エフェソの信徒への手紙講解
3.エフェソの信徒への手紙1章7節『神の恵みによって』
4節において、天地が造られる前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになられた、という素晴らしい神の恵みが語られていますが、7節において、神の愛が何であるか、キリストにある救いの恵みが、「わたしたちは、この御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました」、と具体的に明らかにされています。
ここで「贖い」という言葉と「赦し」という言葉が一緒に用いられています。「贖い」の原語は、アポリュートローシスです。この語には、「身代金」とか「代価」とか「解放」という意味があります。旧約聖書において「贖い」という言葉は、奴隷となったイスラエルをエジプトの地から救い出すという意味で用いられています。また、貧しくて土地を失い奴隷の身分に転落した者を助け出すために、代価を払って「贖い出す」時にも用いられています。
しかし、ここでは「贖い」が御子の血によってなされたことが語られ、「罪の赦し」と一緒に用いて語られています。キリストご自身が罪の贖いのために、その血による代価を支払って犠牲となられたと言われています。
ヨハネ福音書3章16節に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とありますが、神の愛は、御自分の一人子をさえ惜しまず与える愛であり、しかも御自分に背いて罪を犯している者を救うために、御子を十字架において死なせ、その血によって罪を贖い、赦すという破格の愛であることが語られています。ヨハネ福音書15章13節では、これを、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と言われています。わたしたちは、本当に赦されるに値しない者でありましたが、ただ、この神の愛、恵みによって、罪の赦しを受ける者にされています。
贖いの対象とされているわたしたちは、罪あるものです。罪とは、神に反逆する根本的な人間の不信仰、忘恩を意味します。2章1節において、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と記されているように、わたしたちは、自ら神に逆らい、神に対して犯した罪、咎の故に、罪の中に死んでいた存在です。
パウロはローマ書6章23節で「罪が支払う報酬は死です」といっています。神はご自分に背いて生きる人間の生き方を罪とされ、死すべき道を歩んでいるといわれます。わたしたちは、以前はそのような過ちと罪のために死んでいた存在です。神を神として崇めず、自分勝手に生きていた真に神なき罪深い人間で、滅んで当然の存在であることが明らかにされています。
しかし、そんな罪深いわたしたちを、神は、天地創造の前から、愛していてくださっていた、というのです。そして、「御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになった」というのです。罪ある神の前に汚れている者は、神と交わることができません。神は罪に対して怒りと憎しみを持っているからです。だから、神と交わるために、神の御前にわたしたちは、「聖なる者、汚れのない者」とならなければなりません。神はわたしたちをそのような者とするために、罪ある者の中からキリストにあって選び出し、御子キリストの血によって、その罪の中から贖い出し、罪を赦し、わたしたちに向ける怒りを取り除き、和解を実現し、命の交わりの中に加えてくださるという素晴らしい救いが、ここで語られているのであります。
出エジプト記24章8節に、神とイスラエルとの間になされた神の贖いによる新しい契約について、次のような言葉が記されています。
「モーセは血を取り、民に振りかけて言った。『見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。』」
ここには神と人と結ぶ新しい契約は、罪なき者の犠牲の血が必要であるという思想が示されています。これは主イエスによる聖餐を指し示すしるしです。わたしたちが神と生ける命の交わりを持てるのは、御子がわたしたちの罪を贖うために、自らを犠牲にして、その血によってまったき贖いを成し遂げてくださっているからです。キリストの十字架によって、わたしたちは、神の前に完全に贖われ、罪の赦しに与ったのであります。わたしたちは、この贖い主であるキリストと一体とされているゆえに、神の前で聖なる者、汚れない者として受け入れられ、命の交わりを永遠に享受できる幸いな者にされている、と言われているのです。
贖罪を現す英語のatonementは、at-oneという語から出来ているという解釈があります。つまり、贖罪というのは、at-oneの状態をいうわけです。二人の人、または二つのグループが疎遠になった後、和解し一致した状態として言い表されているというのです。また、atonementは、a-toneが元になって出来ているという解釈もあります。つまり、atonementは、調子を一つにする、調和を回復するための手段、行為、賠償を意味するという解釈です。
いずれにせよ、このatonementは、御子キリストによってもたらされる、神の豊かな恵みによる、という事実に変わりありません。わたしたちが悔い改め、和解の努力をして実現したというのでありません。ただ神がわたしたちを愛し、御子にあって選び、御子の十字架の贖罪死によって、神が和解を実現してくださったのであり、神との間で失われていた調和を回復させられた神の自由な恵みの業であった、ということがいわれているのであります。
今、わたしたちが神と交わり、その命に与れるのは、ただ神がわたしたちを愛し、御子イエス・キリストにあって選び、御子の自己犠牲による罪の赦しが既に実現しているからであります。御子による贖いなくして、わたしたちは神と交わることができません。この血による贖いと、罪の赦しの恵みがどれほど素晴らしいものであるか、2章14節以下において次のように明らかにされています。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」、と。
神は、このような素晴らしいご計画を天地が造られる前に立て、御子によって実現してくださっているのであります。「これは、神の豊かな恵みによるものです」(1章7節)。「豊かな」のギリシャ語の原文は「富」です。神はご自身の中にある無尽蔵の富に与らせる恵みに満ちた方であります。その恵みは、キリストにおいて現されるのであります。わたしたちにとって、キリストの言葉を聞き、キリストを信じる信仰をもって近づくものとされ、そのすべての富に与る幸いを赦されていることを知っているということは、大きな慰めであり、喜びであります。わたしたちは、この恵みをただ信仰の目でのみ見ることが赦されているのでありあります。
信仰の目でこの恵みの事実をしっかりと見つめ、神を喜びほめ称えつつ主に結ばれている兄弟姉妹と共に歩むことが大切です。
エフェソの信徒への手紙講解
- 1.エフェソの信徒への手紙1章1-3節『霊的な祝福で満たし』
- 2.エフェソの信徒への手紙1章4-6節『神はわたしたちを愛して』
- 3.エフェソの信徒への手紙1章7節『神の恵みによって』
- 4.エフェソの信徒への手紙1章8-10節『神の御心の奥義』
- 5.エフェソの信徒への手紙1章11-14節『キリストに希望を置いて』
- 6.エフェソの信徒への手紙1章15-23節『教会の祈りと信仰』
- 7.エフェソの信徒への手紙2章1-10節『死から命へ』
- 8.エフェソの信徒への手紙2章11-18節『平和の福音』
- 9.エフェソの信徒への手紙2章19-22節『神の家族』
- 10.エフェソの信徒への手紙3章14-21節『パウロの祈り』
- 11.エフェソの信徒への手紙4章1-6節『霊による一致』
- 12.エフェソの信徒への手紙4章7-16節『キリストの豊かさになるまで』
- 13.エフェソの信徒への手紙4章17-24節『古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る』
- 14.エフェソの信徒への手紙4章25-32節『聖霊に導かれる生』
- 15.エフェソの信徒への手紙5章1-5節『キリストに倣う者となれ』
- 16.エフェソの信徒への手紙5章6-20節『光の子として歩む』
- 17.エフェソの信徒への手紙6章1節-9節『主に結ばれている者として』
- 18.エフェソの信徒への手紙6章10-20節『その偉大な力によって』