エフェソの信徒への手紙講解
5.エフェソの信徒への手紙1章11-14節『キリストに希望を置いて』
ここには、キリストにある選びに与るものにされているということが私たちの救いのゆるぎない根拠であることが語られています。そして、この歴史の中で、神の救いの選びにどのようにして与るものとされるか、神の恩恵の手段が何であるかが語られています。それは、第一に、「福音を聞くこと」です。第二に、「信じること」です。第三に、「聖霊の証印を与えられていること」であるということが力強く教えられています。
早速、御言葉からそのことを確かめましょう。
3-14節の御言葉は、神はこの世界を創造される前からキリストにあってわたしたちを救いへと選ぶ計画を定められたこと、そして、神はその計画に従って行動されることを説いています。
11-14節では、この永遠のご計画にある神の救いの恵みに与ったものが地上生活の中でどのようにして与っていくかが告白されています。
先ず11-12節において、以前からキリストに希望を置いていた「わたしたち」について述べられています。しかし、この「わたしたち」が13節では「あなたがたもまた」と呼びかけています。
ここで「わたしたち」とは、「あなたがた」より「以前に」イエスの弟子になったすべてのキリスト者の意味で述べられています。11節の「約束されたものの相続者」と12節の「以前からキリストに希望を置いていたわたしたち」というのは、現在既に与えられているものではなく、未来における天上でのキリスト者の生活に希望を置いている私たちのことです。だから、この場合の「あなたがた」は、この手紙を受け取る読者が単に著者であるパウロから直接呼びかけられているということになります。
13-14節の約束の証印としての「聖霊」を「贖いの日」までの「保証」(手付金)として与えられているという表現は、4章30節との関連を重視して、取られています。
わたしたちに与えられるキリストにある救いは確実で決して失われることのないものですが、現在は、それを完全に手に入れてしまっているわけではありません。「約束」として、「希望」としてもっているに過ぎないからです。それを完全に与えられるのは、キリストの再臨によって実現する終末の時であるからです。
しかし、このすべてを地上において確かにする恩恵の手段が、ここで「あなたがた」と呼びかけられている読者である私たちに与えられています。
それを、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)、とパウロは語っています。パウロは、既に3節において、「天のあらゆる霊的祝福」を「キリストにおいて満たす」という神の意志を明らかにしています。そして、11節でその意志とご計画がキリストにおいて前もって定められたとおり実行されたことを明らかにしています。
13節の「キリストにおいて」というのは、このようにあらわされる神の永遠の計画と意志を離れて理解することはできません。神は「キリストにおいて」ご自分が神であることを啓示されます。キリストを知ること無しに神を知ることはできません。キリストは真に神であられるのに、私たちと同じ肉体をとって人となられたのであります。ですから、神はキリストにおいてその永遠のご計画、選びを明らかにしてくださっているのです。キリストの十字架は「わたしたちの罪のため」のものであります。そうであるなら、キリストの十字架は、私たちが如何に神の前に罪深い存在であり、その罪の贖いによる救いを必要としている存在であるかを明らかにします。キリストは自己を犠牲にして、罪ある者を救おうとする愛の神、恩恵に満ちた神の心を映し出す鏡です。そして、キリストはその贖いを苦難の姿において、神の前に罪を犯し続けている人間の最後の醜い姿を啓示する鏡でもあるのです。
わたしたち人間に向けられた神の言葉は、キリストにおいて明らかにされているのです。天上での計画、即ち神の意志のすべては、キリストを通して啓示されている、これが教会に与えられている信仰です。だから、わたしたちは、キリストにおいて語られる神の言葉を聞かねばならないのです。
冒頭で既に指摘したとおり、キリストを通して与えられる恩恵の手段は、第一に、「福音を聞くこと」です。第二に、「信じること」です。第三に、「聖霊の証印を与えられていること」です。
第一の「福音を聞くこと」ですが、この「福音」は「真理の言葉」といわれています。カルヴァンは、「福音は欺くことのできない確かな真理であるばかりでなく、これ以外には固有の意味でいかなる真理もないというかのように、すぐれて真理のことばと呼ばれているのだ」、と述べています。福音の真理性は、裏切ることのある人間の不確かさとは異なり、裏切ることのない神の確かさ、その真実に由来するものです。信仰は、この福音のことばを聞くことから始まります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」(ローマ1:16)です。福音は単なる「真理の言葉」にとどまるものではなく、福音は「信じる者すべてに救いをもたらす神の力」として働く神の力そのものです。だから、人は、この福音を信じて義とされ、救われるのです。この地上を歩む私たちが神の恵みを実際的に受けるのは、福音を聞くことから始まるということです。これが覚えなければならない第一の大切な点です。
恩恵の第二の手段は「信仰」です。信仰が恩恵の手段であるというのは、信仰が恩恵を左右する決め手として重要だという意味でありません。信仰が神によって恩恵の手段として用いられているという意味で重要であるということです。信仰が人間の決断力や知恵に由来するものであるなら、神の恩恵としての救いは著しく後退し、人間の決断行為に大きく場所を譲らなければならなくなります。
信仰は、それ自体に何か価値があるのではありません。わたしたちは神の前には「土の器」でしかない価値なき人間であります。しかし、神がキリストの御業の故に恩恵によって与える救いを受け取る「管」「器」として、わたしたちの信仰を省みてくださるのであります。パウロがローマ書1章18節以下において述べているように、罪の下にある人間は、不義によって真理の働きを妨げる心の鈍い、神の義に無感覚になっている存在でしかないのです。人間の生まれながらの能力、哲学的な理性的な判断力でキリストにある神の救いを理解することはできません。理性の判断力そのものが罪の結果ゆがんだものになっているからです。パウロは第1コリント1章18節以下で、哲学的知識を愛好するギリシャ人には十字架のことば(福音)は、愚かで躓きであることを述べております。21節で「世は自分の知恵で神を知ることができません」とさえいっています。
人間の知恵で神を知ることができないとすれば、人はどうやって福音の真理を知り信じることができるのでしょうか。エフェソ書では、「信じて、約束された証印を押された」という順序で語られていますが、パウロは第一コリント12章3節では、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えない」と言っています。人がイエス・キリストを救い主と信じ告白できるのは、「真理の御霊」である聖霊の助けと導きがあってはじめてなし得るのであります。これは、ヨハネ福音書においても明らかにされています。
聖霊は「御子の御霊」として、御子の救いの業を理解させ、御子こそ救い主であることを教える為に、人の心に働きかけ、わたしたちの心を照らし信仰を創り出す働きをします。再び神を知る者、信じる者として、新しい人に造り変える働きをするのが聖霊なる神です。キリストの救いの業は、わたしたちの外側において神において実現し、救いの業はそれ自体で完成しています。しかし、その救いは、信仰において「わたしの救い」となるのであります。その信仰が起こるようキリストの方に心をむけ、キリストにわたしたちを結び付ける働きを聖霊がしてくださっているのであります。だから誰一人として、聖霊によらなければ、「イエスは主である」と告白することができないとパウロは言うのであります。
わたしたちを救う救いの業は、神がキリストにおいて実現してくださった恵みであるとするならば、その救いを信じる信仰は、私たちの決断という行為を媒介しているように見えても、決断を促す聖霊の知恵と導きを受けて始めてなしえるのです。だから信仰もまた神の恵みによるのでありあります。
信仰は福音を聞くことによって与えられるものですが、それは、聖霊の助けと導きを受けて与えられるという点で、御言葉を聞くことと聖霊の導きを祈り求めるということは切り離せない関係にあります。御言葉と共に働く聖霊の導きを祈り求めることなく正しい信仰の歩みは不可能です。
聖霊はわたしたちの心に信仰を創り出すだけでありません。
14節では、聖霊は、「御国を受け継ぐための保証」であると言われています。「保証」は、「手付金」を意味する語が用いられています。わたしたちが御国を受け継ぐための「手付金」として神は聖霊を与え、聖霊は自ら保証人となってくださっているのであります。
エゼキエル書11章19節に約束されていた通り、聖霊はわたしたちが御国を受け継ぐ保証、証印として与えられているのです。永遠に変わることのない神が自ら保証人として聖霊の「手付金」を払い、失われることのない救いを保証してくださるのであります。この聖霊の保証の確かさこそ、わたしたちの救いが揺るぎない確かなものであることを明らかにしているのであります。聖霊は、「贖いの日」(4章30節)に至るまでその保証として与えられている神の証文です。
このように、神がわたしたちに与えてくださるこの三つの恩恵の手段、即ち、「福音を聞くこと」「信じること」「聖霊の証印を押されること」は、神がキリストを通して与えてくださるものであります。
エフェソの信徒への手紙講解
- 1.エフェソの信徒への手紙1章1-3節『霊的な祝福で満たし』
- 2.エフェソの信徒への手紙1章4-6節『神はわたしたちを愛して』
- 3.エフェソの信徒への手紙1章7節『神の恵みによって』
- 4.エフェソの信徒への手紙1章8-10節『神の御心の奥義』
- 5.エフェソの信徒への手紙1章11-14節『キリストに希望を置いて』
- 6.エフェソの信徒への手紙1章15-23節『教会の祈りと信仰』
- 7.エフェソの信徒への手紙2章1-10節『死から命へ』
- 8.エフェソの信徒への手紙2章11-18節『平和の福音』
- 9.エフェソの信徒への手紙2章19-22節『神の家族』
- 10.エフェソの信徒への手紙3章14-21節『パウロの祈り』
- 11.エフェソの信徒への手紙4章1-6節『霊による一致』
- 12.エフェソの信徒への手紙4章7-16節『キリストの豊かさになるまで』
- 13.エフェソの信徒への手紙4章17-24節『古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る』
- 14.エフェソの信徒への手紙4章25-32節『聖霊に導かれる生』
- 15.エフェソの信徒への手紙5章1-5節『キリストに倣う者となれ』
- 16.エフェソの信徒への手紙5章6-20節『光の子として歩む』
- 17.エフェソの信徒への手紙6章1節-9節『主に結ばれている者として』
- 18.エフェソの信徒への手紙6章10-20節『その偉大な力によって』