エフェソの信徒への手紙講解

13.エフェソの信徒への手紙4章17-24節『古い人を脱ぎ捨て新しい人を着る』

この御言葉は、キリストを知らず、「自分の罪と過ちのために死んでいた者」が、キリストの福音を聞き、キリストを信じ、洗礼を受けて、キリストと共に死にキリストと共に生きる新しき人として歩み出すキリスト信徒の生き方を教えています。

2章で神を知らず、自分の過ちと罪のために、肉の欲望のままに生活している霊的に死んでいた、「以前」の異邦人としての自分と、神の愛と恵みによって、キリストの救いに与り、キリストに属する者とされ、キリストと共に生きる者とされた「今」の自分が対比されていますが、4章17節以下において、再び「以前」と「今」の対比がなされています。

ここでの「異邦人」と「あなたがた」との対比はあくまでも、キリストを知らず「異邦人」として生きていた以前のあなたがたと、キリスト者となった今のあなたがたです。ここで、異邦人のことを「愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(17-19節)と述べていますが、これはあくまでも神学的に類型化した場合の異邦人一般についての評価であり、異邦人がみんなクリスチャンより知的に劣る人たちであると言っているわけではありません。

17節の「愚かな考え」は、原文を直訳すると「考えの空虚さ」です。17節の「考え」、18節の「知性」と「心」を表すギリシャ語はいずれも「精神、思い、心」という意味を持っています。これらの語を現実に日本語で区別して訳すのは困難です。ある注解者は、「その訳語は、おおよその正確さを持つに過ぎない」とさえ言っています。

これらの語においてパウロが述べようとしていることは、キリストを知らない、キリストのことを知ろうとしない未信者または非信者の心の状態です。キリスト信者になる以前の人間のことを、2章12節では、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」といわれています。

キリストを知らないこの世の人も、実際には多くの知識をもっていますし、クリスチャンよりも頭が良くて非常に優れた能力を持っている人もいます。

しかし、パウロが、異邦人の考えが空虚で、心が暗く頑なになっているというのは、その心が神に向けられて生きていないからです。神が人間の創造者であり、人間は神の被造物であり、神のかたちに似せて造られた存在でしかないことを知らずにいるからです。すべてを自分の力や考え、知識を自由に用いることができると考えている「心」が空虚で、頑なであるといっているのです。人に命を与えそれを豊かにするのは、これを造られた神です。それを覚えて生きていない人の心は、神の命からますます遠く離れ、空虚で貧しいものとなっている、とパウロは述べているのです。

その人間の心の暗さ、歪んだ状態を、パウロは、ローマ書1章18-25節で、「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。」と述べています。

この心の暗さ、無感覚さによって、人間の放縦で、ふしだらな行いや生活が現実に顕れてくる人間の深層心理の問題がここで論じられているというのであります。

ヨハネ福音書9章39節において、生まれつきの盲人を癒された主イエスは、ご自分を信じようとしないファリサイ派の人々に向かって、「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」といわれました。自分たちは神の真理について良く知っていると思っていたファリサイ派の人たちは、その言葉に怒りを表わし、「我々も見えないということか」と言って反論しました。それに対し主イエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」といわれ、彼らの心の目が見えなくなっている原因が、イエスの言葉と業を信じないで、それでも自分たちの目で神の真理を知ることができると思いあがっているところにあると、主イエスは指摘しておられるというのであります。

エフェソ書4章17節以下の議論で問題になっているのは、この世を如何に上手く生きていくかという知識や知恵に関することではありません。神の命に関する知識に関することです。その知識をどのようにして得ることができるか、どのようにして得ているかということに関するものであります。

20-21節において、「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」と述べられています。

教会の福音宣教の業を通して教えられるのは、神がキリストにあってわたしたちを選び、その救いの業に与らせ、その恵みのすべてに与らせてくださるという大きな慰めです。神はそれを永遠のご計画において決め、この歴史の中で実現してくださっているという素晴らしい秘められた真実であります。

それは、1章8-10節において、「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられます。」と述べられています。

キリストはご自身の血をもって、罪の中に死んでいる私たちを贖い買い取り、その復活の命に共に与らせ、「死から命へ」、わたしたちの命を新たな状態に置き換えてくださっているのであります。

4章21節の、「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」は、1章13節の、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」、ということであります。

1章13節で、「キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音」と言われている通り、救いをもたらす知識、真理は、キリストにおいて表わされています。だから、わたしたちの救いと希望は、キリストに結ばれてあるということの中にのみ見出すことができます。

しかし、4章21節において、「キリストの内に」といわれず、あえて「真理がイエスの内にある」といわれています。これは注目すべき言葉です。神がキリストにあってわたしたちを選び、その福音の真理に触れることによって救いの知識がわたしたちにもたらされ、救いの知識へと導かれます。それは、救い主キリストとなられたイエスが、この現実の歴史の中を人となって生き、わたしたちと同じ貧しい姿で、神の義と愛を啓示された具体的な知識の中に求めるべきことを明らかにするためであります。イエスの貧しさ、低さにおいて、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」(3:18)が明らかにされているのです。

それは、キリストの低さにおいて罪に死んでいるわたしたちを救うためのものであり、御子をこのように貧しい様に謙らせてでも救おうとされた神の愛の高さ大きさを知らされ、強く心を打たれることによってのみ、自分の身勝手な罪深い生き方に対して、心からの悔い改めが生じるからです。

主イエスの十字架は、神の怒りと呪いによる死に価する罪あるわたしたちの古き自己の身代わりとしての死である、と聖書は教えています。それゆえ、イエスの十字架によって自分は救われたと信じて、洗礼を受け信者となっているなら、わたしの古き自己は、イエスの十字架と共に死んだはずであり、いま生きているのは、わたしの罪のために十字架に死なれたイエスが復活されてまさしく救い主キリストであることを明らかにされた、その救いの恵みに共に与って生きているということ以外にはあり得ません。もし、わたしたちがイエスを我が主、我が神と告白し信じ、その真理を愛する者となっているなら、「自分の罪と過ちに死んでいた」以前の生き方、滅びに向かっている古い人の生き方を棄てなければならない、と言われているのであります。

この聖書の言葉は、一方で、救いはただ神の自由な選びと召しによって、イエスの十字架の贖いによって与えられる無償の恩恵によることを強調しています。2章8節で、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と述べられているからです。しかし、その直ぐ後の2章10節で、「わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩む」者とされるためのものであったことも、同じようにはっきりと述べられています。

聖書は、人が神のかたちに似せて造られたと告げています。キリストのもたらす救いは、罪によって善い業ができなくなっている神のかたちの歪んだ人間を、新たに神にかたどって造り直し、新しい人として、神の命じる善い業を行なえるようにとなすためのものであります。このことがここで教えられているのは、ガラテヤ書3章27節によると「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ている」という恵みに与ることであることを明らかにするためです。

キリストを信じ、その真理に従って生きていく信仰を与えられるということは、客観的に神がキリストを通して与えていてくださる恵みに、わたしたちが信仰をもって応答し、罪に汚れた古い人を脱ぎ捨てるという意思を表し、行動を起こしていくということに繋がらねばならないということであります。

イエスから真理を学ぶということは、地上を歩まれたイエスが人としての真実をその肉体をもって表されたことを学ぶということであり、私たちはその学んでいる現実の姿を、神にかたどられた新しき人キリストを着るという意志と行動を持って表すということになります。わたしたちは、キリストを着る者として古い自己を脱ぎ捨て、キリストを着る者に相応しい善い業を行なって歩む者となります。キリストはわたしたちをそういう素晴らしい存在へと変えてくださっているのです。わたしたちは、この恵みに生かされている喜びを、その恵みに与るに相応しいものとしての歩みにおいて表すべきなのです。これが神にある明るい本当の知識、心を与えられているキリスト者の生き方であります。