詩編講解

63.詩編147編『主は打ち砕かれた心を癒される』

この詩編は三つの部分から成っています。それぞれ初めに神を褒め称えよと要請する言葉で始められています。この詩編の思想はきちんと整理されていませんが、二つの主題をめぐって展開され、繰り返しそこに戻ってきます。二つの主題とは、神の力と憐れみに富む恩恵です。そして、この二つの主題は、創造と選びの中に示されています。この二つの主題こそは、実は旧約聖書の礼拝伝承の核となる基本主題でありました。

創造と摂理に表される神の力と恵み、そして、イスラエルの選びにおいて示される憐れみに富む恩恵こそ、礼拝する者が心から賛美しなければならない理由として要請されています。礼拝する者は、賛美において神の力と恵みをさらに深く覚えることができる、そこに選びの民の真の信仰の姿がありました。

2節と13節のエルサレムの再建とイスラエルから追放された者の招集が、捕囚からの解放をさすのか、ネヘミヤの城壁建築と解すべきかは、確実なことはこの詩の内容からは言えません。だからこの詩の正確な年代を決定することは不可能です。

この詩の第一部は1-6節です。この部分は慰めの性格を持ち、明らかに一つの困難な状況を前提しています。詩人は、「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく 神への賛美はいかに美しいことか」と歌い、その賛美を始めています。なぜ神は賛美されるべきか、その理由を、主がエルサレムを再建し、追いやられた人々を集め、打ち砕かれた心の人々を癒し、貧しい人々を励まし、主に逆らう者を打ち倒される、ことを挙げています。この主への賛美の背後には、神の審きへの待望があります。神が審きにおいて義を貫かれることへの待望があります。神の審きとは、神に真実な者には助けと救いがある、しかし、神なき者には終りがあることを意味しています。この審きを期待する信仰は、捕囚の苦しみを体験した民が異国で見た星の輝きがエルサレムで見た星の輝きと違わないことを思い、その星を造られた主が全世界の創造者であり、この神こそ力と英知に満ちた業と配慮によって民を覚え、救いへと導かれるのだという、神の憐れみに対する信頼に基礎付けられています。

星をその名で呼出して出現させられるお方は、また御自分の民をそのように覚え、あらゆる障碍を乗り越えて恵みを持って助けようとの御心を実現する十分な力と知恵を持っておられる、というゆるぎない信仰が告白されています。

あの広大な宇宙にちりばめられた星をその名を持って呼び出し出現される神は、今や打ち砕かれた人々の心を癒しその傷を包み込み、抱きかかえて、救われるというのです。貧しい虐げられる魂一人一人を覚えて、その名を呼ばれる神を賛美する喜びを詩人は先ずこのように歌います。

そして、7-11節の第二部において、感謝が歌われます。それは、豊穣を約束する主の祝福への感謝の形をとっていますが、感謝の本当のねらいは人間的な利己的な考えにあるのではなく、神の深い配慮と愛に眼差しを向けることにあります。神は野の獣や烏にさえ食べ物を与え配慮を与えられる。そして、主は人間の外的な能力や器用さ力を喜ばれず、心から主を畏れ主の慈しみを待ち望む人を喜び給う神をたたえます。それが以下のように歌われています。

主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人
主の慈しみを待ち望む人。(10,11節)

この詩人は、神が本当に喜ばれる者を知っています。そこに間違った神への期待を抱くことなく、自然世界に表されるまことに小さな神の恵みの配慮にも、繊細な心で喜びを感じる感受性を豊かに育む秘密がありました。

馬の多さや足の早い壮健さを誇ろうとするのは、愚かな利己心からで、そこには主の慈しみを期待し主を畏れる信仰から遠ざかる「主に逆らう者」の愚に対する鋭い批判の目があります。しかし、その批判は他人に向けられるのではなく、自らのあり方を考えて行こうとするところに、この詩の本当の価値があります。

そして、第三部の12-20節は、神の町エルサレムへと向けられています。エルサレムが主を賛美することが求められるのは、神の恵み守り平和がその中に住む者に向けられているからです。神の恵みの選びに目を向けることこそ、エルサレムが神を賛美しなければならない最大の理由です。しかし、このエルサレムは神を真に崇めようとする者を救おうとされる神の言葉と意思が表される場所でもありました。だからここでは、選びと同時に神の言葉と意思に聞く民としてのあり方が同時に求められる場所であることが明らかにされています。

主の言葉は15-18節において賛美の対象とされています。しかし、この主の言葉こそ根本において創造の力を意味するものとして賛美の対象とされています。神の言葉こそ自然と歴史を造るものにほかならないからです。

神は選びの民に御言葉を与え、掟と審きを告げられます。そして、この民は神の審きと救いの歴史において特別な価値と意義を担っています。イスラエルは神の選びに与かることによって神の前に、より高い義務と責任を負わされることを意味していました。預言者アモスは3章2節において、イスラエルの審きの根拠をそこにおいてそれを告げています。主は多く与えられている者からは、多く要求されるのです。それを重荷と見るか恵みと見るか、そのこと自体が信仰として問われている。しかし、主の御心は裁くことにあるのではない。恵みに与からせようとして、御言葉を降り注いでくださっている、その恵みそのものに目を向けて生きることを私たちに求められています。このように恵み深くある神に感謝、ハレルヤです。

旧約聖書講解