詩編講解

48.詩編123編『主に目を注ぎ』

この詩編は、祈りについての一つの指標を与えてくれます。

この詩篇の祈りは、ひとりの信仰者が民族の危機に際し、民全体のためにした祈りです。この詩篇の詩人は、民のとりなし役を担っています。3-4節から、民はすでに久しく高慢な敵=反対者の蔑視と冷笑にさらされていたと思われます。この詩の背景にある事柄は、普通、捕囚後の時代、ペルシャの統治下に民が受けた迫害と理解されていますが、自国内部での対立による艱難と解することもできます。

いずれにせよ、この祈り手は、現在、抑圧された困難な状況に置かれていました。その中で、祈り手は、天にいます方に目を注いでいます。この詩人は、祈りから行為が始まるものであることをわたしたちに教えています。詩人は天にいます方に目を注ぎ、人間の無力と天の王なる神の偉大な力との途方もない落差、違いを感じています。しかし彼は、それによって落胆しているのではありません。主の力に望みを置き、その力にのみ頼っているのです。この詩人の言葉には、謙虚な忍従の態度が表されていますが、同時に神に対する強い信頼も表されています。この祈り手は、誰に祈っているか知っています。神は漠然とした人の願望の中にしか存在しない方ではありません。神は彼のすべての現実を知り、唯一彼を助けることのできるお方である、これが彼の信仰でありました。祈りにはこの信仰が必要であることをまた詩人は教えています。

この信仰によって、彼は神の前でどのような態度を取るべきか知っていました。ここで表明されている彼の願いは個人的な願いでありません。彼は、神との出会いを切に待ち望む祈りの友との交わりの中にいました。

共通の艱難という基盤の上に、神の前で会衆を一つに結び付けているものを、この詩人は、単純で印象的なたとえをもって語っています。奴隷たちの目はいつも主人の手に注がれています。奴隷女たちの目も女主人の手に注がれています。主人たちの手に向けられる様に、苦難の中にある彼らの目は、主なる神に注がれている、とこの詩人は告白しています。奴隷の場合、その目は、厳しい主人の罰をおそれて震えたり、憐れみのしるしを、おどおどしながら待ち望みつつ、主人の手に注がれています。

しかし、この詩人が主に注ぐ目は、その様な僕の目とは全く異なります。そこには畏怖に満ちた内気さはあっても、彼の忍従と謙遜さの態度は、主なる神の卓越した意志と力とにまったく信頼し、依存しています。そして、彼は主なる神が自分たちを父親のような配慮をもって包んでくださることを信じ、その愛に対するゆるぎない信頼と希望に満ちた目で、その御手に目を注いでいます。

主なる神を、卓越した方として畏怖する態度と、父親のような配慮を持って包んでくださるお方であるという信頼のもとでの慕い求めの態度、この二つの要素が彼の祈りの態度を作り出しています。

畏怖を伴う内気さは、厚かましく乞い願うことによって全能なる神に近づきすぎることを防ぎます。しかし、神への人なつっこい信頼を持ち、その愛のうちに自らの困難を委ねることによって、祈りは、はじめて希望ある待ち望みの行為となります。

従って、神が現れ、臨み、憐れんでくださる瞬間を待つということは、人間的な願望を前面に押し出すことではなく、それは、熱い願いを抱きつつも、忍耐深く慎ましく神を待ち望むことを意味します。神に栄光を帰し、神の憐れみにすべてを委ねることを意味します。

彼が主に恵みを求めるのは、主がそれまで民に恵みを与えなかったからではありません。その反対です。彼の神理解は、常に人間の事柄への神の恵みの介入として捉えられています。

この詩人が、神と民との関係を、奴隷と主人のたとえをもって語るのは、ただ一つの点を強調するためです。如何に自分が注意深い態度で主の御手に目を注いでいるか、ということを強調したいためです。

詩人は奴隷を冷徹な態度で扱う主人に目を注いでいるのではありません。恵みを持って憐れみを施す主なる神に信頼を寄せて目を注いでいるのであります。しかし彼は、その様な信頼の下で神の僕として、「主よ、わたしたちを憐れんでください」と祈っているのであります。この詩人は、このように神にのみ隷従することによって、あらゆる人間的力から自由となり、圧迫と蔑視から自由になることができたのであります。

それゆえ、詩人にとって、神に目を向けることだけが、現在の暗さの中で照らす唯一の光でありました。そして彼が、今や神の前に、蔑視を耐え忍ぶ人間的な忍耐の時は終わったと告白する時、苦い嘆きの言葉を越えて、その心から神への信頼に満ちた人なつっこさのかすかな光が差し込んでくるのを感じています。この神への信頼に満ちた人なつっこさ、眼差しこそ、率直かつ真実な敬虔な祈りを導き出すものであることを、この詩人はわたしたちに教えてくれています。そして、そのような神への信頼の中で、神の御手に目を注ぎ祈る者に、神もまたその者の現実に目を注いでいてくださり、その恵みの力で救いの手を差し伸べてくださることを確信する信仰が与えられることを教えています。その方法は何であるか、救いがいつ訪れるかはわからなくても、この御手による救いを信じる信仰によってわたしたちは真の平安を得ることができるということを、この詩篇から教えられるのです。

旧約聖書講解