エフェソの信徒への手紙講解

17.エフェソの信徒への手紙6章1節-9節『主に結ばれている者として』

家庭訓の内親子関係に関する教えがここで取り扱われています。これは、5章21-33節の夫と妻に関する教えと同じく、キリストと教会の関係が両者の関係の理解の基本にあります。教会における交わり同様、「キリストに対する恐れをもって、互いに仕え合いなさい」、という命令が、親子関係においても互いのあり方を考えていくことの基本として教えられています。

パウロは、子供が親に従わねばならないのは、ただ自分の親であるから何がなんでも従わねばならないという理由をつけていません。また、親に生活のことで面倒見てもらっているからだということもいっていません。この場合、親がキリスト信徒であり、その契約の子供として生まれたことが語られています。ですから、親子の間を結び付けるのは、親子の肉のつながりよりもキリストにある結びつきです。子供にとって、親の存在は、生きている間続きますが、死ねばその関係は失われます。夫婦の場合がそうであるように、親子の関係も地上的・一時的なものでしかありません。しかし、キリストにある関係は、死後も永遠に存続します。現在、キリストに結び付けられている親子の関係は、「主に結ばれている者として」のものです。ですから、キリスト信徒の親を持つ子供は、自分の親を「主に結ばれている者として」見ていく信仰が求められます。それを信仰の目で理解していく時、親に従うことが、即ち、主に「従う」ことになることになるのだということが判ってきます。

ここではキリストに従うことが日曜日だけの行為・態度の問題ではなく、毎日の生活にかかわる問題として語られています。改革派信仰では、これを「有神的人生観・世界観」と呼ぶのでしょうが、パウロはそんな難しい言葉は用いません。けれども、言っている内容は同じです。これが新約の光における、親子関係の正しい理解です。

しかし、この点については、既に「十戒」において教えられていた点でもあります。その第五戒において、「父と母を敬いなさい」と教えられています。パウロは「約束を伴う最初の掟」として、この戒めを守る祝福の言葉を記しています。

キリストに従うという新約の光における恵みは、「永遠」に存続するものです。地上的に不幸な親子関係が存続しているとしても、それが「主に結ばれている者として」のものである限り、失われることのないキリストの恵みに結びついています。

また、十戒も地上においてもたらされる具体的な祝福が語られています。神の祝福と恵みは、地上においても天上においても、キリストとの結びつきの中で覚えていくべきことをパウロは、わたしたちに教えてくれています。

子供だけに一方的にこの戒めについて語るのでなく、親たちにも語られています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」という5章21節の全体を貫く主題の中から当然考えられるべきことであります。

「子供を怒らせてはなりません」は、コロサイ書3章21節では、「いらだたせてはならない」となっています。その理由も、「いじけるといけないから」となっています。コロサイ書の理由は消極的ですが、ここではもっと積極的な理由・動機づけが語られています。「主がしつけ諭されるように、育てなさい」と。

子供が親に対して、「怒り」「いらだつ」のは、合理的な理由のない怒り方をし、首尾一貫しない態度で躾をする時です。ある程度理解力を持った年齢に達した子供の場合、「主がしつけ諭されるように、育てる」躾が顕著に現れます。
主がわたしたち人間に対して行う訓練には一貫したものがあります。主の態度は不変です。変わらない愛と忍耐をもって、主はわたしたちを信仰(救い)へと導き、その祝福の恵みに与らせようと、ご自身の「御言葉をもって」、「育て」てくださいます。

「主がしつけ諭されるように」とは、主が御言葉をもってなされるように、ということです。もちろん主は言葉だけでなく審きもなさいましたが、その審きもご自身の約束の言葉に従ってなさいましたから、御言葉への聴従ということが常に一番大切なこととして覚えるべきであります。

父親は、この世の知恵に優るものとして時としてそれを用いる必要な場合もありますが、むしろそれよりも、「主に結ばれている者として」、「主がしつけ諭されるように」、主の御言葉によって、子供を「しつけ諭す」ことが大切です。これは、親自身が御言葉に聞く生活ができていないとできません。子供の信仰の成長の責任は、御言葉に対する親の日常の姿勢全体を問うことになります。そこに、わたしたちは、「キリストに対する畏れをもって」という言葉の持つ重さを深く覚えさせられます。

次の5-9節は、「奴隷と主人」の関係について論じられています。パウロは、ここでいわゆる「奴隷問題」について少しも議論していません。むしろ、当時とられていた奴隷制度を前提にした上での、「主人と奴隷」のあり方を論じています。この点でパウロは奴隷性を是認している、「アヘン」としての聖書の弊害を指摘する注解者の意見が存在します。

しかし、聖書の世界が政治や社会制度を無視したり、無関係でありえないにしても、聖書が第一に問題にしているのは、そのような摂理的な支配の中で生きねばならない人間に向けて語られた神の言葉であり、信仰の問題であることを忘れてはなりません。パウロはまさに「奴隷」が制度として存在し、その中でキリストを受け入れた「主人と奴隷」の信仰の問題を論じているのであり、それ以上のことも、それ以下のことを論じているのでもありません。この発言をもってパウロの政治観や社会観や人権感覚を論じるのは、議論の的が外れています。

パウロはむしろ主人に仕える立場にある奴隷たちに、即ち「より小なる者に」目を向け、その信仰のあり方を語ることによって励ましを与えようとしているのです。当時、奴隷は対等な人間とは見なされず、「モノ」として主人の自由に供されていました。全家がキリスト者に改宗すると、奴隷も改宗させられました。英語の「教会」を表す言葉は、エクレシア(神によって召し集められた者の集まり)というギリシャ語からではなく、キュリアケー(主の所有に属する者たち)に由来するものであります。パウロは、まさに自分の使徒職を、主の「僕」(奴隷を表す同じ「ドゥーロス」)といっています。自分の意思による自由な生き方ではなく、主の所有に属する奴隷として、主人の心に喜ばれる生き方をこそ、使徒の在り方であることを明らかにしているのであります。

それは同時に、キュリアケーのすべてのメンバーに求められている問題でもあります。奴隷は、主人に従う以前にキリストに従う存在です。彼は主人と奴隷という関係に在り、キリストに出会ったのです。だから、子が親を自分の自由意志で選べないように、奴隷も自由に主人を選ぶことができません。しかし、彼がその主人を通してキリストを知り、キリスト者となったことは神の深い導きの中でのことです。そのことを信仰の目で見ることを、パウロは求めているのであります。主人に従うことは、人に従うのではなく、主に従うことにつながります(7節)。だから、「キリストに従うように、恐れおののき、真心を込めて、肉による主人に従いなさい」(5節)とパウロは勧めるのです。

時には、キリスト者の主人であっても、使用人の奴隷に愛のない態度で遇するということがあったでしょう。しかし、その主人に仕えた奴隷は、人を分け隔てしない天の主人にその業をなしているのであり(9節)、その業が主に覚えられ、その報いが受けられる、といってパウロは大きな慰めと励ましを与えているのであります。

勿論、「善き業」の報いは、奴隷だけが受けるものではなく、自由人である主人の場合も等しく受けられるものであることがいわれています(8節)。パウロは、主人に対して、「同じように扱え」、「脅すのはやめなさい」と勧告し、その根拠として、「あなたがたも知っているとおり、彼らにもあなたがたにも同じ主人が天におられ、人を分け隔てなさらないのです。」という言葉を与えています。パウロは人をその不変の愛で公平平等に見て扱われる主の前に立たせ、同じ主を両者に仰がせ、主の前における人間のあり方の問題に大きな示唆を与えております。それは、政治的・社会的平等の議論へと発展していません。しかし、信仰における平等、救いと神の報いの平等に目が向けられるとき、人格の等しい扱いをパウロがこの手紙の受取人に期待していたことを十分に伺い知ることができます。パウロは獄中にあって、フィレモンに手紙(「フィレモンへの手紙」)を書き、奴隷オネシモのことを頼んでいます。その際パウロは、オネシモを、「奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」扱ってほしいと書いています。パウロの人間を見る目、キリストの人間を見る目というものがいかなるものであり、いかなるものでなければならないかがこの手紙に現れています。パウロはそのような目で、このエフェソの信徒への手紙を書いていることを覚えることが大切です。

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