イザヤ書講解

11.イザヤ書8章1-23節『主をのみ畏れ、主を持ち望め』

8章は、紀元前735年に勃発したシリヤ・エフライム戦争を歴史的背景とする7章と時代的にも内容的にも連続しています。

シリヤと北イスラエルの反アッシリア同盟軍の来襲にうろたえ、アハズ王は、彼らの敵であるアッシリアに援助を求めてこの難局を乗り越えようとしました。イザヤは、アハズ王に、ただ主にのみ信頼せよと語りました、アハズは、その助言を退け、アッシリアに助けを求めました。ティグラテ・ピレセルは即刻北イスラエルを攻撃し、完全に滅亡させるには到りませんでしたが、732年にはシリヤの都ダマスコを陥れ、レツィン滅ぼしてしまいました(列王下16:9)。アハズの政策は一旦成功し、正しかったかに見えました。しかし、ユダはアッシリアの力と支配の前に屈伏し、多額の貢物を収めなければならなくなり、都エルサレムには異教の偶像崇拝の祭壇を持ち込まざるを得ない、従属国の地位に転落してしまいました(列王下16:10以下)。8章の預言は、このような事情を考慮に入れて始めて理解できます。

イザヤは二つの象徴行為によってアハズ王に来るべき主の裁きを明らかにするよう命じられました。この象徴行為は、イスラエルとアラムが間もなく攻略される啓示としての意味を持っています。一つは、土地権利証書に消えない字で「マヘル・シャラル・ハシュ・バズ」と書く象徴行為でありました。もう一つは、女預言者に近づいて男の子を生み、その名を生れた子につけることによって、その子の存在がイザヤの預言の真実なことの生き徴しとなりました。マヘル・シャラル・ハシュ・バズという名は「分捕り物は素早く、略奪は速やかに来る。」という意味を持っていました。

その名を、生まれてくる子に付けるようイザヤは命じられました。イザヤの預言はアハズによって無視されましたが、主は、この預言の真実を証するために、記録に留めるようイザヤに命じました。これは、神がイスラエルとダマスコの所有と略奪の権利をアッシリアの征服者に与えるということを証明する意味を持っていました。後にイザヤが書き変えたという非難を受けないように、イザヤは、信頼されされている二人の証人の下で、それを記入しました(2節)。こうしてイザヤの預言の真実さは、記録のうえで明白にされることになりました。

イザヤは主の命令に従い、女預言者に近づいてを生まれた子が、イザヤの預言の真実を証するしるしとなりますが、この子が「お父さん、お母さん」と呼べるようになるまでに、ダマスコとサマリヤはアッシリアによって滅ぼされることことが明らかにされます(4節)。神に信頼しない人間の愚かな計画や知恵が一時的に繁栄し、上手く行くことがあっても、最後は、破局へと向かいます。ユダの審判に先立ってシリヤ・エフライム連合軍の審判を語ることは、悔い改めへの招きの意味がありました。しかし、イザヤの使信を拒み続けるアハズ王とユダの将来も絶望的です。

5節以下にユダへの警告が語られています。

「この民」とは、ユダのことです。ここで「わが民」と言われないで、「この民」と言われているのが、「インマヌエル」への言及と対照して興味深い点です。主の御声に聞き従わない民を、もはや「わが民」と主は言われません。

ユダの民は、ダマスコのレツィンとイスラエルのペカに対する怖じ気から、「ゆるやかに流れるシロアの水を拒んだ」(6節)、と非難されています。「シロアの水」とは、神の都シオンの丘を東西に流れる地下水道のことです。これは7節の「大河の激流」と対になっています。ここで描写されていますのは、祖国の水と外国の水との対立です。それは、祖国の真の神、主により頼むか、それともアッシリアの大王により頼むかという決断において、民が誤ったということです。

イザヤは、ユダがアッシリアの保護を求めることによって、かえって大きな国の破滅に到ることをこの表現を用いて、比喩的に語っています。それは丁度、ユーフラテス川の勢いよく流れる水がユダの国を水浸しにして覆ってしまうことを予見する言葉です。王も民も、神の保護を求めなかったので、このように外国の手によって神に罰されることに気付くであろうと語られています。

そして、川の比喩は突然終わって、鳥の比喩に変わります。鳥は、アッシリアの軍隊を表します。軍隊の攻撃の前に国中何処にも、逃げ場がないという意味です。「インマヌエルよ」という呼び掛けは、7章10-17節で言われたことを想起させる意図が含まれた言葉です。シリヤとエフライムの降伏によって平和な時代がはじまると期待していたのに、ダビデ王家に対する主の警告と審判が依然として続いていることに対する、主の嘆きのよびかけです。

しかしこの警告の言葉が、イザヤによって、聞き手である民に直接の呼び掛けられていないことは注目に値します。主のみ声に聞き従わない「この民」に、イザヤは安易に「インマヌエル」(神がわたしたちと共におられる)と語ることができません。しかしなお、イザヤはインマヌエルの神に望みを置きます。預言者は、この民の名を呼ぶことさえはばかりたくなる状況が、そこにありました。しかし、そこにも「インマヌエル」の言葉が必要とされています。預言者はぎりぎりの状況で自らの信仰を問いつつ、神への信頼を込めて、インマヌエルの名を口にしています。御言葉の厳しさの前にもう一度民を立たせ、悔い改めへと導くために、預言者は苦難を共にする覚悟でインマヌエルの名を呼びもとめています。

アラムとイスラエルの連合軍は、アッシリアに滅ぼされることが、9-10節において明らかにされています。その脅威は、南のユダ王国にも達します(8節)。しかし、アッシリアの破壊は現在のところ、ユダに徹底した破壊に到らせるという目標は達成できないと、イザヤは断言しています。イザヤはアッシリアをユダの懲らしめの笞と理解しますが、ユダの破壊のための道具とは考えていないからです(10章5節)。

インマヌエルの神として、神がその民と共にるのであるなら、神を恐れる人々にとっては、国の敵たちの陰謀に驚き恐れる理由はないことが、10節後半に語られています。この歌には、詩篇46・48・76篇に見られる神の都の不滅への信念があると言われていますが、人間の計画やはかりごとは神の計画と意図に叶うものだけが達成するという信仰に結び付けられて正しく理解されるなら、「神が、私たちとともにおられる」という使信が魔術的な効果のある救済の保証として理解は誤りであることを明らかにします。

神の救いの究極目標は、ご自分の民との交わりを保つことにあります。しかし神は罪を曖昧に見過ごして、その民との交わりに入られません。神は罪を審き、しかるのちにその救いを実現なさるお方です。 私たちの神との交わりの実現のために、何故、主イエスの十字架が無ければならなかったのかも、この事を抜きにして語れません。

11-15節全体がイザヤの預言者としての告白という性格を帯びています。内容から言えば、この部分は警告と威嚇の語り掛けに満ちています。イザヤは、自身に不動の平安が与えられたことを語りつつ、他方で、王の宮廷と民は、アラムとイスラエルとがダビデ王家を敵として同盟を結んだため、深刻な動揺に襲われていることを語ります。

12節の複数の人への呼び掛けは、この時イザヤに従うようになった弟子の一団に対してなされたものです。この一団の人々が「この民」と対置されています。この民とは、南ユダの人々一般を指しています。ユダの民は、アラムとイスラエルとがダビデ王家を敵として同盟を結んだ現在の状況を、避けがたい危機的状況と感じ、この危機を回避する最善の道はアッシリアの大王の助けを借りることであると判断していました。

しかし、主(ヤハウエ)を真の神として信じている人々の集団は、神が王家と民に与えた約束が真実のものであることを信じるが故に、民と共にその誤った道を歩むことは許されない、とイザヤは語ります。真の主の民は、主があらゆる事態においても不可能を可能に導く方であり、歴史の導き手であることを忘れてはなりません。また、主は、ご自身を信頼せず、人間を恐れる者たちに、本当に救いなき狼狽の中へと陥れられるお方であるということを、忘れてはなりません。

神を恐れる者は、ご自身の意志が守られているかどうか、この歴史の中で、ご自分で見張っておられる生ける方として、神を心に留めます。

それ故、南王国の本来の危機は、同盟者たちの目論見によってもたらされたのでなければ、南王国に味方するアッシリアの目論見によってもたらされるのでもありません。審く神がたえず近くにおられるということを忘れてしまうことにあります。信ずる者にとっては、神はどんな危険な状態にあっても逃れ場となる堅固な岩であります。しかし、背く者にとっては、神は、つまずきの岩であり、破滅の石でしかありません。

それ故イザヤは、「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(13節)と語ります。

神に信頼せず、人間的な方策で訪れる危機を一時的に避難しようとするあらゆる試みは、思い掛けず神の審きに遇うことになります。それ故、信仰を欠いた民が危機を自分の手でいくら取り除こうと努力しても、自らますます困惑すべき事態に陥り、莫大な数の死者や捕虜を生じることになると、イザヤは語ります。

ここで、イザヤが「すべての者」ではなく、「多くの者」が躓くといっていることに注目したく思います。イザヤは、この事態を神の決定による宿命として語りません。人間の側の応答責任を問う事柄がここにあることを明らかにしています。「多くの者」が不信仰を表明します。しかし、全ての者ではありません。たとえ僅かであっても「残りの者」が残ることが示唆されています。ここに、イザヤの使信の中に慰めを見出すことが出来ます。

しかし、イザヤの勧告は、アハズとユダの民によって受け入れられませんでした。アッシリアの来襲もイザヤの預言に反して事実とはなりませんでした。イザヤは人々の嘲笑の的になり、イザヤは預言者としての活動をひとまず終え、暫く沈黙の待望生活に入ります。

イザヤは、この啓示の言葉を弟子たちに伝えました(16節)。そして、将来のために記録することによって、聖なる残りの者を準備致します。この残りの者達は、破局の中でも生き延び、神を認めるはずです。

イザヤは、土地権利証を祭司ウリヤとエベレクヤの子ゼカリヤの立会いの下で作成し(1-4節)、イザヤの書物は弟子たちの立会いの下で包み封印されました(16節)。巻物は麻布で包み封印され、それを粘土の土器に入れられ、容器の口をやはり粘土の蓋で封じられました。神の啓示の言葉としてのテウーダー(厳かに告げられた戒め、証言)は、神の聖なる意志としてのトーラー(教え)を聞こうとしない王と民の直中にあって、その語り伝える内容が、将来、神によって正当化されることを信じ、それを弟子たちに託すことによって、真のイスラエルを育成しようとするイザヤの強い決意が伺えます。

この告白の中にあるイザヤの嘆きの低音を聞き逃してはなりません。「わたしは主を待ち望む。」(17節)嘆き悲しみつつ祈る者のように、イザヤは、己が民から顔を背け、民を審きに引き渡した神がまた介入して、イザヤが語った言葉を確証してくれるのだと語ります。

「待つ」および「待ち望む」を表すヘブル語は本来ぴんと張った緊張状態を指す言葉です。待望とは、将来の生活の可能性を、緊張しつつ期待することであり、これが当の人間を内面的に引き締めることになります。もっとも、イザヤの期待は、彼自身の将来のことではなく、第一に、神の審きの預言、第二に、彼の民の将来に関することでありました。イザヤがその審きの使信の内容がそのとおり実現することを待つとき、そこには、後の日に破局を免れた人たちがイザヤの預言の正しさを納得し、その故に神へ立ち帰るであろうという希望が含まれています。

裁判の公判における証人のように、イザヤは自分自身とその子達とともに、神の言葉の真実なることを証します。18節の「見よ。わたしと・・」は、6章8節の「見よ、ここに、わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」という言葉とが、意識的に対置されています。

イザヤは、神の言葉が真実であることを知っています。召命の日に、自己を神の使者として用立てたように、今度は、子供たちと共に、自己の存在を生ける言葉そのものとして、民の直中に立っています。シェアル・ヤシュブとマヘル・シャラル・ハシュ・バズという子供たちの意味深長な名は、誰にもよく知られています。それらの名は、迫り来るイスラエルとダマスコの滅亡、ユダに対する来るべき神の審判と、残りの者とを指し示しています。

イザヤは、自分に、これらの子を与え、その名をつけるよう命じた神が決して見捨てはしないと確信して、御自身の言葉と行為に責任持ち、シオンの山の神殿に審判者として現れる主を、指し示します。イザヤが告げるメッセージの中心にあるのは、人間の罪にもかかわらず、この歴史を支配し救いうる「万軍の主をのみ、聖なる方」(8章13節)とすることです。それゆえ、陰謀をもって事態を切り開く道は、主によって滅ぼされるほかはないということです。だから「落ち着いて、静かにしなさい。」(7章4節)「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(同9節)「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(同10節)と、イザヤは語ります。この信仰を持つもの共に「神がわれらと共におられる(インマヌエル)」(8章10節)という救いが明らかにされます。それはしかし、今は約束としてしか語られていません。そこに信仰が求められる理由があります。そしてイザヤは、次の言葉を持って、その信仰の何たるかを結論づけています。

まことに、イスラエルの聖なる方
わが主なる神は、こう言われた。
「お前たちは、立ち帰って
静かにしているならば救われる。
安らかに信頼していることにこそ力がある」と。(イザヤ書30章15節)

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