エフェソの信徒への手紙講解

6.エフェソの信徒への手紙1章15-23節『教会の祈りと信仰』

この箇所は、3-14節の長い賛歌と同じく、一続きの感謝と執り成しの祈りとなっています。

パウロは13節において、永遠における神の選びと召しによる救いが現実に適用されるのは、福音を聞くこと、信じること、聖霊の証印を受けることの三つであることを明らかにしています。そして、この手紙の読者がこれらすべてに与って信仰に至った事実を聞き、パウロは祈りのたびごとに彼らのことを思い起こして絶えず神に感謝していると述べています。

15-23節に記されているパウロの祈りは、教会に対する祈りです。この祈りは教会が立つべき信仰が何であるかを明らかにしています。この祈りにおいて、教会が祈り求めるべきこと、神がキリストにおいて信じる者(その体である教会)のために行われたことが何であるか、また、神が現在何を行っておられるかを、もっと深く知るようになることを明らかにしています。このパウロの祈りは、いつの時代の教会も覚えねばならない事柄です。

この祈りから特に三つのことを共に覚えたく思います。

第一は、聖霊の助けと力によって神をより深く知ることができるよう、心の目が開かれ、神の召しによって与えられる希望についてです。

信仰とは、神の備えたもう「相続財産」に目覚め、それに望みを置いて生きていくことです。18節に「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」という言葉が記されています。「受け継ぐもの」は、直訳すれば「彼の相続財産」です。神が約束し与える相続財産のことです。

信仰とは、私たちの願望の実現を望むことではありません。神が相続財産としてくださるものに与るようにといわれる招きに与ることです。その相続財産を待ち望みつつ、現在を、神への希望の時として生きることです。その望みを告げる神をますます知り、その神に心の目が開かれるように祈り願って生きる、これが日々の信仰の歩みとなるようパウロは教えているのです。

信仰者の喜びは、自身の願望が聞かれることによって与えられるものではありません。神が与えてくださる救いの知識、その富の豊かさを知り、その富を相続する豊かな者にされていることに目を開くことによって与えられる希望にほかなりません。

だから、たとえわたしたちがそれ以外のもので希望を与えられたとしても、その希望は決して私たちを本当の喜びに導いてくれることはありません。わたしたちの生涯失われることのない喜びは、ただイエス・キリストの神、栄光の源である神から来ます。この神が与えてくださる相続財産の素晴らしさを知る知識から与えられます。その財産に与らせる神の選びと召しの確かさこそ、わたしたちの希望であります。その希望に生きることができるよう聖霊は、心の目を開き、その希望を見続けて歩むことができるように、わたしたちを導いてくださるのです。

第二にパウロは、イエス・キリストにおいて現された神の力に目を注ぎ理解するように祈り求めています。

わたしたちキリスト信徒に働く並外れて偉大な神の力は、ただイエス・キリストを通してのみ知ることができます。わたしたちの希望の根拠となる神の力は、キリストを死者の中から復活させた出来事において何よりも表されます。

第一コリント15章によれば、キリストの死がわたしたちの罪のためである限り、キリストの復活もまたわたしたちのためのものであることが明らかにされています。それゆえ、キリストの復活は、キリストと結びついて生きている者の初穂であると言われています。キリストの復活は、わたしたちの救いの客観的な根拠を与えてくれます。またキリストは、天において神の右に座して、全てのこの世を支配する権威、勢力、主権をもち、あらゆるものの上にその支配力を行使する主権を持つ全宇宙の頭でもあられます。現在なお、諸々の霊がこの世を支配し、わたしたちに戦いを仕掛け、支配して、苦しみを与えている現実があるとしても、キリストは既にそれら諸々の霊に勝利され、ご自分の足下において従わせておられるのでありあります。

ここでは、神の力、特に死者を復活させるキリストの復活の力は、遠い将来のこととして語られていません。キリストの復活の力は、現在のわたしたちの諸問題を解決する力として働いています。私たちを苦しめる様々な問題にも、その解決の力として、キリストを復活させた神の力が働き、その支配が及び、それに打ち勝つ信仰を呼び覚ます力として与えられています。心の目は、この事実に対して開かれていなければなりません。この事実に目が開かれている信仰は、どんな苦しみや困難にあっても平静さを保つことができるのであります。わたしたちが死の力や、世の現実に打ち負かされているように見えるときにも、神がキリストを死者の中から復活させた力が、どのような時も、わたしたちを守り支えていることを覚えるべきなのです。

祈りにおいてこれらのことを覚え、祈る時、信仰の力が新たに呼び覚まされます。キリストはこの地上に私たちと同じ人間性を持って世に来られました。同じ肉体を持ってこられて十字架に死なれたキリストが復活して、天に昇られ、この地上をその力で支えておられるその支配は、天から地上にまで伸ばされているのです。宇宙の頭としてキリストの支配は地上にまで伸びているのです。このように、エフェソ書の終末論は、空間的・宇宙的・垂直的な次元で強調されているのであります。21節に、「今の世ばかりでなく、来たるべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」とあり、キリストの勝利の支配が時間的に将来にも及ぶことが言われていますが、強調はどこまでも現在表されている神の支配に置かれているというのであります。

キリストの支配が現在表されているということは、終末は既に現実になっているということです。そのように神の力が表されていることを見る信仰は、この世の様々な困難な問題を相対化し、自由に生きる力を獲得することができます。それは、この世の現実から目をそらすことではなく、むしろこの世の現実を直視し、そこにもキリストを通して働いておられる神の力を見る信仰であります。

キリストの復活の力は、この地上の外なる人が日々衰え行く現実の中にも働いています(Ⅱコリント4:16)。神の力はそのような現実にも働いているのを見るのが信仰のあるべき姿であります。

第三に、キリストが現在教会に行われている支配が明らかにされています。
キリストは全宇宙の頭にしてかつ教会の頭であられます。教会が世の支配に負けているように見える現実にあっても、教会の頭でいますキリストが同時に世の頭として支配しておられるわけですから、キリストの勝利の力は世に対しても働いているわけであります。宇宙はキリストの支配に服さしめられているのであります。

そして、教会はキリストの体であるといわれています。教会は頭であるキリストと結びつき一体となって一つの体を構成しています。人の選びよりも先に、キリストと教会の関係は存在しています。このキリストの体である教会に召され、信仰を与えられて、私たちは結び合わされて行きます。そうしてキリストが守り支配する領域の中に、わたしたちは入れられるのです。このことを知ることはとても重要です。

救いというのは、わたしたちが信仰をもつ以前に、キリストにおいて存在し、キリストはその救いを与らせる体として教会を自ら建て、その教会へとわたしたちを召し、その救いに与らせてくださるのであります。だから教会というのは、宗教的確信において一致し、人間によって考案された救いの観念において一致する集団ではありません。教会の創始者はキリストご自身であり、ご自身の体である教会にわたしたちを与らせることによって、その救いの恵みのすべてに与らせ、そのすでに定められている現実に、今この時に生きることができるように整えてくださるから、教会は一致を保たれているのであります。教会の一致はこれから創り出さなければならないほど、曖昧で頼りないものではありません。教会の一致は、キリストの体である教会に既に存在しているのであります。その事実をキリストの中に見る信仰がわたしたちに求められているのであります。

キリストの体である教会は、「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(23節)。これは判りにくい翻訳ですが、この言葉において表明されています大切な点は、教会を満たし豊かに成長させる力は、頭でいますキリストであるということです。キリストはそのような方として、教会を満たしておられるということです。言い換えれば、キリストの体である教会は、この満たす方によって満たされている、ということです。

教会がこのキリストとの関係を覚え、このキリストの支配、キリストの力に明け渡して従っている限り、教会は必ず成長するのです。コリント教会のように人間的にはたとえ問題があっても、教会がこの最後の究極の力に対する信仰を堅く持っていて、明け渡していくなら、教会は必ず成長するのであります。

教会に今元気がない、成長が止まっている、という一時の教勢の減少に目を奪われて、キリスト以外の力から元気を取り戻す努力をすることは、長い目で見れば、教会の本当の成長を阻害することになります。教会の成長を妨げるのは、わたしたちの間違った信仰です。すべてを満たす満ち満ちたキリストに目を開き、キリストに委ねきり、キリストの言葉にのみ立ちきることができる教会にこそ、キリストはその恵みの力を満たしてくださいます。教会がこの祈りに立っていくことが何よりも大切なのであります。