エフェソの信徒への手紙講解

4.エフェソの信徒への手紙1章8-10節『神の御心の奥義』

8-10節は、神の「秘められた計画」の啓示について語られています。9節の「秘められた計画」は、直訳すれば、「神の御心の奥義」です。ここでは、神の御心をわたしたちがどのようにして知ることができるか、そして、神の御心を知るということがわたくしたちの信仰にとってどれほど大切なことであるかが語られています。

神がどのようなお方で、神がわたしたちに示される救いがどのようなものであるかが曖昧ですと、信仰生活は極めて曖昧なものとなります。信仰の対象となる神がはっきりしていないと、確信の持てない状態がいつまでも続くことになります。

「奥義」はギリシャ語ではムステリオンです。これは古典ギリシャ語では、複数形のムステリアという形で用いられるのが普通です。そして、この語は祭儀を意味するテリアという語が幹になっていて、この語は、論理的な思考によっては理解できない、内容を「言葉に言い表すことのできない」祭儀を意味しています。つまり、ギリシャのような異教宗教においては、入信者は理性的な認識を通して「秘儀」に参加するのではなく、より深い経験のレベルで、神聖な出来事に捉えられるものと考えられていました。

平たく言えば、合理的な理由は分からないけれども、祭儀に参加してありがたく思う経験をし、自分は神聖な出来事に捉えられているのだという信仰を持つことが、ギリシャ的、異教的密議宗教では重要であると考えられていました。

しかし、パウロや使徒たちが「奥義」(ムステリオン)という語を用いる時、そういう意味では用いません。神がどのような方か、神の御心はどのようなものかを、人は想像力を働かせて知ることはできない、というのが聖書の教えの基本にあります。そのような信仰の持ち方を偶像崇拝の道として厳しく退けています。人間にとって、神はどこまでも神秘のベールに包まれた見えざる方です。そのことは、神を知る上において心得ていなければならない大変重要な点であります。

しかし、わたくしたちにとってそのような隠れた未知な存在でしかないはずの神が、9節において「御心の奥義をわたしたちに知らせてくださいました」と語られています。わたしたちにとって隠された「奥義」でしかなかった「神の御心」が、今や知らされ、明らかにされたというのです。ここの主語は、神ですから、神ご自身が「御心の奥義」を明らかにされたということであります。つまり、神の御心を知る道は、神の啓示によるということが明瞭に語られています。

信仰の正しい道筋は、神からの啓示を待たねば与えられないことが、ここではっきりといわれているのです。正しい信仰は、わたくしたちの熱心さや信心深さにあるのでありません。神がご自身を示されるその「御心」を正しく知って、それを喜び、感謝し、信じ受け入れることであります。たとえその啓示された内容が人間の合理性にかなわない事柄であっても、神の啓示である故に信じるという態度が必要であります。

パウロはⅠコリント2:1において神のムステリオンについて述べていますが、それは、十字架につけられたキリストに関するものであり、それが人間理性によって把握できないのは、人の目に愚かに映るからということを、その前において述べています。しかし、これがパウロに啓示された救いであり、人からどれだけ愚かといわれても、人間の優れた知恵に頼ろうとせず、神の愚かさの中に自分の身を委ね隠し、十字架と復活の主キリスト以外宣べ伝えないと、パウロはいっているのであります。同じくⅠコリント4:1において、パウロは使徒である自分を指して「人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画を委ねられた管理者と考えるべきです」といっています。「〈秘密〉のうちに活動し歴史的に現実となる、神の隠された知恵」をパウロはこのように語っているのであります。

エフェソ書1:9では、「これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです」と語られています。これは4-5節との密接なつながりの中で語られています。神の御心とは、天地が造られる前から、永遠の神のご計画の中で御子キリストにあって罪の中に滅んでいるわたしたちを選び、キリストの十字架と復活において救い、その命に与らせる恵みである、ということが語られているのであります。それが神の御心であったという慰めに満ちた言葉がここで語られているのであります。それは、わたしたちの目に見えない、隠された奥義でしかなかったが、神は、天地が造られる前、御子キリストにおいてわたしたちを選び救うということが決定されていたという御心の奥義が、この歴史の中にキリストが入ってこられることによって、今やわたしたちに啓示されているというのであります。

それがどのように具現したか、10節に具体的に述べられています。
「時が満ちるに及んで」といわれています。「時の充満」とは、「あらゆる時に先立つ決定とその歴史的な実行とが一致に到達する時点を意味しており、時の充満の〈執行〉とは、それが計画に従って実現されたものであることを明確にするための表現である」とある注解者はいっています。実に的を射た注解であると思います。

10節の「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され」は、直訳しますと「時の充満の経綸に向けて」となります。「経綸に向けて」と訳されるべき原語のエイス・オイコノミアンは、元来行政用語です。英語のエコノミーの元になった語です。これを更に日本語で「経済」と訳されますが、この「経済」という語は「広辞苑」(第二版増補版1980年、岩波書店)には、日本語の「経済」という語は、もともとは「経国済民」という語に由来し、国を治め人民を救うことが本来の意味であった説明されています。経綸も、国家を治め整える事という意味であり、治国済民の方策という意味であることが「広辞苑」に記されています。

エフェソ1:10においては、オイコノミアは〈指示〉〈処分〉〈遂行〉の意味で用いられております。時の始まりに先立って下されていた神の決定の遂行という意味であります。それは、まさに神の救済史としてなされていることが明らかであります。神の国実現のために定められた神の永遠のご計画に従って、今まさに神の治国済民の事業が御子キリストの出現によって、キリストにおいて成し遂げられるということがいわれているのであります。

この神の治国済民の事業がどのようになされるか10節後半の御言葉が明らかにしています。「あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」とあります。「一つにまとめられる」と訳された語の元の語は、アナケファライオーサスタイです。これはアオリストという1回限りの,歴史的なキリストの出来事に固定可能な神の行為を示す時制が用いられます。

歴史はキリストにおいてその目標に達します。それゆえ万物はそれ自体で完結した宇宙ではなく、キリストという目標に向けて方向づけられた神の創造物として表されています。エフェソ書1章10節の後半は、キリストのために全被造物を創造し、終末論的目標点をこのキリストに設定した神の行為を言い表しています。それゆえ、キリストにおいて、万物はその空間的・時間的広がりにわたって総括されていることが明らかにされているのであります。

新共同訳聖書は「頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」といって、アナケファライオーの語源を「ケファレー」(頭)から取るように訳していますが、むしろこの語源は、「ケファライオン」(主要点)であり、キリストが全ての要、要点であることが強調されているのであります。

隠された奥義であった神の国の治国済民事業は、この歴史の中で、この世界の中で、キリストを目標として統括され、一つにまとめられるようにされたというのであります。だから、キリストの福音が宣べ伝えられ、この福音に与ることによって、世界はキリストによって一つにまとめられるように神は救いの事業を計画され、実際、世界は一つに保たれているというのであります。2章19節に明らかにされているとおり、この要であるキリストにおいて、「あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」という状態に保たれているという確かな救いが、わたしたちにもたらされているのであります。

福音がわたしたちのところに届くこと自体が、神の経綸にあってなされているということであります。それは、キリストがそのようにして万物、この世界を統合しておられるからであります。この素晴らしい神の奥義は、今や福音を聞く者とされている私たちに明らかにされているのです。そして、この奥義は信仰においてのみ知り得るものです。この信仰の知識もまた神の恵みとして与えられます。8節において、「神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与え」てくださるといわれているからであります。それは、聖霊を通して与えられる識別力であります。この豊かな知識、神の奥義を理解する力、信仰もまた神の恵みとして与えられているのであります。わたしたちの救いのために要となってくださるキリストが聖霊をも与えてくださっているので、わたしたちは、神の救いのご計画の奥義を知ることが出来るのであります。

神の御心を知る知識のすべては神の恵みとして与えられます。その知識は実に素晴らしい恵みであり、わたしたちを感謝と喜びの中でキリストにおいて本当に一つにされていることを深く覚えさせてくれます。教会の一致は、このようにして恵みとして与えられるのであります。キリストへと向けられる信仰こそ、教会を一致へと導く神の奥義なのであります。