エフェソの信徒への手紙講解

18.エフェソの信徒への手紙6章10-20節『その偉大な力によって』

6章10-20節は、キリスト者のこの世での戦いが何であり、何を武器に戦い抜くべきかを、具体的且つ現実的な問題として語っています。

先ずパウロは、「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」という勧めで始めています。「主により頼み」は、原文は単に「主にあって」です。しかし、これは原文の意図を汲み取ったいい訳になっています。この段落のキーワードは、「立つ」(シュテーナイ)という語です。信仰の戦いというのは、座っていて、受け身で待っていて出来るものではなく、立って実際に戦わなければならないことがこの語において表わされています。信仰は、神の恵みを感謝して受け取り信じるという意味では受け身です。しかし、救われた者としての信仰の歩みは、この世では、神の兵士として立って戦いの場へと召し出されている能動的なものであります。

しかし、この場合、自分の力を頼りにして、自分の力で立ち上がり、戦うかというと、そうではありません。信仰は、個人の確信、信念にあるのではなく、その対象である神を信じることです。それゆえ、その戦いにおいても、常に「主により頼む」ことが大切です。キリスト者の戦いは、神の戦い、キリストの兵士としての戦いですから、その本陣におられるお方に対する忠節と信頼なくして、その戦いを闘い抜くことはできないのです。わたしたちの心は、キリストにある聖霊の証印で刻印されています。頼むべきは、わたしの力ではなく、神の力であり、神の武具です。だから、「主にあって」は、「主により頼んで」ということです。

「その偉大な力によって強くなりなさいは」原文に忠実に直訳しますと、「その強い力によって強くされ」です。わたしたちの戦いの武器は、神が所有し、神が与えてくださる「その強い力」です。主により頼むということは、わたしたちの命の主である方が持ち、与えてくださる「その強力な」武器によって、「強くされる」ということです。「強くなりなさい」が、原文では受動形で「強くされなさい」となっていることは、見逃されてならない重要なポイントです。決して自分の力によって私たちは強い兵士になるのではないのです。

「主にある」ということは、主に強くされることを意味し、その主の力によって強くされることが、戦う前の備えとして非常に重要なことだということがここで言われているのです。「強くなれ」ではなく「強くされ」ということが大事なこととして言われているのです。主にあるその強い力によって強くされていないと、わたしたちは戦えないのです。戦うためには、主によって強くされないとだめなのです。だからパウロは、「主にあって、その強い力によって強くされなさい」と命じるのです。

それは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように」するためです。そして、「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12節)。「血肉」というのは、弱い限界を持った滅び行く人間を指しています。その人間を誘惑し悪しき思いに導く、「暗闇の支配者」である「天にいる悪の諸霊」との戦いであるところに、信仰の戦いの困難があることが示されています。現代人は「悪魔」の存在を信じません。しかし、この20世紀に「悪魔」の力に翻弄された人類の歴史をわたしたちは、忘れることができません。今も、様々な形で恐るべき猛威を振るっている「天にいる悪の諸霊」の働きを忘れてはならないのです。霊の働きは人間の目に見えません。だから、その戦いの本質を見抜きにくいのです。様々な悪しき社会現象を、「血肉」の人間の問題に解消していく時、わたしたちの信仰の問題は、政治的、社会的なものとなります。まさに「血肉」の命を求めてのものとなってしまいます。

その責任は確かに血肉でしかない人間の側にあるのですが、「血肉」でしかない人間の心に今も強い影響力を行使しようとする、「暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」を相手にする戦いであることを忘れる時、わたしたちの戦いは的外れとなります。戦いを人間の問題に解消していく時、「信仰」の問題は小さくなります。しかし、その信仰を揺るがそうとする「天の悪の諸霊」は、それを「血肉」の問題と思い起こさせる非常に巧妙な手段を用います。彼らの働きは、人の「心」の中に入ってなされる巧妙なものであるからです。人類の歴史は、この力に対する敗北と共に始まった事実を忘れてはなりません。アダムは、神の言葉を退け、誘惑者の言葉に耳を傾け、罪への道を歩むことになりました。

わたしたちはどうでしょう。わたしたちの教会はどうでしょう。わたしたちも決して例外ではないのです。いつも同じ誘惑にさらされ、その誘惑にしばしば敗れている存在でしかないことを考えるべきす。アダムの堕落の物語を他人事として聞いている限り、わたしたちは、その誘惑に打ち勝つことはできません。

パウロは、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい」と命じています。わたしたちが悪魔の策略に対抗して立つことができる条件は、「神の武具を身につける」ことです。何の防具も身にまとわず、悪魔の策略に対抗できません。しかし、わたしには防具はないといって途方にくれる心配はありません。その「武具」は、神が所有しておられ、その武具を神がわたしたちに与えてくださるからです。

「神の武具」で戦うことが戦いに勝利する秘訣です。この武具が信頼するに足る一つの確信がわたしたちには与えられています。それは1章19-21節の御言葉において明らかにされています。「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」キリストが死者の中から復活し、今天におられるということは、キリストが天にあって、宇宙全体を支配し、ご自身の主権下に置かれているのです。

だから、たとえ「悪の諸霊」の働き、その「支配と権威」が如何に強力強大であっても、「天にいる悪の諸霊」でさえ、天上のキリストの支配、主権に服していることを、わたしたちは知っています。しかし、これは信仰の認識において知っていることでありますから、わたしたちが信仰においていつもこの認識を新たにしていないと、この事実が見えなくなってしまいます。

目をいつも明るくする方法は、一つしかありません。それは、「神の武具」で身を包むことです。そうしないと、「天にいる悪の諸霊」に働く機会を与えることになります。キリストは、「天にいる悪の諸霊」を支配しておられますが、再臨の日まで、なお彼らの働きを見過ごしにされます。だから、今のこの時を「邪悪な日」として捉え、その中で抵抗する者としてのキリスト者の生活があることを自覚すべきなのです。

「悪魔」の原語は、「サタン」ではなく「ディアボロス」です。その意味上の違いはありませんが、ディアボロスの元々の意味は、「中傷する」「悪口を言う」「引き離す」「切り離す」です。中傷し、悪口を言って人と人、あるいは、神と人とを仲たがいさせるのは、悪魔の常套手段です。アダムとエバの場合も「…などと神は言われたのか」といって、神はとんでもないことを言われる方だと思わせ、神と人との間を仲たがいさせることに成功しています。また、悪魔は主イエスを試みて、その心を神から引き離そうとしました。その悪魔の常套手段は、わたしたちを神への信仰から引き離すことに用いられます。

しかし主イエスが悪魔の試みをことごとく失敗させたのは、ご自身が神の言葉に堅く立っておられたからです。

パウロがここで言う「神の武具」は、「神の言葉」です。「真理の帯」も「正義の胸当て」も「平和の福音」も「信仰の楯」も「救いの兜」もみな、御言葉によって与えられるのです。パウロはこれらの表現を旧約聖書から引用しています。パウロが「旧約聖書」から引用していること自体、その武具は、御言葉に聞き、生きる者のみが身につけ得るものであることが示されています。

具体的に言うと、イザヤ書11章5節の「正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」や同59章17節の「主は恵みの御業を鎧としてまとい 救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい 熱情を上着として身に包まれた。」同52章7節の「いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ」、同49章2節の「わたしの口を鋭い剣として御手の陰に置き わたしを尖らせた矢として矢筒の中に隠して」、ホセア書6章5節の「それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し わたしの言葉によって滅ぼす。わたしの行なう裁きは光のように現れる」などの御言葉から取られています。

「神の武具」は、攻撃的ではなく防御的なものです。信仰の戦いは、人を打ち倒し滅ぼすことが目的ではなく、その背後にある「天にいる悪の諸霊」との戦いですから、神による、御言葉による防具に身を固めて戦う「防御」的な戦いとならざるを得ません。しかし、その戦いは泥沼の戦いではなく、地上に平和をもたらす戦いとなります。15節で「平和の福音を告げる準備を履物としなさい」といわれているからです。地上の戦闘に有利な「軍靴」ではなく、その足は、「山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足」となるためであり、「彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ」る使者となるのです。イザヤは救い主の誕生を預言して9章4節で、「地を踏み鳴らした兵士の靴 血にまみれた軍服はことごとく 火に投げ込まれ、焼き尽くされた」、その名は「平和の君」と唱えられると告げています。

わたしたちの信仰の戦いは、平和の福音を告げる履物を履いて、その足で主にある平和を告げ知らせるのです。だから、神の言葉を語ることをやめてしまったのでは戦えないのです。神の言葉と結びついた信仰を楯としてはじめて戦えるのです。敵の放つ火の矢を消し止めるのは「信仰の楯」です。「楯」を表すギリシャ語は「とびら」を意味します。当時の楯は、長方形で木と皮で造られていました。その楯は火の矢を受けとめるとすぐに燃えてしまうものでした。だから燃えにくくするため、戦いの前にこの楯を水に浸し、楯に当たる敵の火矢を消しました。信仰は、敵の火矢を消す楯だというのです。悪魔の放つ矢は、わたしたちが信仰を堅く持っていると消えるのです。

そして、悪魔の息の根を決定的に止める、わたしたちがもっている唯一の攻撃の武器である「剣」は、「霊の剣、すなわち、神の言葉」(17節)です。「御霊の剣」と「神の言葉」が同格で並べられています。神の聖霊が力を持って、悪の諸霊を滅ぼすのは、わたしたちが「神の言葉をとって」戦うことによって可能となります。聖霊の力により頼むことは、狂信的なことではありません。しっかりとして御言葉に聞く学びがなされ、教理の知識が根底にないと、聖霊に対する信頼・信仰は歪んだものになります。しかし、御言葉に堅く立つ者に働く神の聖霊の力と恵みは、揺るぎ無い信仰をわたしたちにもたらします。御言葉に固く立ち、御霊に導かれる信仰生活の中で、絶えず祈ることの大切さをパウロは最後に語ります。

信仰の戦いを最後に勝利に導くのは、祈りです。その祈りをパウロは自分の働きのために求めています。御言葉の宣教のために獄中にあるパウロが、なおそのわざを全うできるとすれば、それは第一に主キリストに支えられることであります。キリストの支えはまた、教会の祈りを通して表されます。使徒でさえ、「わたしのためにも祈ってください」(19,20節)といってその働きを全うしようとしているのであれば、はるかに小さな存在である御言葉に仕える者は、なお一層その働きが全うできるよう信徒の祈りを必要としています。教会が福音宣教のために祈るということは、その働きにつく者のために祈るという具体的な事柄が伴って初めて真実なものとなります。その祈りの中で、教会はふさわしい働き手を得ることになります。信仰の祈りのない教会には、信仰の戦いを導く御言葉の役者を期待することは出来ません。しかし、教会が真実な心を注ぎ出して祈るなら、神はふさわしい御言葉の役者を備えてくださいます。人の力に頼るのでなく、主により頼み、その偉大な力によって強くなる信仰がわたしたちに求められています。

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