エフェソの信徒への手紙講解

8.エフェソの信徒への手紙2章11-18節『平和の福音』

エフェソ書の2章11-22節は、エフェソ書の「神学的中心」であるとか、エフェソ書の「頂点」であるといわれています。この部分は、11-13節、14-18節、19-22節の三つに分けることができますが、今回は11-18節までを扱います。

エフェソの「神学的中心」といわれるこの箇所において強調されていますことは、「教会の一致」です。パウロは、この手紙を異邦人キリスト者である人たちに宛てて書いています。異邦人キリスト者に対して、彼らが先立って主に選ばれキリストの教会の一員とされた者とどのように結ばれ、その教会の中で一つにされていくのかという問題をここで論じています。

1-10節において、「かつて」は、「自分の過ちと罪のために死んでいた」者が、「今や」神の愛により、恵みにより、キリストの十字架と復活の贖いに与り、その福音を受け、信仰を与えられ、新しい命に生きる者に変えられた、という素晴らしい転換が語られました。

11節は、この事実をもう一度喚起させる意味で、「だから、心に留めておきなさい」という言葉で始められています。異邦人キリスト者がキリストを知って、その救いに与るまでどれほど神の救いの恵みから「遠い」存在であったかが、11-12節において畳み込みかけるような調子でその事実を連挙して述べられています。ユダヤ人は神によって選ばれた契約の民であることのしるしを「割礼」という儀式によって見える形で明らかにしました。神はこの民に救い主を約束し、キリストはその約束の成就者としてユダヤ人の間に明らかにされ、最初のキリスト者はユダヤ人の中から現れました。ですから、異邦人はユダヤ人から見れば、割礼なきもの、キリストと関わりなく生きていた存在であり、イスラエルの民に属さず、救いの約束、神の契約とかかわりなきところを生きる者でしかなく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている、存在であると見なされていました。

しかし、異邦人キリスト者は、キリストを信じ神の救いの恵みに与る者となってからは、本当に自分がそのような「過ちと罪のために死んでいた者」であったという事実を感謝と喜びをもって振り返ることができます。「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」は、原文を忠実に直訳しますと、「コスモスにおいて希望を持たず、無神の者たちでありました」です。

ここでは、キリストを知る以前の異邦人が文字どおり、「無神論者」として生きていたということがここでいわれているのではありません。「希望を持たず」に生きていたという事実は、真の神を知り、キリストにある恵みを知った者だけが、認め得るものです。神の約束を知らない、真の神を知らず、キリストの救いを知らないという意味で、異邦人キリスト者は、かつては、神から「遠い」存在であったといわれています。それは、わたしたちにも当てはまることでもあります。それに比べれば、ユダヤ人であるパウロは、神の約束を知らされ、先立ってキリストの十字架の福音に与り救われたという意味で、神に「近い」存在であったといいます。しかし、救いにおける順序がそのように現実に存在しているにしても、キリストを知る者とされた者が、神からいつまでも遠い存在でいるわけでないということをパウロはまたここで語っているわけであります。

13節後半において、「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」と、二度、キリストにおいて神に「近い者」にされた恵みの事実が強調されています。

13節の「遠い者」「近い者」という言葉は、イザヤ書57章19節の「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす」に基づいています。しかし、イザヤ書57章19節の「遠い者」「近い者」は、いずれもイスラエル人を指す言葉でありました。即ち、エルサレムから遠く外国に離れて生きているイスラエル人と、近く国内にいるイスラエルの人々のことが言われていますが、14節の「キリストの平和」の実現を、パウロはイザヤ書56章が異邦人も神殿においてユダヤ人と同等の権利を与えられて、主に近づくことができるという言葉と結び付けて理解していることを考え合わせますと、「遠い者」「近い者」は、明らかにイスラエル人と異邦人の意味に置き換えられています。

パウロは「キリストは私たちの平和であります」と語っています。実に慰めと希望に満ちた言葉です。ギリシャ人は、「平和」を戦争のない「期間」ととらえます。時間的な意味、現象としてとらえます。それは常に「戦争状態」と対局にある「平和の時」という永続しない時として捉えられます。しかし、聖書が語る「平和」は、神の「真実」(エメト)、神の「契約」などの語と共に用いられます。この場合、平和は時間的な意味よりも、「関係」を示す語として用いられます。キリストはご自身の「肉において」「血」を流し、神が人の罪に向けている「怒り」「敵意」を取り除く和解が実現されたということが語られています。神の罪に対して向ける怒り、敵意は、罪なき者の血を要求するほど大きいことが、この言葉によって示されています。ヘブライ人の手紙12章4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません」とありますが、キリストは文字どおり、わたしたちの罪のために、「血を流すまで抵抗して」戦われたのであります。血を流して「罪と戦われた」のであります。そして、神とわたしたちの間で失われていた命の交わりを回復してくださった、その事実が、復活という出来事において表され、復活の命に与る者とされた者に、その約束の手付金として「聖霊」を与えることによって明らかにされたことが、ここで述べられているのであります。

エルサレムの神殿には、聖所と至聖所とを区切る垂れ幕がありました。十字架上でイエスが死なれた時、神殿のその垂れ幕が真っ二つに裂けたと、マタイ福音書27章51節に記されています。十字架の出来事は、神と交わりを制限する境が取り去られ、「神と共に交わり生きる道が回復された」恵みを表しているのであります。十字架において、神はご自身の怒りを「和らげ」られたのです。キリストの十字架は、神の「敵意」を「和らげる」出来事であったのです。

しかし、ここでは「垂れ幕」ではなく「隔ての壁」といわれています。エルサレム神殿の中庭には、1.5メートルほどの高さの壁が巡らされていました。その外側には、「異邦人の庭」があり、異邦人はその内がわには入れませんでした。しかし、キリストの十字架は、異邦人も一緒に神を礼拝できる救いを実現するものでした。イエス・キリストにあって、ユダヤ人もギリシャ人もない、奴隷も自由人もない、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つだ、とガラテヤ書3章28節において言われています。律法において、異邦人が神殿に入る自由が制限され、神と交わる自由が異邦人に制限されていました。15節の「規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」という訳は、すこし感情的すぎる翻訳です。ここは直訳すると「かれの肉のうちに、諸々の規定のうちに、戒めの律法を廃棄された」となります。キリストの十字架の出来事は、すべての律法を廃棄するものではありません。

人が神に近づくための礼拝儀式における、ユダヤ人と異邦人との間で定められていた様々な儀式が破棄されたということです。

パウロがここで「キリストはわたしたちの平和であります」という場合、それは、第一に神と人との間の「敵意」が取り除けられ、すべての人が神に近づき交わることのできるようにされたという意味で、「キリストの十字架を通して平和が実現した」ということであります。第二に、このキリストの平和にユダヤ人もギリシャ人も恵みによって一つにされて共に与る者にされているわけですから、救われる時間的な「近さ」「遠さ」の現実の違いがあっても、異邦人キリスト者も同じ「近さ」に引き寄せられ、ユダヤ人キリスト者も共に「一人の新しい人に造り上げて平和を実現」されている、といわれています。つまり、「キリストの平和」において、ユダヤ人と異邦人という区別や敵意が滅ぼされて、人と人との間の平和も実現し、「一人の新しい人」「一つの体」という強い一体性が、キリストにおいて実現しているということがいわれているのであります。

キリストは男女の性別を超え、ユダヤ人やギリシャ人いう人種、選びの順序を超え、奴隷や自由人という身分を超え、すべての者を等しい「近さ」で神に近づけるように、「神と人との間にある敵意を十字架において取り除き、平和を実現された」といわれているのであります。

キリストの十字架は、神と人との間の平和が実現したことを告げる言葉であります。キリストの十字架は、人と人とを分け隔てすることを止めさせ、人の間に平和を実現する福音であります。だから、わたしたちが、この平和の福音を受けて信じているということは、キリストにあって一つにされているという事実を受け入れていることを意味します。「キリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」ようにされているのです。神を一つ心で礼拝する民に整えられているということであります。

11-13節までは、異邦人キリスト者が「あなたがた」と呼びかけられていますが、14-18節では、「わたしたち」と一人称複数形で記されています。キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つにされていることが人称変化において明らかにされています。キリストにあって、「わたしたち」は「一つに」されます。それは、4章3-6節において告白されている信仰です。

教会の一致は、わたしたちの団結に基づいて創り出されるものでありません。教会の成長はそのようにしてもたらされるのでもありません。むしろ、人間によるそのような努力が必要であるという思いは、教会の信仰の成長を阻害することになります。教会の一致と団結が可能なのは、教会が信仰者個々人に先立って存在するからです。教会はキリストがその体を提供し、わたしたちをその救いに与らせ、その体に結び付けて成長させ、「遠い者」でしかなかったわたしたちを、「近い者」としてくださるキリストの教会であるからであります。