エフェソの信徒への手紙講解

16.エフェソの信徒への手紙5章6-20節『光の子として歩む』

この段落も前の段落と同じ主題が扱われています。キリスト者となった者は、世の慣わしに従い、縛られるのでなく、神に倣う者としての生き方が求められています。神に倣うと言う聖書中エフェソ書5章1節だけに用いられている表現は、パウロが他のところでも述べている通り、キリストに倣うことだと言うことを既にお話しました。ここでは、上から与えられる光と、キリストの救いを知る以前にわたしたちを縛っていた「暗闇の業を離れ」、キリストに属する「光の子らしく歩む」ことが命じられています。

そのためにキリスト者が先ず心がければならない問題として、二つのことが具体的に勧告されています。

第一は、「むなしい言葉に惑わされないこと」(6節)です。

第二は、不従順な者の「仲間に引き入れられないようにする」(7節)ことです。

この二つのことは、現実の信仰生活を保つための大切な勧告として聞く必要があります。世に氾濫するむなしい言葉は、教会の中にも入り込み、若者はそれと結びついいた「暗闇の業」の魅力に引き入れようとそそのかします。不従順な者の「仲間に引き入れられないようにする」という戦いは、結局のところ、キリスト者とされた自分の存在を、「主に結ばれた者」という次元で、いつも見つめ、そして、その結びつきの中で、キリストを長子とする神の子(ローマ8:29)、光の子(エフェソ5:8)とされている自己の在り方を問う生き方を志向するということにおいてしかなしえません。

何が善であり、正義であり、真実であるかは、神の光、上からの啓示を受けないと理解できません。この上からの光は、御言葉です。御言葉によって、「何が主に喜ばれるか」をたえず自己吟味する、そこにしか新しき人としての、光の子としての真実な生き方は生れてきません。「何が主に喜ばれるか」ということを考えて生きることが大切です。

「むなしい言葉に惑わされ」たり、不従順な者の「仲間に引き入れられ」たりするのは、主に喜ばれることではなく、自分を喜ばせようという生き方をしている中で生じる問題であるからです。

「実を結ばない暗闇の業に加わらないで」とパウロは言います。むなしい言葉には、人を救う力はありません。反対に、人を破滅へと誘惑する恐るべき力と魅力を持っています。暗闇のこれらの言葉と、業に加わらないだけでなく、もっと積極的に、キリスト者は、「それを明るみに出す」積極的な生きかたの重要性を説いています。

主イエスは、山上の説教において、キリスト者の「地の塩、世の光」としての重要さを明らかにしています。「ともし火」をますの下に置かず、高くかかげ、家全体を照らし、すべてを明るみに出すように、キリスト者はその光をもって照らす使命が与えられています。ヨハネ福音書は、世に来られた真の光キリストについて語っています(1:9)。そして、主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と語り、世の光としてのご自分と、キリスト者の関係を明らかにしておられます。パウロがここで光の子というとき、存在がそのように見なされ、神の取り扱いを受けるというレベルでここでの議論しているのではありません。世を照らすキリスト者の生き方の問題として語っているのであります。

この世の「暗闇の業」、暗闇性を暴露せよとの命令がここには語られています。真実の光を持つ者が現れ、その光の言葉と行為により、暗闇の部分が白日のもとにさらされることになるからです。

パウロはここで一つの大きな慰めを語っています。13節~14節の言葉に注目したく思います。「しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。 明らかにされるものはみな、光となるのです。」この言葉は、光の子とされているキリスト者がその本来の光を輝かす生き方をするなら、暗闇の部分が明らかにされ、そのみすぼらしさ、無力さを暴露できるだけでなく、「明らかにされるものはみな、光となる」という大きな慰めが語られています。明らかにされるということは、その存在が光に移されるということです。

否、それは、暗闇の中で眠っている者を、眠りから目覚めさせる、ことであるということです。

洗礼という儀式に与り、新しき人として生きるということは、そういう目覚めの中で、生きかされるという事です。14節の括弧の詩は、洗礼の時に歌われた詩ではないかと学者は言っております。この賛歌は、洗礼とは、キリストが光となり、暗闇の中で眠っている人を、目覚めさせることであり、照らし出すことであると歌っています。と同時に、この賛歌は、キリストの義に与る福音の宣教の言葉でもあります。この宣教の言葉により、人は自分が罪人であることに気づかされ、目を覆っていたうろこが取り去られ、目覚めさせられる、そういう賛歌であります。

光の中を歩む者は、光を持ち、その歩む道がどうであるかをよく見極める目が与えられます。目覚めるということはそういうことです。闇雲に前へ突き進むのではなく、どう歩むか自分の歩き方を反省し、聖霊によって新しくされた理性によって、生活を整えるのです。今まで気づかなかったことに気を配り、時代を見る目を持ち、時を賢く用いるようになるのです。

キリストの救いを知らず、霊的に満たされることのなかった人は、酒におぼれ、無分別な行動に流され、身を持ち崩すような生活をしていたかもしれません。あの放蕩息子のような、神のもとを離れる悲惨な生き方をしていたかもしれません。

しかし、キリストにある者の信仰を建て上げるのは、御言葉と聖霊です。御言葉に聞き、聖霊に満たされる生活が何よりも重要です。人は何かに満たされていないと満足できません。問題は何によって満たされるかであります。キリストを知らない人は、酒に満たされて寂しさを一時的に忘れることができるかもしれません。人生の辛い問題を、忘れることができるかもしれません。しかし、酔いからさめると、厳しい現実は少しも変わらないどころか、目をそらして生きている間にもっと大きな暗闇の力が襲いかかっているかもしれません。

パウロは、ガラテヤ人への手紙5章22節~23節において、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と述べております。酒ではなく、霊に満たされることによる喜びは、取り消されることのない喜びの生活につながっています。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(エフェソ1:14)。

霊に満たされるなら、それで十分満足できます。しかし、霊に満たされた者に向かって、パウロは、「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(19節)、と勧めています。「詩編と賛歌と霊的な歌によって」歌い合うのではなく、「語り合い」といわれています。歌うことに酔って自己陶酔するのではなく、神を讃美する語り合いができることが大切であると言われているのです。そして、その讃美は「主に向かって心から」なされる「ほめ歌」となるのです。

そのような信仰の歩みの中から、あらゆる境遇の中で、キリストの御名により、神への感謝が生れるのです。いつも、あらゆることに感謝する。そういう祈り、讃美がなされる教会には、いつも霊による喜びに満たされます。上から与えられる光、その光により光の子とされるキリスト者、この関係は、感謝と喜びの生活に置いてしっかりと結び合わされていきます。

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