの預言者(ナービー)とは異なると見ていたので、彼のことを先見者(ホーゼー)と呼んで、この危険な人物をあらかじめ除去することが賢明と考えました。しかし恐れを持って注意深く行動しています。

これに対してアモスは「わたしは預言者(ナービー)ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ。主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」と答え、「主はこう言われる」といって、次の主の審判の言葉を告げています。

お前の妻は町の中で遊女となり
息子、娘らは剣に倒れ
土地は測り縄で分けられ
お前は汚れた土地で死ぬ。
イスラエルは、必ず捕らえられて
その土地から連れ去られる。(7章16‐17節)

アモスは、自分が明らかにホーゼーであって、エクスタティックな祭儀預言者を意味するナービーではありません。もしナービーであれば、彼は祭儀と関わる人物であったはずで、おそらくアマツヤは彼を捕らえて、彼をユダの地に逃がすようなことをしなかったと考えられます。しかし、アモスは職位の担い手ではなく、恍惚預言者(ナービー)でもないにもかかわらず、同じように尊敬を受けていました。彼は牧草地からベテルに直行して、そこで自発的に語ったのではなく、訓練を受けてナービーになったのであります。それは主の召命を受け、「内なる」声に耳を傾け、幻視的な事柄に沈潜する訓練へといざなわれ(7-9章の「幻」体験)、預言者としての自覚を深められたと考えられます。アモスはその預言者職の本質を、3章7-9節において次のように述べています。

まことに、主なる神はその定められたことを
僕なる預言者に示さずには
何事もなされない。
獅子がほえる
誰が恐れずにいられよう。
主なる神が語られる
誰が預言せずにいられようか。

これらの言葉において表わされているように、神は「定められたことを」預言者に示し、預言者は「神が語られる」ことを語るよう召された存在であることを明らかにしています。この召命観、使命意識の下で、「主はこう言われる」と、アモスは常に語ります。

多くの聖書の研究者はアモスを審判預言者として語っていますが、彼の幻体験(7-9章)は、その内的体験を語っているかもしれません。特に最初の三つの幻においてそれを見ることができます。アモスは、最初の「いなご」の幻において(7:1-3)、驚きにとらえられて、「赦してください」と叫び、主は思い直されて、「このことは起こらない」語られています。第二の「火」の幻においても、彼の執り成しの叫びと主の赦しがあります(7:4-6)。しかし、第三の「下げ振り」の幻においては、主自ら城壁に現われ、聖所と王宮は消えうせるであろうという主の言葉を、アモスは聞いています。この第三の幻には、アモスの執り成しの叫びも主の赦しの言葉もありません。この第二の幻と第三の幻との間の裂け目を、彼の伝記上の転回点であるとみなすことで学者たちの意見は一致しています。民と共に主の許しを信じていた救済預言者から(「怒ること遅く、慈しみ深い主」出エ34:6)、妥協を許さぬ災いの預言者となったのには、この体験が下になっていると考えられています。

アモスの預言には、未来に対する強調は全くといってよいほど認められません。現在の状況への言及が優位を占め、5章15節の唯一の例外を除いて、悔い改めによる神の譲歩の可能性を述べる言葉がありません。もちろん、アモスはすべてのイスラエル人の絶滅についてどこにも語っていません。アモスは豪奢な寝台に身を横たえているサマリアに住む王と上層階級の人々には厳しい主の審判を告げますが、彼らのもとで苦しんでいる「貧しい者」に滅びがもたらされるのではありません(5:12)。

 

3.アモスの社会批判

アモスは、イスラエルの指導者の罪を滅亡の原因であることをその預言の中で展開しています。イスラエルに対する最初の言及(2章6-16節、前出)は詳細です。

そこには、「正しい者(ツァディーク)を金で、貧しい者(ダッリーム)を靴一足の値で売った」(2:6)と述べて、人間の売買を弾劾しています。このような行為は現代では非人間的行為として当たり前のように糾弾されますが、彼は単にそれが人権を無視するものであるという理由で糾弾しているのではありません。人間の売買は、古代オリエントやイスラエルの法律においても、負債がどうしても払えない場合には、許されました。ヘブル人の場合、奴隷となる期間は最高6年と定められていました(出エ21:2)。しかし、一度奴隷となったものが再び独立した生活を再開することは例外でしかありませんでした。古代イスラエルでは、先祖から受け継いだ土地を所有する独立した男性のみに、法的権利と祭儀への参加が認められ、彼は武装する権利を持ち、その者のみがアム(民)として祭儀共同体の一員と見なされていました。それゆえ、債務奴隷は、「民」イスラエルへの参加と、その神との直接的かかわりから除外されました。アモスは根本的にはこのような当時の法に反対したのではありません。しかし、不当な担保として着物を取ったり、ぶどう酒を質に取ったりするような搾取行為と共に、社会の中に取り返しのつかない傾向が羽化しはじめていました。

法の名の下に民の中の「悩む者(敬虔な者)の道(デレク)を曲げている」現実をアモスは座視することはできません。人間と神との結びつきは、神から与えられた土地を通して覚えられていました。神が祖父たちに送った土地は、人生が成功するための条件でした。その子孫は自己の相続地の上に生を営むべきで、彼が大地に押し付けられる(奴隷にされる)と、彼の人生の希望は消え去り、実際的な死を意味していました。だから大地は、ツァディーク(正しい者)がその相続地から追い出されることによって、損なわれることになります。土地は神がその民に遺贈したものであるから(レビ記25章23節参照)、神はその遺贈された民の歴史において、彼らの権利を擁護するために依然として関わりを持っておられます。だから神は容易に大地を震わせることができるし、そのことを持って神はご自身のツェダカー(公義)を回復するために行動されることを、アモスは明らかにします。

この不正は、本来それを正すべき裁判において顕著に見られました。「お前たちは正しい者に敵対し、賄賂を取り、町の門で貧しい者の訴えを退けている」(5:12)といってアモスはその不正を告発しています。

イスラエルの法律によれば、城壁で囲まれた町はそれぞれ共同体としての自立を保っていました。町の門では、町に住む祭儀への参加資格と武装する権利を持つ自由人たちが集会を行い、彼らは立法と行政的権限を持ち、相続に関する事項を審議し、重大な犯罪に判決さえ出すことができました。おそらく彼らは、国家が地方共同体に課した税金や労役を個々に割り当てる仕事も行なったと思われます。戦争の場合には部隊を動員しました。彼らは村に属する高きところを管理し、村の成員はそこで行なわれる祭儀に参加しました。このような民主的な法律があるにもかかわらず、門で行なわれる会議で多数の代表を送ることのできる有力な氏族が優位に立ち、影響力を持つようになります。政治の腐敗は古今東西を問わない現実として常に存在することを覚えさせられます。税を分担する際に、多数決を行使することは大きな誘惑であり、その結果、弱小の氏族が耐えられぬほどの重荷を負うことになりました。5章11節以下のアモスの非難の言葉はそのことに向けられて語られています。

人命金とは、イスラエルでは固く禁じられている殺人を犯した場合の贖い金を指します。ここでアモスはこの概念を転用しています。12節で新共同訳聖書が「賄賂(わいろ)」と訳している語は「人命金」のことです。ここでいう殺人とは、人間を債務奴隷として見境なく売り飛ばすことであり、それでもうけた金は、人命金と同じく不純なものとして告発されています。このような搾取によって民衆から得た金は、念入りに貯めこまれ、ぶどう畑に投資されていました。「貧しい者」(ダッリーム)を地面に踏みつける不正は、8章4-8節においても言及され、それに対する反応をアモスは、「このために、大地は揺れ動かないだろうか。そこに住む者は皆、嘆き悲しまないだろうか。」(8:8)という言葉で表わしています。

 

4.アモスの祭儀批判

アモスの祭儀批判は、ベテルとギルガルにおいて集中しています。ベテルはかつてヤコブが「あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える」(創世記28:13)という神の声を聞いたところであり、ヤロブアム一世が「イスラエルをエジプトの地から導き出した神」のために金の子牛を祀ったところです(列王上12:29)。ギルガルは、約束の地における最初の宿営地で、イスラエルの救済史の初めです。ヨシュアはそこで主の言葉を民に伝えました(ヨシュア3:10)。これらの出来事は聖所創立の根拠とされ、祭りの際に繰り返し想起されました。このような救済史との結びつきの故に、ベテルとギルガルはサマリアとダンよりも民にとってより重要な場所でありました。北王国ではこの二箇所以上に古(いにしえ)から聖とされていたヤハウエ礼拝の場所は存在しませんでした。しかしアモスは、これらの聖所を犯罪の温床として糾弾しています(5:5)。アモスは、ホセアのように偶像礼拝や至る所に存在する無数の祭壇を攻撃していません。なぜベテルとダンの中央聖所に彼の祭儀批判が集中するのか、彼の社会批判ほど説明は容易ではありません。

アモスは、この聖所批判を、「まことに、主はイスラエルの家にこう言われる。わたしを求めよ、そして生きよ。」(5:4)という言葉に併行させて行なっています。従来、聖書の研究者はこの言葉を、「善を求めよ、悪を求めるな/お前たちが生きることができるために」(5:14)という言葉と結びつけて理解しようとしました。しかし、「求めよ」という第一の言葉は、第二の言葉からのみ理解しうる言葉なのでしょうか。後の申命記史家のようにエルサレム中心主義からそれを批判したとも考えられません。アモスの叱責は、ほとんど専ら祭儀の食事とそれに関する行為に限られています。しかしアモスは、主の行為は決定的にギルガルとベテルに結びついていると考えます。ベテルが国の中心で災いの源になれば、それはこの国の多くの場所の中の任意の場所以上のものであることを示すからです。ヤハウエはその祭壇の傍らに立ち、国に恐るべき災いの大波を来たらせる(9:1以下)。

アモスの祭儀批判において決定的なのは、ヤハウエが族長たちに約束し、救済史を通して実現した土地授与と結びついているとクラウス・コッホという学者は主張しています(「預言者Ⅰ」教分館)。相続地は、ダッリーム(貧しい者)の自由な生活の可能性の条件としてその中心に位置しています。その限りにおいてアモスは土地取得の祝祭を攻撃することに関心を持ちます。したがって、これらの場所から包括的な災いが始まるというのは、彼にとって至極当然のことで、ミシュパートとツェダカーが完全に逆転しているというアモスの結論は、同時代の人々に対する非難を総括しているが、結局のところ彼の祭儀批判と結びついている、とコッホは見ています。

 

5.鍵概念としてのミシュパートとツェダカー-その逆転としてのペシャア

新共同訳聖書は、アモス書におけるミシュパートを「正義」、ツェダカーを「恵みの業」と訳していますが、この二つの語が持つ概念はそう簡単に日本語に訳しきれるものでありません。この用語の持つ概念についてのコッホの説明を以下に紹介します。

ミシュパートもツェダカーも社会批判ではなく祭儀批判と関連して用いられ、いずれも、人間が行動する前にあらかじめ存在している力の領域として現われる。これは人間が生命を維持するために必要な生命力である。誤った使用によって、それらは滅びてしまい、逆に恐ろしい力を発揮する毒物に変じてしまう。これらは液体に似ていて、水の流れのように、救いを民の上に注ぎ(5:24)、神に反する祭儀は終わり、そうでなければ、水は苦い液体に変わる。流れは上からやってくる。ツェダカーを「降らせる」のはヤハウエである(ホセヤ10:12、ヨエル2:23)。イスラエルは正義を持つのではなく、正義の中にいる。

ミシュパートは門において常に新たに立てねばならないとアモスはいう(5:12)。ミシュパートはむしろ制度的秩序、健全ではあるが力動的な共同体の様式、特別な特徴と行動、積極的な存在秩序そのものを意味する。ツェダカーは、ミシュパート=秩序のための、具体的には氏族共同体の自然発生的な行為を意味する。人は自分の行為を通して、贈られたツェダカーを耕さねばならない(6:12)。ミシュパートとツェダカーの効果は行動する人間を覆うだけでなく、それは大地に光を投げかけ、社会と自然との調和を作り出す(詩篇72:1-3、ヨエル2:21-23)。

王国時代の社会秩序は王に依存しているから、ミシュパートとツェダカーとはとりわけ王に結びついている(列王上10:9)。王は神のミシュパートとツェダカーと、民のそれとの媒介者となる。この視点は、なぜアモスの場合、王と宮廷とが重要な役割を演じているかを明らかにしてくれる。

ミシュパートとツェダカーは作用磁場です。

ミシュパートとツェダカーの逆転としてペシャアという概念をアモスは用いています。アモスは民の誤った振る舞いをこの言葉で総括しています。これは罪を表わす言葉ではなく、政治的領域と関わる用語で、正当な支配に対する反逆を表わす場合に用いられます。ペシャアは抽象的概念ではなく、不正の反抗から生じる否定の磁場であると考えられます。アモスの見解によれば、神に対する反抗はまさに、民が神を見せかけのみで、礼拝しその統治を承認する場合に生起します。ミシュパートとツェダカーの逆転と同じように、この反抗はベテルとギルガルと結びついています。そこから地域共同体の門へと広がります。

ペシャアの背後には、神、土地、民という存在論的三角形が存在しているといわれます。神はその救いの歴史においてイスラエルのために土地を創り出し、神はその後も土地の力とつながり続けられます。イスラエルはこの土地との結びつきから生計と行動の自由を獲得するが、土地を神の救いによるギフトとして尊敬する限りにおいて、それを享受することができます。しかしそのことはまた、神から賜った土地に住む他の同胞を尊敬することを意味します。土地の秩序を破壊し、貧しい者(ダッリーム)から所有権を奪うことは、ヤハウエとその救済秩序に反抗することを意味します。この神の救済秩序を重んじることのみが人生の成功の可能性の条件であり、ペシャアは全能者(ヤハウエ)に対する反抗だけに留まらず、自分の生の根拠そのものを破壊する愚かしい行為と考えられています。

 

6.ヤハウエの日

アモスの未来についての表白は、ヤハウエの日に集中しています。

5章18節において、アモスはそれを災いの日として表現しています。

災いだ、主の日を待ち望む者は。
主の日はお前たちにとって何か。
それは闇であって、光ではない。

アモスは、「主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない」(5:20)と述べます。このアモスの主張は、8章9-12節においても同じトーンで語られています。それは、暗黒であり、あらゆる希望を失わせる、「苦悩に満ちた日」であると語られています。「それは、パンに飢えることでも、水に渇くことでもない、主の言葉を聞くことのできぬ、飢えと渇きである」(8:11)といわれています。ここには慰めになる言葉は一つもありません。しかし、裏を返せば、主の言葉を退けている者に、慰めを語ることが出来ない現実のあることを知ることこそ、もっと重要です。そのことに目覚める者には、この厳しい言葉は福音となります。

アモスは5章6節において「主を求めよ、そして生きよ」と語っています。そして、14-15節において、「善を求めよ、悪を求めるな、お前たちが生きることができるために。」と語り、「町の門で正義を貫け」と語り、そうするなら、「あるいは、万軍の神なる主が、ヨセフの残りの者を、憐れんでくださることもあろう」と告げています。

主の正義(ミシュパート)と公義(ツェダカー)に生きない民の奉げる礼拝は、すべて利己的な偶像崇拝でしかない。その祭りは、主の日には、悲しみに変わります。喜びの歌は嘆きの歌に変わります。神が審きを始められるなら、喜びは嘆きに、楽しい収穫と感謝の祭りは、重苦しい祭儀へと変わります。喜ばしい祭りの歌と歓呼の叫びに変わって、沈痛な挽歌の調べが流れます。

神の審判として訪れる破局の恐ろしさは、人間の最も楽しみとするものを奪う形で表されます。「独り子」が失われることが告げられています(8:10)。独り子が亡くなることは、一族の血統の継続への希望がなくなり、それが葬り去られることを意味していました。神の約束に基づく土地を失い、何の権利も持たない、生きる希望と楽しみのすべてが一瞬にして失われることが、「その日」の特質として語られています。だから、「その日」は、これ以上残酷な日が考えられないほどに「不幸な日」なのです。

しかし、もっと大きな主の審判は、「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと乾きだ」といわれています。それは再び救いを語る言葉を聞けないという意味では決定的な審きです。

アモスが預言したことは、およそ40年後に恐るべき仕方で成就しました。アモスを追放した祭司アマツヤが他の上流階級と共にアッシリアに捕らえ移されたことは疑いない。そうでなければアモスの言葉がこれほど詳細に残されることはなかったはずです。その時故国から引き離された上流階級の人々は二度と帰国を許されませんでした。アモスが語ったことがそのようにして真実となりました。ヤロブアム2世は殺されず、剣にかけられたのは彼の子ゼカルヤでありました。しかし、氏族の大きなわたし(集合人格)というヘブル人の見方は、父の運命の中にこの運命が定められているのを見ますので、イスラエル人はこの出来事の中にも預言の完全な成就を見たことでしょう。後の日の回復を告げる9章の末尾の言葉は二次的といわれます。

そうであるならアモスは、審きのみを語り、悔い改めへの招きも、救いも語らなかった預言者であるということになります。もちろん、彼はイスラエルのすべての人の滅亡を語ったわけでありません。アモスの神は全世界の神として、すべての国の審きを語り、イスラエルの審き、「見よ、主なる神は罪に染まった王国に目を向け/これを地の面から絶たれる。ただし、わたしはヤコブの家を全滅させはしないと/主は言われる。」(9:8)と語りました。これらのアモスの預言の成就は、希望なき、真昼の暗黒の出来事でしかない(8:9)イメージを、終わりの日に与えます。それは、罪ある主のミシュパートとツェダカーに生きない、ペシャアに生きるイスラエルの終末として語られています。しかしこの審きを真摯に聞き、「主の言葉を聞くことのできぬ飢えと飢饉」の日としないよう、貧しい者には希望の言葉として聞くことができます。

このアモス書は、現代の問題に直接あてはめて語ることも、理解することもできません。しかし、土地を神の約束という視点から見るイスラエルの信仰の視座と、また約束の土地に共に生きる共同体の他者の命をも大切にしなければならないという共生の視座とは、現代の貧富の差の拡大と、貧しき者を犠牲にし、その貧困をそのまま放置する政治や一部の特権的利益を享受するその生き方の根底には、真実の神の存在とその審きを見ない根本的な問題のあることを指し示す意味を持っています。そして、主のミシュパートとツェダカーに立たない社会は、結局は他者の生を重んじず、したがって自らの命を本当に意味で重んじない混乱したものとして放置することになるとの警告を、アモスはわたしたちに与えてくれています。

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