エフェソの信徒への手紙講解
7.エフェソの信徒への手紙2章1-10節『死から命へ』
この御言葉は、二つのことを語っています。第一に、キリストを知らずに生きている人間が何であるかについて語っています。第二に、キリストを知り、その救いに与った人はどのような人間にされているかを語っています。
冒頭の「さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」という言葉は、キリストを知る以前の人間の状態を語っています。これは他の者より先にキリストを知り、キリストにある新しい命を与えられている人を代表して語っている、というパウロの言葉です。パウロはまた、3節で「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。」と述べ、すべての人間が、キリストを知るまでは、「自分の過ちと罪のために死んでいる」、と述べています。
わたしは、特別道徳的な人間であるとみんなの前で自負できる人は多くいません。だからといって自分は罪深い、不道徳な生き方をしている人間であると思って生きている人もほとんどいません。しかし、教会に来ると人間は皆罪人であるという言葉を喜んで聴いているクリスチャンの姿に奇異な感情を抱く人は多くいます。キリスト教は罪ということを言い過ぎるので息苦しいという人もいます。そこには根本的な誤解があると思います。
聖書が私たちに教えようとしていることは道徳的に生きることではありません。最終的には道徳や倫理的な生き方も問題ですが、一番大切な根本にあることは、人間は神によって創造された存在で、しかも「神のかたちに」造られた特別な存在であるということです。「神のかたち」に造られた人間は、本来、神を思い、神を礼拝し、神との交わりの内に生き、神の意志を喜び、神の意思に従って生きる者として創造されていた、ということです。
しかし、現実に神の前に生きている人間は、「以前は、自分の過ちと罪のために死んでいる人間」であったと言われています。
この場合の「以前は」、「キリストと共に生きる」者となる以前の人間のことです。キリストと共に生きる者となる以前の人間は、「自分の過ちと罪のために死んでいる人間」であったといわれています。
2、3節で、それがもっと具体的に述べられています。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいた」者であり、「こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者であった」といわれています。
「不従順な者」とは、神と神の意思に従わない者、従うことを喜ばない者のことです。聖書には、肉体をそれ自体として悪と見る思想はありませんから、ここでいわれている「肉」とは、「不従順な者」となった人間の本性全体のことです。すなわち、聖霊に導かれない、「不従順な者たちの内に今も働く霊に従って」生きる、自己中心な、神に反抗する人間性のことです。聖書はそういう人間性を罪という言葉で呼んでいます。12節では、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている」存在であるといわれています。「神を知らずに生きる」存在とは、「無神の者」ということでありますが、人間は神のかたちを持つ存在ですから、人間が如何なる意味でも神なきものとして生きるということはあり得ません。問題は、天地を無より創造された唯一まことの神の意思を喜んで生きないものとなった「不従順な者」としての人間の生き方とその神観にあります。それは、まことの神を知らない生き方であり、彼らが礼拝する神は、自分の願いを実現してくれる神で、信じている者の心の中にしか存在しない偶像の空しい神でしかありません。まことの神を持たないという意味で「神を知らずに生きる」「無神の者」と言われています。
人生を自分の欲望にしたがい、自分のためにのみ生きようとする生き方は、どんなに高い理想を掲げ、人のため世の中のためになるように見えても、造り主なる神の意志を第一とし、その意志を喜んで生きる生き方でない限り、やはり自分の欲望の実現でしかない。それは善なる行為の装いをしていても、心の内側は「自己の欲望」から生れたものである限り、神の善の基準に達しない、神の意志に反する「不従順な者」たちの生き方でしかないのです。
2節の「この世を支配する者」は、前の口語訳聖書では「この世のならわしに従い」という訳になっていました。また新改訳聖書では「この世の流れに従い」となっています。「支配する者」のギリシャ語はアイオーンです。この語は「時、時代、世代、世」などを意味しますが、新共同訳聖書は、この語を人格的な意味で訳しています。これは私たちにも良く理解できることであります。
服装や髪型は時代によって変化していきます。時代とは何かというと捉えどころがありません。しかし、わたしたちはそれぞれの世代の考え方を持ちますし、ファッションも時代と共に変わっていきます。「時代」というものが一つの人格でも持っているように、人間の生き方や、ものの見方、考え方にも影響を及ぼしている現実を私たちは知っています。
しかし、パウロは、Ⅰコリント7:31で「この世の有り様は過ぎ去る」といっています。アイオーンは「有り様」を形作っていく人格的な力を持ちます。しかし、それはファッションでしかなく、「過ぎ去る」ものでしかないのです。いつまでも存続しません。しかし、人間の心が天地を創造し永遠に変わることのない神によって捉えられていないと、「この世を支配する者」(アイオーン)の力に捉えられてしまいます。しかし、アイオーン自体がわたしたちの心を縛るわけではありません。「かの空中に勢力を持つ者」としてわたしたちを「不従順な者」としようとする「わたしたちの内に今も働く霊」が従わせようとするのです。
ここでは天国や地獄がこの地上の世界と別のところで議論されていません。私たちを滅ぼす力はこの地上にあって、空間・歴史を支配するものとして誘惑を仕掛けてくる現実的力として存在する事実が強調されています。それは「霊」的ですから、目に見える物としては存在しません。その霊の働きは、わたしたちを「不従順な者」とする威力を持ち、わたしたちを「自分の過ちと罪のために死んだ」ものとするほど恐るべき力と影響力を持っています。その支配に委ねて生きている限り、わたしたちは「自分の過ちと罪のために死んで」いる状態にあります。
わたしたちは、霊的には、「自分の過ちと罪のために死んでいる」存在であった、これがキリストを知る以前のわたしたちの姿です。この現実に気づかないで生きていたのが、キリストを知るまでのわたしたちの現実の姿です。何でこんなに人生が空しいのか、まじめに苦しんでいる人は多くいます。しかし、その原因を本当に突き止めて、真実の人生を生きられない人が多いのです。
この世には、まことの神から背を向けさせる「霊」が働いていますから、世に心を向けていては、救いはありません。救いはただ一つの道を通して与えられます。それは、神から差し伸べられる手として与えられます。
4-8節の言葉に注目しましょう。
「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」
死から命へ至る道は、わたしたちが神を愛し神に心を向けるより先に、神が憐れみ豊かな方として、私たちの惨めな現実に目をむけ、愛してくださり、「その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださることによって実現するものであることが明らかにされています。
「キリストと共に生かす」とは、キリストがわたしたちと共なるものとして、わたしたちと同じ肉体、同じ人間性を取り、「自分の過ちと罪の中に死んでいた」わたしたちの罪を背負って十字架に死んで、わたしたちの死を「共に」してくださったことにより実現することです。キリストが、私たちの罪ある生全体を背負って死んでくださったことによって罪は滅ぼされました。それによって罪に向けられていた神の怒りと「敵意」は取り除かれ、わたしたちと神との間に「和解が実現した」と16節において述べられています。
そして、キリストはわたしたちを神の御前に共に生かすために、復活されたのです。だから、わたしたちは「キリスト・イエスによって共に復活させられている」と6節で言われています。既にわたしたちは、「共に天の王座に着くものとされている」とさえ言われています。キリストと共にあるこの地上の生は、キリストがいま既に復活し、天の王座にいますのでありますから、わたしたちもそのような存在に変えられている、と言われているのであります。
これは、キリストを告白し洗礼を受けた者が信仰の目で現実に確認し受け取ることのできる恵みです。この素晴らしい命への転換、救いは、8節において、「恵みにより、信仰による」といわれています。「自らの力によるのではなく、神の賜物です。」
繰り返し「キリストと共に」といわれていることに注目しましょう。今、わたしたちに働いているのはキリストの力です。キリストが共にいてわたしたちに命を与え、生かしてくださっています。キリストを信じるわたしたちには、キリストの御霊の力が働いて新しい人に造り変えられているのであります。新しい命を持つわたしたちは、単に死から命へと移し替えられただけでありません。もっと素晴らしいことを神はしてくださっているのであります。
10節において「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」といわれています。ここは口語訳も新改訳も「わたしたちは神の作品である」と訳しています。その訳の方が良かったと思います。2018年に出版された聖書協会共同訳聖書では、「私たちは神の作品であって」、と口語訳に戻っています。善い業を行って歩む者となるために、キリスト・イエスにおいて新たに作られた神の作品、それがわたしたちです。神の恵みの力はキリストと共に生きる新しい命を与えられているわたしたちに、善い業を行って生きるものとするよう働いているのであります。神はわたしたちの命にこのように素晴らしいことをしてくださっているのです。
エフェソの信徒への手紙講解
- 1.エフェソの信徒への手紙1章1-3節『霊的な祝福で満たし』
- 2.エフェソの信徒への手紙1章4-6節『神はわたしたちを愛して』
- 3.エフェソの信徒への手紙1章7節『神の恵みによって』
- 4.エフェソの信徒への手紙1章8-10節『神の御心の奥義』
- 5.エフェソの信徒への手紙1章11-14節『キリストに希望を置いて』
- 6.エフェソの信徒への手紙1章15-23節『教会の祈りと信仰』
- 7.エフェソの信徒への手紙2章1-10節『死から命へ』
- 8.エフェソの信徒への手紙2章11-18節『平和の福音』
- 9.エフェソの信徒への手紙2章19-22節『神の家族』
- 10.エフェソの信徒への手紙3章14-21節『パウロの祈り』
- 11.エフェソの信徒への手紙4章1-6節『霊による一致』
- 12.エフェソの信徒への手紙4章7-16節『キリストの豊かさになるまで』
- 13.エフェソの信徒への手紙4章17-24節『古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る』
- 14.エフェソの信徒への手紙4章25-32節『聖霊に導かれる生』
- 15.エフェソの信徒への手紙5章1-5節『キリストに倣う者となれ』
- 16.エフェソの信徒への手紙5章6-20節『光の子として歩む』
- 17.エフェソの信徒への手紙6章1節-9節『主に結ばれている者として』
- 18.エフェソの信徒への手紙6章10-20節『その偉大な力によって』