エフェソの信徒への手紙講解

12.エフェソの信徒への手紙4章7-16節『キリストの豊かさになるまで』

この手紙を共にここまで学んできて特に教えられるのは、神の偉大さとその愛と恵みの豊かさです。神はこの世界を気ままに造られたのではなく、本当に心を砕いてよく準備し計画して造られた事が第1章に書かれています。しかも造られた後も心を砕き配慮されています。神の愛と配慮は御子キリストを通して示されることが繰り返し語られています。教会と宇宙の主としてキリストはその恵みの力によって教会を完成させ、わたしたち個人もキリストの豊かさに与らせられることによって完成され、世界もキリストの支配の中で完成されていくことが語られています。時を満たし、世界を満たし、救いを満たされる主キリストが讃美され告白されているこの手紙は、読むほどにわたしたちの心に感動を与えます。

1章10節の「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」という言葉は、心に刻み込んで覚えたい慰めに満ちた言葉です。神の恵みと力は、キリストから与えられ満たされます。そのようにしてわたしたちの命は満たされます。

キリストとわたしたちが結び合わされ一つにされるのは、福音宣教の業を通してです。キリストにおいて表された神の真実、この真理の言葉によって、人は救われ、キリストと結びつけられていきます。神は福音において私たちを招き、ふさわしく整えるお方です。4章1-6節において、その招きに相応しく、教会を一つにする神の恵みの力について学び、神の恵みと力に委ねる信仰の大切さについて学びました。

そして、神は、教会を一つにするために賜物を与えられることが、4章7節以下において明らかにされています。7節において、「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」と述べられています。

キリストはすべての人に同じ賜物を与えるのではなく、各人に異なる賜物を与えられます。そして、キリストが教会を直接支配し治められるのではなく、キリストがこれらの賜物を教会に与え、教会に様々な職務を与えて、間接的にその支配と統治をされるのです。これが聖書の教える教会統治のあり方であります。

教会にはキリストの賜物が様々な職務を通して与えられています。ですから、「教会の一致」を教会の中で実際的に考えていく場合、教会に与えられている職務との関係で見ていかねばなりません。しかし、職務の源泉はこれを与えたもうキリストのもとにありますから、人間的な考えや都合で左右しようとするなら、教会はたちまち混乱していくことになります。

その職務は神からのものだという信仰が教会において特に重要です。この職務の創始者であるキリストは、天から降ってきて救いを達成し、すべてのものを満たすために再び天に昇られた方です。そのキリストが召した者に賜物を与えて、使徒、預言者、牧者、教師とされたのです。ここでは教会を建て上げる御言葉に直接関わる職務だけが言及されていますが、教会にはこのほかにも長老や執事という職務が与えられています。いずれにしても大事なのは、召されてこれらの職務に就く人は、教会員による選挙で選ばれましても、その職務が人を通して人から委ねられてあるというのではなく、キリストを通して委ねられたものであるという事実を、信の目で見ていくことが大切です。そのような信仰を持って事柄に向かっていかないと、その働きは人間的な思いで流されていくことになります。

だからパウロは、使徒言行録6章で七人を選ぶ理由として、「神の言葉をないがしろに」されないためであることを明確にした上で、「あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい」といっています。そして、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」と提案しています。教会の職務は御言葉を中心にしたものであり、御言葉をめぐってのものであることをはっきりと述べています。神の言葉とその力をどのようにして良く発揮できるように整えるか、それに教会全体がどのようによく仕えていくか、これがいつも教会の主要で中心的な関心でなければならないことを明らかにされています。

教会を建て上げる力と恵みはキリストから来るのです。教会の職務はキリストから来るその恵みの力に仕える奉仕的つとめです。教会を建て上げる力と恵みは具体的には御言葉を通して与えられます。この御言葉に教会の全ての職務は関わり、仕えるものとして存在します。御言葉の持つ独自な力が人を罪から救い、信仰へと導くのです。御言葉の知識が一つもないのに信仰は起こりません。この救いの賜物は、職務を与えられた者を通して、すべてのキリスト者に与えられます。7節の「わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」という言葉と、13節の「わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです」という言葉とを一つにして覚える必要があります。

キリストの恵みによる支配は職務を通して与えられるにしても、その恵みは「わたしたち一人一人」に与えられているものであり、「わたしたち皆」が与るものです。そして、これらの職務が健全な姿で御言葉に仕えるものとなる時、「ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」恵みに与ることができる、とパウロは述べているのであります。

教会の目標も、人間の目標もキリストの高さにまで成長するその完成、成熟にあります。そして、「成熟した人間」は、「神の子に対する信仰と知識において一つとなる」ことによって実現します。神の子に対する信仰と知識もないのに、それを望むことは愚かなことです。教会がこの恵みに目覚めないで他の努力をいくら重ねても無意味です。この第一のこと、中心になることを疎かにする教会は、その根本において間違っています。わたしたちの生活もまたそうです。今の時代は、皆、忙しいと言います。しかし、そうだからこそ、御言葉の前に静まって聞く日々の歩みが必要となり、主の日に御言葉によって養われてこそ、一週の勤労の歩みが支えられていくのでないでしょうか。

キリストは教会と国家、また宇宙の主、頭です。教会も国家も宇宙もキリストの中に建てられ、キリストにあって常に存続し、完成へと導かれるのです。わたしたちは、教会がキリストの中に建てられ、キリストの中にあって常に存続するということを信仰の目でしっかりと見つめていくことが求められています。キリストを信じているわたしたちは、キリストの体の中に本来的な自己のあり方を見出すことができるということがここに述べられている大切な点であります。言い換えれば、この世にあって、わたしたちはキリストの支配と保護の領域の中で活き働いているということです。そのことを特に豊かに実感し教えられるのはやはり教会であります。

キリストの体なる教会の中でキリストの恵みと力が上より下に向かって示されます。そのキリストの恵みと力をわたしたちが受けて、わたしたちは、「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(3:18)にまで達し、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく」(15節)のです。

教会の成長と人間の成熟は一体のものです。この二つを一体にして成長させるのは、キリストであり、「神の子に対する信仰と知識」です。教会は必ず、「キリストの満ち溢れる豊かさになるまで成長する」とパウロは述べています。その素晴らしい恵みの力に仕える職務を委ねられている者が、その自覚を持たなくなるなら、その教会の信徒は不幸です。また、その職務をそれに相応しく仕えようとしている者を喜ばない教会は、この約束の下に立つことができません。

14節で、「こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることない」ものにされているものであると述べられています。キリストの教会は、「未熟な者」と区別された共同体です。「悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回され」ない人々の集まり、それが教会のあるべき姿であります。しかし、「風のように変わりやすい教え」が教会の中に現実に入りやすい危険があることも、パウロはこの言葉において指摘しています。「風のように変わりやすい教え」は人間の教えです。

しかし、わたしたちは、「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」とパウロは述べています。神の言葉の真理に立つ時、教会は、「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。」(15節)

頭にいますキリストから与えられる御言葉の力と恵みによって、わたしたちは成長させられ、頭にいますキリストの高さにまで豊かに成長していくのです。教会は、ただキリストにより、その体全体、あらゆる節々が補い合い、結び合わされて、それぞれが分に応じふさわしく働いて成長させられていくのであります。