イザヤ書講解

序(イザヤ書1:1)

1.旧約聖書正典における位置

ヘブル語聖書は、律法(トーラー)、預言者(ネビイーム)、諸書(ケトゥビーム)に分類されます。第二の分類に属する預言者は、さらに「前の預言者」(ヨシュア記、士師記、サムエル記上下、列王記上下)と「後の預言者」(イザヤ、エレミヤ、エゼキエルの三大預言書と12の小預言者からなる)に分類され、イザヤ書は「後の預言者」の最初に置かれています。この点から見ても非常に重要な位置をしめていることが判ります。

イザヤ書は、預言書の中でも新約聖書において最もよく引用されています。福音書では25回、特にマタイ福音書は11回引用されています。パウロ書簡には27回も引用されています。新約聖書全体では65回引用され、特にメシア預言と見なされる言葉が多く含まれています。

2.イザヤ書の構成

イザヤ書は、18世紀になるまで、その66章のすべてを紀元前8世紀後半にエルサレムで活動したアモツの子イザヤが書いたと信じられてきましたが、39章までと40章からの使信の時代背景の違い、文体の違い、について疑問が投げかけられ、別の著者によって書かれたのではないかという主張が表れるようになりました。

そして、ベルンハルト・ドゥームが、イザヤ書注解(1892年)を著して以来、イザヤ書を1-39章、40-55章、56-66章の三つの部分に分類するのが旧約聖書学の一つの常識となっています。学者はそれぞれの著者を、あくまでも学問上の仮定として、第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼んで分類しています。

第1の部分の内、イザヤ書1-35章の主要な著者をアモツの子イザヤとすることについては聖書学者の間で意見は一致していますが、イザヤ書36-39章は、内容的に列王記下18章13節-20章19節とほとんど一致していますので、この4つの章は、列王記から取られたものと見なす人が多数います。アモツの子イザヤの預言者としての活動は、前740年から約40年余に及ぶものと考えられます。この第一の部分は、この時代に活動したイザヤの預言とその活動についての記事がその主要部分をなしていると考えられます。

イザヤ書1-35章の構成は次のとおりです。

1-12章には、イスラエルとユダについてのイザヤ自身の預言が記されています。

13-23章には、諸国民についての言葉が収められています。この部分は、比較的僅かな部分だけがイザヤに由来し、特に13-21章は、バビロン滅亡が待望されていますので、イザヤのものでないとされています。預言者はその時代にあって、その時代の民に語るのを旨とするのであれば、アッシリアがオリエントを支配する強大勢力であったイザヤの時代と矛盾するからです。そのことは、この部分の預言の価値が低いということを意味するものではありません。

24-27章は、「イザヤの黙示録」と呼ばれています。しかしこの部分には、イザヤ的要素は見られません。個々の個所が捕囚後の時代に属しています。

28-32章は、再びイスラエルとユダに関して記されています。この時代の背景にあるものは、ヒゼキヤのアッシリアに対する反抗と、センナケリブによる前701年のエルサレム包囲を含むユダへの侵攻の時代です。

33-35章には、来るべき崩壊と、そしてその中にダビデ(33:17)とシオン(33:20)、諸国民の引き返し、そしてご自分の民の最終的帰還に対する神の特別な注意が描かれています。

第二の部分、即ち40-55章は紀元前550年頃から539年頃、即ちペルシャ王キュロスの台頭から、バビロン入城、前538年の捕囚終了宣言までに活躍した、無名の預言者(学者は、この人物を第二イザヤと呼んでいる)によって記されたと見なされています。

第二イザヤの編集者は、恐らく、捕囚が終わってからエルサレムで仕事をしたと見なされています。この預言者と編集者は、バビロン捕囚とその終焉を、以前の預言の成就と見ています。第二イザヤは、アモツの子イザヤの預言を「先の事」として言及しています。捕囚と、間もなく来るであろう預言の成就は「最後の」または「後の事」でありますが、それはイスラエルに新しい時代の到来を告げるゆえに、「新しい事」として言及されます。

第二イザヤは、さらに40-48章と49-55章に分けることができます。

第二イザヤの前半を貫く主題は、「新しい出エジプトとして、また新しい創造としての、バビロンからの解放」です。

後半(49-55章)の主題は、「シオンへの慰めと回復、さらに諸国への光となるべき新しい使命」と言うことができます。第二イザヤには四つの僕の歌(42:1-4,49:1-6,50:4-9,52:13-53:12)が収められています。

第三イザヤ(56-66章)は、主題と時代に関しては第二イザヤに近いが、構成の点では異なっています。これを記したのは無名の著者ですが、この部分は典礼における朗読を意図した、文書として構成された預言です。第三イザヤは、第二イザヤの主題の上に構築されており、著者の時代状況にそれらの主題を当てはめています。第三イザヤは、第二イザヤの弟子であると考えられていますが、紀元前538年に始る捕囚からの帰還後の混乱期に書かれたものと思われます。

60-62章は、第三イザヤの核心部分で、将来の回復されたシオンを、よみがえったヤハウエの僕と見ます。

このように、エルサレムで活動していたアモツの子イザヤの召命(前740年ごろ)から数えて、第三イザヤの時代(前520年ごろ)に至るまで、イザヤ書が扱う時代は、200年以上の時が経過しています。

3.アモツの子イザヤの人物像と歴史的枠組み

アモツの子イザヤは、紀元前765年ごろに生まれたと思われる。イザヤの名の意味は「主は救い」または「主は救いを与えたもう」です。父がアモツであるとされていますが(1:1)、アモツが誰であるかについての情報は聖書にはありません。イザヤの家系は、ユダ王国の貴族で、エルサレムまたはその近郊に暮らしていたと思われます。このことは、イザヤがユダの王及びその宮廷に容易に接触しえたことと深い関係があります。

イザヤは、ユダの一員でありましたが、明確な仕方においては自分をエルサレムの住民と理解していました。イザヤは預言の中で「イスラエル」という時、それはたいてい北の兄弟国のことではなく、宗教的文化的共同体、即ちヤハウエの民としてのイスラエルのことを考えています。

彼はもっぱら「残されている者」「シオンの娘」に目を向けています。イザヤ自身が語るところでは、ユダの前にエルサレムの名が挙げられます。イザヤは自分を部族の一員としてでなく、都市の一員として理解していました。エルサレムは、ダビデの征服によって、ユダの所領となりましたが、エルサレムは、ダビデとその子孫の「王領」であり、彼らは以前の支配者であるエブス人の王たちと同じ法律で町を支配していました。

王国はソロモン以後に分裂します。イザヤの生きた時代は、それ以来200年経っているにもかかわらず、イザヤは精神的に北の兄弟国と結びつきを感じ、そこから生じる責任を感じていました。しかしイスラエルは、イザヤの活動中に滅亡しまた。このことはヤハウエ信仰に様々な結果をもたらしました。

以前の北王国の住民はもはやヤハウエ信仰を積極的には主張しえなくなりました。にもかかわらずイザヤにとって、ヤハウエ信仰の担い手は「イスラエル」であり続けました。しかしこの時以来、初めてその信仰の中心は、エルサレムあるいは、イザヤのいうシオンとなります。シオンの山に、ダビデの家があり、その王朝はヤハウエの約束、つまりダビデに約束された恵み(55:3)と密接に結びつき、その王朝を通してヤハウエは民を支配したからであります。シオンに、ヤハウエの聖所が立ち、イスラエルの信仰的確信はシオンに結びつき、未来への希望はシオンと関係していました。エルサレムはその境界に神の山シオンがあるゆえに重要なのです。

エルサレムは、元来、カナンの町で、ダビデの征服後、最初はその上層部、即ち王室、その側近、軍事的指導者、政治権力を持つグループだけがユダヤ人でありました。そして彼らは同時にヤハウエ信奉者でありました。それに対して住民は、以前と変わりなく彼らの精神的遺産を愛し、その固有の信仰を保っていました。文化的にはカナン人の方が、荒野からやって来た移住者イスラエルを凌駕していました。ソロモン時代に、エルサレムに住むユダの人々は、そこに根付いた文化の中へ広がっていきました。ソロモンの宮廷は古いユダの氏族法に対応しない別の原理で支配されていました。このことがエルサレムを含むその地方の住民の不満の主要原因となりました。そしてそれは、アブサロムの反乱において爆発することになりました。

イザヤ以前の預言者アモスやミカは、エルサレムに対する精神的抵抗感を激しく発しました。カナン文化は、イスラエルに対し、文書をもたらし、その言語に強い影響を与えました。また農耕を経験させ、一連の広範な都市生活様式を伝えました。カナンにおいて、イスラエルは初めて文化民族となりました。イスラエルもカナンの祭儀を相当程度受け継いだと予想されます。しかしイスラエルはそうしなかったのですが、宗教的カナン化の危険はいたるところにありました。ホセアのバアル化に反対する抵抗は、その問題の根深さを示しています。

ソロモンによる神殿建設は、カナンの聖所が立っていたところになされ、最初、エルサレム神殿はダビデ王朝の私的神殿でありましたが、やがてエルサレムと神殿は、ヤハウエ信仰とカナン文化及び宗教との集中的出会いの場となりました。それは同時に信仰の危機を内包していましたが、イスラエルのヤハウエ観に新しい次元をもたらすことになりました。

神殿祭儀、礼拝場所の集中化は、一方でイスラエルの同一性に寄与しましたが、同時に、信仰の祭儀主義、立法主義化の温床にもなりました。イザヤの批判はこの点に集中しています。真の神への献身と依存、信じることの大切さを、イザヤは語りました。7章9節「信じなければあなたがたは確かにされない」、30章15節「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」というメッセージは、イザヤのもっも強く主張するイスラエルの信仰のあり方を示しています。

イザヤの妻は「女預言者」(8:3)で、イザヤには、シェアル・ヤシャブとマヘル・シャラル・ハシュバズという預言者的な名をつけた二人の息子がいました。この二人は、父同様イスラエルのしるしとなり兆しとなるよう定められました。1章1節によると、イザヤはユダの王ウジヤ(アザリヤ)、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤという四人の王の治世に活動したとされています。6章1節によると、預言者としてのイザヤの召命は、紀元前740年ごろで、ウジヤの治世最後の年でありました。その預言活動の終わりは、恐らく前687年に死んだヒゼキヤの治世下、またはその末期であろうといわれています。

イザヤ書1-39章の託宣の重要な特筆すべき歴史的背景及び政治的出来事は、次の三つです。

①南ユダに向かって、北イスラエル王国が隣国アラムと共に攻めて来た、前734-732年ごろに起こったシリア・エフライム戦争(7-8章)。

②エジプトの扇動による、新興勢力アッシリアに対するユダの反乱と、エジプトのユダ援助の不履行(19、31章、30章1-5節)。

③ヒゼキヤ時代のアッシリアによるユダ侵略(36-39章、列下18-20章)。

これら三つの事件の背後には次の二つの要因が存在します。

第一の要因は、イザヤ時代以前に遡る、前931年のソロモンの死後、神の民が二つの王国に分裂したことにあります。理想的な王ダビデ統治下の統一王国は、近隣諸国に対して極めて強力な支配力を振るいましたが(サムエル下8章)、分裂した王国は近隣諸国に比べて弱小となり、イスラエルはアッシリアによって滅ぼされ(前722年)、ユダはバビロンによって滅ぼされます(前586年)。

第二の要因は、イスラエルの時代の新興勢力アッシリアです。アッシリアは、前732年にダマスコに都を置くアラム王国を、前722年には北イスラエル王国を滅ぼし、アハズ治下のユダは、アッシリアの属国となります。ヒゼキヤの治世下、701年、アッシリアの王センナケリブによって46の防備ある町が奪われた後、唯一エルサレムは占領を免れましたが、イザヤの預言どおりアッシリアにより破壊されるに至りました(イザヤ39:5-8)。

4.イザヤ書の主題

イザヤ書の主題を次のように分類することができます。

①第一イザヤ

来るべき、ダビデのような理想的な王の到来(特に9章と11章)、しかし、その王は反抗的なイスラエルと偶像礼拝を行う諸国に対する裁きの後に、初めて到来する。

②第二イザヤ

イスラエルを贖うため、また諸国の光となるために遣わされるヤハウエの僕、しかし僕は苦しみによって使命を果たす。

③第三イザヤ

万民の宗教的中心は輝かしい新しいエルサレム/シオン、しかし改宗しない諸国と、イスラエルの不真実なものは裁かれる。

しかしこの三つの部分を貫きまとめているイザヤ書の重要な主題は、イスラエルの神ヤハウエが万民の神であり(10:5-15、第二イザヤのキュロスへの託宣)、先に告げたことを実現し、歴史を導く神です。このような神は、他にない(イザヤ44:6、45:5-6)。他の神々は無(人間の作り出した偶像)である、というものです。

5.イザヤの神観

①ヤハウエという神名

イザヤにとってヤハウエの神以外は問題ではない。イザヤの神は、イスラエルを選び、その主人としてイスラエルに出会った神です。その神は思弁的思考において存在する神ではありません。イザヤの思考は、ヤハウエ信仰に深く根ざしています。イザヤの育った環境の中には、多くの文化的領域、言語、国家制度、経済、社会生活様式、さらに宗教的概念の領域においてもカナン的遺産がその痕跡を残していました。イザヤはヤハウエをユダの神、エルサレムの神とは呼びません。しかし「ヤコブの神」と呼ぶことがあります。それは神の箱と結びついているようの思われます。ダビデはエルサレムを王都と定め、そこに神の箱をシロからエルサレムに運んできました。そこは北イスラエル王国に属する町であった。神の箱はこれまで守ってきたシロの人々、とりわけ祭司も移り住むことになりました。イザヤはこの神の箱の上に臨在を明らかにするヤハウエをイスラエルの神として崇めます。

②イスラエルの聖なる者としてのヤハウエ

イザヤの神観念がイスラエルに根ざしていることを証明するより広い神名は、「イスラエルの聖なる者」です。

イザヤは召命のとき、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(6:3)というセラフィムの歌声を聞きました。当時の近東世界で神は聖であるという観念は一般に認められていますが、イザヤが理解するヤハウエの聖性はそれとは異なります。イザヤにとってヤハウエが聖であるのは、ヤハウエが正義と公平に対して熱情的であるからです。イザヤが召命の時、聖の三唱を聞いた時、自分が汚れた唇を持つ人間で、汚れた唇を持つ民の中に住むものであること自覚しました。この汚れは汚れた食物を食べたことを意味するのでなく、自分自身が不正を語り、また不義と不信仰に対して十分に明確に抵抗してこなかったゆえにそう感じているのであります。ヤハウエに関係する者は、ヤハウエが要求し、挑戦し、人間を体も魂も押さえつける主人であることを知ります。ヤハウエが聖であるという概念は、ほとんどそのまま神への畏れへの観念に対応しています。イザヤは「万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。あなたたちが畏るべき方は主。御前におののくべき方は主。」(8:13)という時、神の意志と決定が無条件に尊重され、もし人がそれを見過ごせると考えるならば、「恐ろしい」結果をもたらすに違いないという意味に解しています。イザヤは「イスラエルの聖なる者」という神名において、人間の神認識一般について無視できない寄与をしました。後代のイザヤ書の加筆を行った著者・編集者はその名称の内容を拡大変更しました。イスラエルが彼から「救い」を期待できる限りにおいて、イスラエルの聖なる者であると理解しました。ヤハウエは、イスラエルがその真実を無条件に期待し得るがゆえに、イスラエルの聖なる者なのです。このヤハウエに対する聖性の観念は、祭儀における義で自己満足し、主の正義と公平を実際的に無視している不信仰を告発する内的原理として機能することになります(1:11-16)。自己の敬虔の証明としての律法利用への厳しい批判原理としてもこの聖の観念が用いられています(29:13)。

③主としてのヤハウエ

イザヤの場合、「主」という名称は重要な役割を果たしています。「主なる万軍の神」(直訳すれば「主、万軍のヤハウエ」である)(3:1)という言い方には、「主」が本来の主語であり、「万軍のヤハウエ」は単なる説明的付加です。詩篇などには「全地の主」という言い方が見られますが、イザヤにとっては、歴史の主としてのヤハウエという考え、視野を完全におおっています。イザヤはヤハウエが諸国民の運命を支配していることを神学の基本線にしていますが、イザヤにとって何よりもヤハウエは特別な意味において、イスラエルの民の主であります。しかしこの主の観念は、歴史を支配し、世界を支配する拡大・深化への信仰を内包しています。

④万軍のヤハウエ

この神名は、天の宮廷という観念に結びついています。イスラエルにおいて古くから契約の箱と結びついて「万軍のヤハウエ」と言うことがいわれてきました。契約の箱がエルサレムに搬入されてからは、この名称は神殿祭儀生活に受け入れられ、シオンは神の山として重要な位置をしめるようになります。

⑤王としてのヤハウエ

イスラエルにおいて、神の箱は、十戒を保管するものとしてより、神の玉座と考えられていました。詩篇には、神の箱が置かれるシオンを神の玉座であると理解し、ヤハウエは諸国の王とする観念が存在します。イザヤも、ヤハウエを神的王として、栄光のうちに玉座に座する王として叙述することをためらいません。その称号を明確に述べているのは6章5節のみです。しかし、ヤハウエが王であるという思想は、イザヤの使信に深く影響を及ぼしています。ヤハウエを諸国民の主という認識は、ここからも引き出せます。主の祈りの最後にある、「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」という讃美は、究極的にはイエスがイスラエルの信仰の中で受け入れたものの継承に他なりません。

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