エフェソの信徒への手紙講解

14.エフェソの信徒への手紙4章25-32節『聖霊に導かれる生』

4章17-24節は、洗礼後のクリスチャンとして生きることの意味を教えています。ローマの信徒への手紙6章1-14節において、罪の中を生きていたわたしたちがキリストの十字架を信じ洗礼を受けるということは、罪ある古き自己がキリストの十字架と共に死んだということを信じることであり、その様な理解のもとで信仰の新しい歩みをはじめることであることを教えています。キリストの十字架においてわたしたちの古き自己は共に死に葬られました。洗礼はそのことを確認して施されます。しかし、それだけでは洗礼はとても寂しい、希望のない儀式となります。洗礼は希望の中で施されます。キリストの十字架がわたしたちの罪の代理贖罪死であるならば、キリストの復活を語る聖書の言葉は、キリストと共に死んだ者の命がキリストと共に復活したことを告げるまことに喜ばしい言葉であることを示しているからです。キリストと共に死んだわたしたちの古い人は、新しい命となった復活のキリストと共に生きる者にされているからです。わたしたちがキリストに結ばれて、イエスの内にあるという真理とは、その様な素晴らしい教えです。

わたしたちは、このキリストと共なる命に与っているとの自己理解の下に、新しき人として生きる幸いなものにされている存在です。だから、救われたものとしての新しき人としての歩みは、滅びへと向かっていた古き人を脱ぎ捨て、神に、キリストにかたどって新しき人とされた人を身に着ける者とされたことに感謝し、真理の御言葉に基づく新しい生を喜び求めていくものとなります。それゆえ、2章10節の、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」という言葉をたえず思い起こす必要があります。

新しき人としての生活は、4章25節以下において聖霊に導かれる生活であることが示されています。

24節の新共同訳の翻訳は少し問題があります。新しき人としての生活とは、原文に忠実に従うと、「真の義と聖に基づく」歩みです。神のかたちの座であるわたしたちの心が聖霊の新生の力により、キリストの真の知と義と聖によって変革され、かたちづくられています。

だから25節において、新しい人としての歩みは、「偽りを捨て」、「隣人に対して真実を語る」者としての歩みでなければならないと語られています。

23-24節の古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着る、と言われたことが、25節においては、「偽りを捨て」「真実を語る」こととして語られています。これは14-15節の「わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」という言葉にも対応しています。

クリスチャンの交わりは、15節によれば、「愛に根ざして真理を語り」合うことによって、「頭であるキリストに向かって成長していく」交わりです。そして、25節においては、「隣人に対して真実を語る」者であるといわれています。キリストにおいて現された神の愛と真実に生きる、それが、主キリストと結ばれた教会の交わりのあるべき姿です。そういうものとして、パウロは、「わたしたちは、互いにからだの一部なのです」と語っています。

教会が頭なるキリストにまで成長するために、パウロは、「偽りを捨て、それぞれの隣人に対して真実を語りなさい」といっています。その際、キリストを証する信仰の言葉が必要なことを語っています。教会の中でその言葉を語ることが、教会を頭なるキリストに向かって成長させる働きをするようになるという希望がここに語られているのであります。

しかし、話合いが互いの「怒る」感情にもてあそばれてなされるなら、「罪を犯」し、「悪魔にすきを与え」ることになるとの警告もここに語られています。29節には、「悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と語られています。本当にその言葉が必要か、各自が祈り自己吟味して語らねばなりません。その上で、「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を」語ることが大切です。

教会を頭なるキリストへ導くのは、頭なるキリストから与えられる「真理の言葉」です。その「真理の言葉」を理解させ、その言葉を信じさせ、その言葉にとどまって生きるよう私たちを導くのは、聖霊です。

「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている」(30節)といわれています。この言葉の意味は、1章13-14節の御言葉と合わせて理解する必要があります。そこではこのように言われています。

「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」

国境のある道路には関所があり、国に入るには許可証が必要です。その人物が確かな者であると証明する国家の印鑑を押した証書を持っていないと目的の国に入ることができません。天国へ行くわたしたちの信仰の旅を保証するのは、わたしたち自身の人物の確かさでありません。わたしたちの心に神の聖霊により、キリストにかたどって新しく刻み込まれた証印が必要です。この聖霊による証印が、キリストの永遠の贖いの信仰を堅く保たせ、わたしたちの確かさの保証をしてくれますから、「贖いの日」、即ち、主イエスが再臨されて裁かれる「終わりの日」「主の日」に、完全な者とされ、御国を受け継ぐ幸いに与ることが出来るのです。

この聖霊はわたしたちの信仰生活を初めから最後まで導いてくれます。わたしたちの心が痛む時、聖霊もまたその心を痛め、わたしたちの心のうめきを聞き、執り成し導きを与えてくれるのです。しかし聖霊は、私たちが御心に反する罪を犯した、御心に反する行動をとる時、悲しみ苦しみを表される神です。だから、30節においてパウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と語っています。愛情深い親は、子供の非行を深いうめきと苦しみによって、夜も眠れないで日を過ごすことがあります。聖霊もまたその様にうめき苦しんで私たちのことを思ってくださるのです。御霊はその様にうめき苦しみながら、わたしたちのために執り成し祈っていてくださるのです。

わたしたち一人一人は、聖霊の宮とされています。わたしたちの信仰生活、教会生活は、聖霊の宮として、聖霊に導かれる生活です。この御霊の思いが何であるかを知って、御霊に従って歩むことが、御霊に最も喜ばれるふさわしい歩みとなります。

御霊は御言葉によって導きを与える神です。だから、わたしたちが御言葉の真理に堅くたって、御言葉に聞き、キリストの愛に生きることを、聖霊は喜ばれます。偽りを捨て、愛に根ざして真実を語り合う教会、隣人としての交わりを保つ教会となることを、聖霊は祈りながらわたしたちを執り成してくださっています。

わたしの願いや思いが大切なのでありません。神が御言葉において表された御心とその実現のために執り成しをしておられる聖霊の祈りを聞く教会となることが、今一番わたしたちに求められているのであります。