エフェソの信徒への手紙講解

11.エフェソの信徒への手紙4章1-6節『霊による一致』

今日の御言葉は、「教会の一致」について教えています。特に、教会の「交わり」における「一致」が強調されています。しかし、教会の一致が「交わり」によって創り出されるということが強調されているわけではありません。「交わり」の前提となる、「霊による一致」が強調されています。3節の「霊による一致を保つように努めなさい」は、フランシスコ会訳では、「聖霊のもたらす一致を大切に保つよう熱心に努めてください」となっています。フランシスコ会訳の方が原文に忠実に訳されています。わたしたちが交わりの中で行なう個別的な努力によって一致を創り出すのでなく、「聖霊のもたらす一致」を大切に保つよう努めることが求められています。

聖霊による一致は、3章までに語られた教理を前提として論じられています。3章までに論じられてきた教理とは、キリストと教会に関するものです。

神は天地が造られる前から、愛においてキリストにあって救いへと選ばれたものを召し、あらゆるものをキリストにあって一つにまとめられるという永遠の救いの計画を立てられました。この神の永遠の聖定に従って、キリストは地上に来られて、その救いを十字架と復活によって実現されました。

キリストの十字架は、罪と過ちの中で死んでいた人間を救うためのものでありました。キリストを知る以前の人間は、肉の欲望や心の欲するままに生きる、生まれながらに神の怒りを受けるべき者であるといわれています。しかし、憐れみ深い神は、そのような者でしかなかったわたしたちをこよなく愛して、わたしたちの罪を御子キリストに背負わせ、わたしたちの身代わりとして十字架において裁かれました。そして、キリストは、わたしたちの罪を取り去り、罪の中に死んでいたわたしたちを共に生かすために復活された、ということをわたしたちは学びました。それはまた、ユダヤ人と異邦人という区別を取り除き、遠い者も近い者も「二つの者を一つにする」「平和」の実現であり、両者が一つとなって父なる神に近づけるようにするための救いであった、ということも学びました。教会の土台はこのキリストの救いの業によって築かれ、使徒や預言者による説教を土台として教会という建物が成長していくということが、3章までにおいて述べられていました。

キリストの救いは、ユダヤ人もギリシャ人も区別しません。男も女も区別しません。奴隷であるとか自由人であるという身分も関係ありません。強い者も弱い者も一つにします。人間の中にある互いの敵意もキリストは取り除いてくださっています。パウロはこのキリストを宣べ伝えるために、3章1節で「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっている」と告白し、4章1節においても、「主に結ばれて囚人となっている」と繰り返し述べられています。教会を一致させるキリストにある救い、十字架の福音に自分を固着させて生きているパウロは、誰よりも自分はキリストと一つにされているという強い信仰を持って生きていました。その信仰は、神からの招きによって与えられたものであります。一人の例外もなくその招きを受けてキリストを信じ、キリストを「我が救い主」と告白した者は、キリストの教会の一員とされるのであります。パウロはそういう素晴らしい招きに与って「一つにされている」エフェソの信徒たちに向かって語っているのです。

ですから、ここで論じられているのは、キリストにあって一つにする救い、その招きに与っている者のふさわしい教会生活のあり方です。教会の福音宣教と聖霊によって、そのような信仰を与えられた人に向かって語っているのです。

パウロは「その招きにふさわしく歩み」という言葉に続けて、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」と述べています。「高ぶり」、すなわち「高慢」こそが「柔和」さと「寛容」な心を失わせる最大の原因であります。キリストの十字架の下に立って罪ある自分を見つめる人は謙遜にされます。罪なき神の御子キリストがわたしたちの罪を背負って死んでくださったという事実に目を留めるとき、キリストにある神の愛と憐れみを受けずして救いに与ることはないということを認める信仰へと導かれます。キリストによる神の和解に与ることなく、誰一人神との平和を与えられることはありません。キリストにある神の平和の下に立つ時、わたしたちは人といがみ合い、差別して生きることが愚かで罪深く、非常に高慢な態度であることを知らされます。

キリストの十字架は人の高慢な思いを打ち砕きます。十字架の下に立てば、主の十二人の弟子たちも、キリストを裏切り、キリストに仕えることができなかった罪深さを思い知らされます。しかし、キリストはそのような弱さを持つ弟子たちを救うために十字架に死なれたのです。この手紙を記しているパウロも、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(Ⅰコリント15:9)と告白しています。主の十字架の前には誰も自分を誇ることができません。

パウロは、ガラテヤ書5章22-23節において「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」と述べています。エフェソ書4章2-3節で挙げられている「柔和、寛容、愛、平和」はすべて、「霊の結ぶ実」としてガラテヤ書で数えられています。パウロまた、Ⅰコリント13章4節で「愛は忍耐強」く、「高ぶらない」と述べています。

神からの招きにふさわしく歩むとは、キリストによって実現された十字架による和解を覚え、聖霊によって与えられる実としての「謙遜、柔和、寛容、愛、平和」によって教会が結ばれていくことです。それは、人間の努力によって得られるものではなく、「霊によって創り出される一致」です。

ここで言われている「霊による一致を保つ」ということは、「守る」ということです。既にあるものを守っていく教会の信仰が語られています。信仰というのは、自分の願いを実現することではなく、神がわたくしたちのために配慮し実現してくださった救いの恵みに委ね、それを大切に守っていくことであります。聖霊の実として与えられている、わたしたちの心に芽生えさせられている「柔和、寛容、愛による忍耐、平和」の精神を大切にしようという祈りが必要であります。その祈りによってわたしたちの心が豊かにされていく時、ここで勧められていることが素直に実行できるようになるのであります。

人はあらぶる心に支配されている時、祈りを忘れます。祈りを忘れる人は、神の恵みに生かされている事実を忘れます。神の恵みに生かされている事実を見失う時、人は祈れません。神の恵みに目を向けて生きられない人は、他者のために真剣に祈ることはできません。

パウロは、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい」といっています。これは第一に人の前ではなく、神の前にということです。神の前に自分を見つめて、神の恵みに生かされている自分を知らされて、そのような心を持って同じ教会に共に生きる兄弟姉妹を見つめていくのです。未だ教会を知らない人の心を見ていくのです。キリストが見つめている一人一人の心を見つめていくのです。謙遜、柔和、寛容の心は、御子の御霊の力によってわたしたちの心に芽生えさせられるキリストの愛の心であります。

4-6節において、「一つ」という言葉を7回用いて、パウロは教会に与えられている一致の事実を強調しています。これらはすべて神の中にあり、神によって創り出され、神から与えられるものであります。聖霊は、これら神の許にある一致をわたしたちの間に実現する神であられます。キリストの教会は、わたしたち一人一人の信徒をその体の各器官として建て上げられていきます。キリストは教会に聖霊の賜物を与えてこれを実現されるのです。

4節の「体は一つ、霊は一つ」という言葉は、Ⅰコリント12章で聖霊の働きと賜物の多様さについて述べられている言葉から理解する必要があります。聖霊の働きと賜物は多様です。人間の体の各器官がそれぞれ異なる働きをしていても、有機的に一つのからだの健康を保っているように、キリストの体なる教会を建て上げる働きをするため、各器官は一つとされます。教会はひとりのキリストの体を構成する各部分から成り立っています。それぞれ与えられている賜物、教会の働きにおいて個性や違いが顧みられ用いられるのですが、キリストの体を構成する器官として、その成長のために一つとなって全体の益のために機能するよう用いられる、その意味で「体は一つ」といわれているのであります。その一つなるキリストの体にわたしたちを結びつけ一つとするのは、一つなる聖霊の働きによります。わたしたちに与えられている賜物は多様であり、聖霊の働きもまた多様でありますが、聖霊は一つなる神です。この一つなる聖霊の神から、キリストの体に属するものとする導きを受け、キリストへの信仰へと導かれ、その救いの恵みを受け、賜物を与えられ、多様で豊かな働きをするために、わたしたちは召されたのです。聖霊は、その様に、教会を建て上げる働きのために私たちを一つに保っていてくださっているのであります。

ですから教会がいくら多様であっても、教会が一つの霊に結ばれ導かれている限り、そこに一致を乱すものは何も無いのです。教会の多様性が一致を乱していくとするなら、それは、聖霊の賜物ではなく、諸々の霊による人間的な思いと能力主義による多様性の活用に堕してしまっているからです。それでは一つの体として機能することができません。しかし、聖霊は多様で豊かな賜物をわたしたちに与え、教会を豊かにし、しかも一つに保つ働きをしてくださるのです。

聖霊は、神の救いを人に教え、人を媒介し、救いを実現なさる神です。聖霊は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」という信仰を私たちに教えてくれる神であられます。聖霊によって与えられている一致に目をむけ、聖霊によって与えられる一致を守る教会には、13節において、「キリストの満ちあふれる豊かさにまで成長する」という素晴らしい約束が与えられているのであります。