エフェソの信徒への手紙講解

1.エフェソの信徒への手紙1章1-3節『霊的な祝福で満たし』

今日からエフェソの信徒への手紙を学びます。この書において扱われている主題は、宇宙と教会におけるキリストの完全な優越性と、それらすべてを統合するキリストの役割についてです。今日は最初ですので、簡単にこの手紙の特色のいくつかのことについて述べた上で、3節の御言葉を中心に説き明かしを行います。

この手紙は、1節によれば、「エフェソにいる聖なる者たち」に宛てて書かれたことになっていますが、信頼できる古い写本には、「エフェソにいる」という言葉がなく、そこは空白になっており、空白部分に「…と」という意味を持つ英語のandに相当するカイという接続詞があります。つまりこのところは、「…と…聖なる者たち」となっていて、非常に不自然になっています。これは、後で宛先を入れるため、わざと空白にしておいたのではないかと推測されています。つまりこの書簡は、元々一つの教会に宛てられたものではなく、複数の教会に宛てられた「回状」ではなかったかといわれています。コロサイの信徒への手紙もそういう性格を持った手紙であったと考えられます。その証拠をコロサイ書4章16節に見ることができます。「この手紙があなたがたのところで読まれたら、ラオディキアの教会でも読まれるように取り計らってください。また、ラオディキアから回ってくる手紙を、あなたがたも読んでください」と書かれています。そこに書かれている「ラオディキアから回ってくる手紙」が、実は、エフェソ書ではなかったかと言われています。そしてエフェソ書の宛先は、エフェソではなく、ラオディキアとヒエラポリスではないかとも言われています。断定はできませんがその可能性は非常に高いと思います。エフェソに宛てて書かれた可能性は非常に低いといわざるを得ません。なぜなら、使徒言行録20章31節において、「三年間、夜も昼も涙を流して教えてきた」と言われているのに、1章15節、3章2-3節、4章21節で、パウロがエフェソの信徒たちを個人的に知らないような書き方をしているのは、どう見ても不自然です。この不自然さを解消するため、この手紙の著者はパウロではないという学者も多数います。しかし、その疑問は、この手紙が複数の教会に当てられた「回状」であったという見解に立てば解消します。

この手紙には、他のパウロの手紙と違う文体や神学的な特徴が見られます。
パウロの初期の手紙は、キリストの再臨の近さが強く意識され、その待望と終末を生きる信仰のあり方が重要な主題となっています。この手紙にも1章14節に終末的な期待が表明され、その信仰の大切さが忘れられているわけでありませんが、この手紙では、教会はキリストの再臨を待つものとしてではなく、むしろ歴史の中で成長し、発展していくものとして描かれています。

そして、エフェソ書の教会観は、宇宙的な広がりを持って、天地が造られる前から存在し、復活昇天し神の右に座しておられるキリストが、頭として、その体である教会を満たしておられることが強調されています。

エフェソ書全体を貫くトーンは、終末的ではなく、始源的です。恵みは、源なる神から発し、キリストにおいて与えられることが徹底して語られています。キリストとの結合、キリストとの一致、全てのものがキリストとの関係の中で祝福を受け、また成長することが徹底して語られています。終末は時間的水平的な成就としてではなく、垂直的な宇宙的な広がりの中で、しかもキリストとの結びつきの中で捉えられています。

そして、何よりもこの手紙の特徴は、1章3-14節にある神讃美にあります。パウロの手紙は、挨拶の言葉の後に、感謝か讃美の言葉が続くのが普通ですが、ここではその両方が出てまいります。そして、この感謝と讃美の言葉はどこまでも神に向けられています。3-14節まで続く段落のギリシャ語の原文は一続きの文章です。この長い感謝と讃美の言葉は、教会の礼拝式で用いられる賛歌ではなかったかといわれています。

この賛歌の特徴は、神がキリストにおいて働かれるその御業を、喜び称えることにあります。賛歌によって、ますますキリストにあって働かれる神の奥義に導き入れられたいという信仰の告白がなされています。神はわたしたちを愛し、祝し、恵み、大いなる救いをもたらしてくださるお方であることが賛歌において告白されています。神の愛、祝福、救いは、神の御子イエス・キリストを離れて表されることはありません。常にイエス・キリストにおいて行為される神が啓示されています。

それゆえ、この賛美は神に向けられていると同時に、キリストへの賛歌・告白でもあります。主イエスへの信仰を欠くどのような神讃美もありません。神がイエス・キリストにおいてなしてくださる大いなる救いの御業、恵み、祝福を覚え、神を讃美して生きる、これこそがわたしたちの信仰の歩みであることを、この賛歌は教えています。

この賛歌は、そのことをはっきりと意識させるように、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)という言葉ではじまっています。この文章は、文法的にはこの賛歌全体にかかっています。礼拝の目的、わたしたちの信仰の目的はこの言葉において一言で表明されています。以下に続く文章は、神をほめたたえるための、理由、動機が示されています。

挨拶の2節のところでは、「わたしたちの父である神」といわれていますが、ここでは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」といわれています。神が「わたしたちの父」であるという告白ができるのは、どこまでも主イエス・キリストとの関係においてです。神がわたしたちの父なる神となられるのは、イエス・キリストにおいてです。わたしたちは、イエス・キリストにある救いに入れられ、キリストと結合するものとされ、神からキリストにあるものとしての取り計らいを受けているということを、信仰において認識することによって、わたしたちは、はじめて神を「わたしたちの父」として認識することが出来ます。

それゆえ、神は、わたしたちにとって、抽象的な匿名の誰かではありません。わたしたちの主となられた御子にして、救い主であられるイエス・キリストの父なる神であり、御子の中にあるものとして、わたしたちの父となられた神であられます。5節において、「イエス・キリストにおいて神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」、といって、そのことが永遠の計画の中でなされている神の恵みが語られています。このような素晴らしい御業を行われる恵みの神を、父と呼べる幸い、喜びを全身で感じて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と、わたしたちは告白するのであります。

そして次に、神は、命と祝福の源であり、御子キリストと一致して、天にあるあらゆる祝福で満たしてくださる方であることが告白されています。

ここで先ず覚えたいことは、神が私たちに与えてくださる祝福は、「霊的」なものであるということです。「霊的」という意味は、神の働き、力が霊的であるということです。物質に対する精神と言うような意味で用いられているのではありません。

そして、「天の」と言われていますが、元のギリシャ語はエプーラニオイスという語です。ギリシャ語には「天」を表すウラノスという言葉が別にありますが、この「エプーラニオイス」という語は、エフェソ書だけに出てくる独特の用法です。「天の上にある」とか「天の間にある」という意味です。つまりこの語において、天上の神の霊的祝福は、地上的な空間を超えた神の住まわれるところにあるという事が言われているのです。この表現は、この手紙において表明されている宇宙像・世界像と密接に結びついたものです。ユダヤ人は天上とは霊力の支配するところと理解していました。パウロもそのようなユダヤ人的な宇宙像・世界像に立ってこの手紙を書いています。

2章2節では、キリスト者となる前の人間を、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました」と表現されて、この空中に勢力を持つ霊は、今も働いているということが述べられています。天上には神以外の霊力が働いていて、わたしたちの戦いは、「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(6章12節)。キリスト者の戦いは、目に見えない悪の諸霊の支配との間でなされます。この悪の霊の力を侮ることはできません。パウロはそれを、「不従順な者たちの内に今も働く霊」となって現れるものであると述べています。

しかし、4章10節には、天上におられた御子キリストは、すべてのものを満たすために下りてこられた方となられたが、ふたたび諸々の天を貫いて、諸々の天よりも更に高く昇られたと言われています。そして、1章20節には、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」といわれています。諸々の霊が支配する空間を貫いて下ってこられた方は、神の力によって死者の中から復活させられて、また諸天を貫いて昇られ、天上において神の右の座に着かれて、天上の神以外の、全ての支配、権威、勢力、主権を超える方としてあらゆる名に勝る支配をしておられます。ですから、この世界に生きる人間、キリスト信徒も、空中に勢力を持つ霊の力に束縛され、今なおうめき苦しめられますが(2章2節)、わたしたちの父なる神は、「わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいます」(1章3節)。

神が与えてくださる祝福は、地上にある朽ちるもの、また諸々の霊の力によって破壊されるようなものではありません。それは、天上にある霊的な祝福です。その祝福は、諸々の霊の力に勝利されて、復活し昇天された「キリストにおいて」もたらされ、満たされるものであります。それゆえ、この祝福は失われたり、欠けたりすることがありません。

「褒め称える」も「祝福する」も、ギリシャ語では同じユーロゲオーという語が用いられます。その語根「ユーロゲ」は、「良き言葉」という意味があります。神の祝福は、それを受けた者に感謝に満ちた賞賛を引き起こします。神の祝福は、わたしたちには「良き言葉」であり、福音「喜びの知らせ」です。神がキリストにおいて、天上の霊的な恵みで満たしたくださるという言葉に勝る「良き言葉」はほかにありません。