エフェソの信徒への手紙講解

9.エフェソの信徒への手紙2章19-22節『神の家族』

2章11-22節は、この手紙の「神学的中心」であり「頂点」であると前回お話し、前回は11-18節までを一つにしてお話ししました。キリストはユダヤ人や異邦人を差別せず、「遠くにいる者」にも「近くにいる者」にも、十字架において神の和解を実現し、キリストにおいて両方の者が一つの霊に結ばれて、父なる神に近づくことができるようにされたことを学びました。教会はこのキリストによって、一つにされ、一つ心で神に近づく共同体にされています。

このキリストにある事実に基づいて、19節では、「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」と述べられています。11-22節の主題は「教会の一致」ですが、この段落には、「教会」を直接表す語が一つもありません。しかし、19節には、教会を「聖なる民に属する者、神の家族」という言葉で表されています。

いま、わたしたちの国では家庭の崩壊、家族の崩壊がしばしば問題になっています。昔は、家族とは強い一致の絆で結ばれている象徴のように語られていたのに、それを当たり前のように言えない時代になったのは、本当に寂しい気がします。家族でさえ一つであることが難しくなっていますから、ましてや他人同志の関係がうまくいくはずがないと思わされることがよくあります。このように家族意識が希薄な時代にあって、「神の家族」という言葉を聞いても、それほど感動を覚える言葉として響かないという人が多いかもしれません。

しかし、パウロは「神の家族」という言葉を、肉のつながりをもとにして言っているのではありません。むしろ、そのまったく逆です。お互いが遠い関係であった者同志、敵意と争いの関係にあった者が、外国人であるといって差別されることも、貧困のため寄留者となっている者も差別されることもない、そういう人も含めてみんなキリストにより、一つの霊に結ばれて、「一つにされて」神に近づく「神の家族」とされているというのです。元々家族のように一つであり得ない者たちが、一つとなって「家族」を構成しているというのです。

生まれも育った環境も異なる種々雑多の人が一つにされて集められ、一つ心にされて礼拝を献げる共同体とされているのが教会です。「神の家族」というのは、人間的な側面から見れば、そんな危うい、常に分裂の危機となる火種を抱えている共同体です。しかし、神はそういう人々を召し集めて、「神の家族」として大切にし、一つに保とうとされる驚くべき恵みに満ちたお方です。

「人間の家族」は血のつながりを元にしていますが、家族の中で仲たがいしなくても、結婚を機に家族が段々別々に別れていくということも起こります。相当努力しないと、家族が一つにまとまらないということを私たちは実感しています。

血のつながりをもつ人間の家族がそれほど努力しないと一致を保てないなら、「神の家族」を構成するのは、血のつながりを全く持たず、しかも生まれや育った環境の違いをもっているわけですから、その努力はもっと要ると思うのですが、ここにはそんなことが一つも語られていません。

教会が「神の家族」とされるのは、ただ神の恵みによるという事実だけが示されています。人間の努力や団結心でその組織ができ、一致が保たれたというのではない、「キリストはわたしたちの平和であります」と14節において述べられている通り、人間同士が互いにつくっている一致を損なう「壁」を、キリストが取り除き、平和を実現し、互いが互いを思い合う心を与えてくださることによって、一致を実現させ、保って下さるので、一致は保たれるというのです。18節で「一つの霊に結ばれて」といわれている言葉に目を留めることが大切です。

教会は、信仰者の決定や団結によって一つの共同体として保たれているのでありません。私たちが教会に連なる以前から、キリストはご自身を差し出し、その体を教会とされたのです。個人よりも先に教会は存在しているのです。キリストの招きにより、キリストの恵みの業に与り、キリストに結ばれて、教会は一つにされるのです。教会は、この恵みの事実にいつまでも目を留め、この恵みの中にとどまり、その交わりの中に入れられて、この恵みに委ねて生きるなら、「神の家族」としての一体性を、いつも喜び味わうことができるようにされているのです。

そして、20節には、教会が「神の家族」として一つであることを具体的に保たれていく道筋と、更に「神の家族」が成長し大きくなっていく道筋とが示されています。「人間の家族」は段々核家族化が進み、小さくなっています。しかし、「神の家族」である教会は、成長し大きく豊かにされていきます。どういう風になるか、今度は「家族」という言葉を用いないで、「建物」「神殿」という言葉で教会の姿が現されています。

人間の手で作られた建築物が大きくなったり小さくなったりすると大変です。そんなことは現実に起こり得ません。だからここでは建物としての教会のことがいわれているのでありません。有機体としての、キリストの体としての、教会の成長のことが、「建物」に譬えられて語られているのです。

それは、当時の「建物」の建て方に関わる表現が取られています。ドーム型の建物を建てる場合、その土台となる親石をしっかり固めなければなりません。そして土台がしっかり固まれば、その上にどんどん石を積んでいきます。そして、最後にドームのてっぺんに要の石をはめ込んで建物全体がしっかりします。この建物の建て方は、段々建物が成長するように建てられますので、このような比喩がとられたのだと考えられます。

しかし、このたとえの場合、建物を成長させる力は、教会の頭であり要石となられたキリストから下に向かって与えられています。そして、その頭に向かって土台を築き成長させる力として、この頭にいます方を指し示し、信徒一人一人をこの方と結び付ける石として、その方に向かって成長させる神の言葉が与えられています。それが「使徒や預言者という土台」であります。

この場合の「預言者」は、旧約聖書に登場する預言者のことでありません。教会でキリストを証しする説教を行なうべく召された人のことです。使徒もキリストの復活の証人でありますから、「使徒も預言者も」共に、キリストを証しする働きであることに違いがありません。そうであるなら、教会の土台は、御言葉であるということが非常にはっきりと語られています。

御言葉を土台として、神の言葉を神の言葉として語られているところでは、教会は必ず成長するという約束がここに語られているのであります。御言葉が土台となっている教会の頭、その頂点には、キリストが要石としておられます。このキリストと土台が結ばれている教会は必ず成長するというのです。キリストにおいて教会は建てられ、成長し、教会は神の住まいとなります。神の家族は、御言葉を土台としてキリストにおいて、また霊の働きによって、神の住まいとなるのです。

この大切な点を、わたしたちはしっかりと理解する必要があります。わたしたちの教会生活は、すべて「キリストにあって」始まるということです。そして、キリストはわたしたちの教会生活の起源であると同時に目標であります。わたしたちの成長は頭であるキリストにまで達し、一人の新しき人「キリストになる」ことにより実現します。教会の一致は理念や理想として存在しているのではありません。また教会の一致はそのメンバーの一致や団結に基づくものでもありません。それは、教会が世に存在したときから与えられているものです。その一致は人間の目に見えるものとしてあるのではありません。

教会の一致は、ひとりの主キリストを持つことによって与えられます。そして、まさにこの事実に基づいて、教会は見える一致を目指す信仰者一人一人の努力の必要なることを教え、要請するのです。そのようにして、必ず一致へと導かれ、豊かに成長する神の家族として、教会は存在しているのであります。ここに大きな教会の希望と慰めが与えられているのであります。