ガラテヤの信徒への手紙講解

18.ガラテヤの信徒への手紙5章13-15節『自由を得させるために』

ガラテヤの信徒への手紙は、自由の書簡と呼ばれるほど、キリスト者の自由について述べられています。中でも5章は、この手紙の頂点に当たります。5章は、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。」という言葉ではじまっています。

そして、13節において、キリスト者は、「自由を得させるために召し出された」存在であることが明らかにされています。では、ここで述べられているキリスト者の自由とは何でありましょう。世の中には、正義のため、また貧しい者や、圧迫されている人々のために戦う、自由の戦士といわれる人がいます。それは、人間が人間としてあるべきことを目指す戦い、解放の運動である限り、賞賛に値しますし、支持されるべきものであるといえます。

しかし、ここでパウロが述べています、キリスト者に与えられている自由は、それ自体を目的とする運動でも理念のことでもありません。キリストの自由とは、神がキリストにあって与えておられるものです。キリストは自由を得させるために、わたしたちを自由の身にしてくださったのです、とパウロが述べている意味は、キリストの贖いの故に与えられている自由のことです。それは第一に、罪の支配から自由にされているという意味で述べられています。律法は、わたしたちが神の前に罪ある人間であること教え、律法はキリストへ導く養育係として意味を持っていますが、律法は、そのもとからわたしたちを決して自由にしません。その律法は、神の民たるしるしとして、割礼を求めたり、食事の定めなどにより、人をその奴隷的な支配のもとに置くことによって、神の民の何たるかを明らかにするよう機能してきました。

それは、現実にユダヤ人と異邦人との間に差別的な考えを生む温床にもなっていました。しかし、律法は、キリストが現われるまでのものです。もちろん、律法のすべてがキリストの出現と共に無効になったわけではありませんが、律法は、主なる神に属するしるしでも、救いの内容でもあり得ません。

人はただ、キリストを信じることによって救われるということは、それ以外の何ものによっても救われないことを明らかにしています。どのような宗教的戒律も救いにとって有効な手段にはなりえないことを明らかにし、その呪縛からわたしたちを自由の身にしてくれています。

また、キリストは、わたしたちが自分自身のためにしか生きられない人間性、自己愛の呪縛からも解放する自由を与えてくれています。

キリストが与えてくださった自由の本質は、その恩恵性にあります。だから、私たちは、あらゆる人間の造り出したものから自由にされていますが、神からの自由を主張することは認められていません。聖書が教える人間観は、人は神のかたちに似せて造られた存在として、神を礼拝し、神を喜び、神に向かって生きるとき、人間は、本来の自己の姿を生きることができる、のです。神を礼拝し、神を喜び、感謝することにおいて、その自発的な応答として、その自由を行使することが許されているのです。

キリストへの信仰において、キリスト者は人からのいかなる奴隷的拘束からも自由にされています。例えば、労働者は、その労働の対価として経営者から賃金を受け取りますが、その関係において自由ではありません。しかし、わたしたちの存在は世にありますが、わたしたちの身分は、キリストの救いに与ったということにおいて、キリストに属するものとされています。そのような者として、世の制度や支配するものが、私たちの良心や人格まで拘束することができません。

この自由がキリストの贖いとして、恵みとして与えれているという性格、本質が、キリスト者の生き方を新しく規定することになります。

キリスト者は、キリストにあってこの世であらゆる自由を獲得しますが、キリストの僕として、キリストの使者として、この世界に仕えるものとされています。だからこの自由は、わたしたちが徹底してキリストの僕として生きるとき、真に自由な人間にされるものとして働きます。

パウロはここで、自由の意味を二つ上げています。
1.肉に罪を犯させる機会を与えないため
2.愛によって互いに仕えるため

キリスト者の交わり、キリスト者の新しい自由の規範は、「隣人を自分のように愛しなさい」というレビ記19章18節を引用して、パウロがわざわざ述べていることに深い意味があります。キリスト者は律法から自由にされていますが、律法を否定するのではありません。それは義務として守るというのでなく、隣人愛に生きる自由を得たものとして、他者のために生きる自由を獲得しているのです。自己愛にしか生きられない人は、その利己心の奴隷として生きています。その人は、人を愛する喜び、自由を知らないで生きています。しかし、自己を犠牲にし、十字架において自己に死に、神に対して生きられたキリストの死は、人を罪から救うために、その使命を与えられた救い主として、人のために生きるためのものでありました。

キリストは、自己のためにしか生きられないわたしたち罪人のために、ご自身の命を投げ捨て、愛を示してくださったのです。そのような自由な人格を持って、キリストは他者に対する愛を示されたのです。キリストが他者に対して持っているこの愛、この自由を、わたしたちはキリストのものとされることによって、共有するものとされているのであります。

パウロがここで述べていますのは、そのような自由のことです。パウロが6章12-13節において記していることによれば、律法(割礼)を人に要求する人は、ユダヤ人から十字架の故に自分が迫害されたくないためにそうしているにすぎず、彼ら自身は律法を守っていない人であるとパウロは述べています。

キリストにある自由は、人の顔色を伺う信仰からわたしたちを自由にします。しかし、だからといって、人のことを一切気にしないでよいといっているのではありません。人はいろんな、弱さや、こだわりから完全に自由ではありません。例えば、コリントにおいて、肉を食べることは、キリスト者にとって、ひとつのつまずきの原因になっていました。市場で売られている肉は、異教の神の祭壇にささげられた下がりものでありました。パウロは、キリスト者がそれを単なる肉として食べる自由を持つことを認めますが、それを信仰の良心において食べられないと考えている人のことを考え、時にその自由を制限することも大切なこととして教えています。

だから、この自由を、人の弱さを批判したり、あるいは、相手の立場を一切認めないという形で、その行動を過大に非難したりすることに対して、パウロは批判的です。ここでは、「だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」といって、隣人愛の問題を言い換えています。

それは特に、御霊による自由を主張するもう一方の人々に対して、述べられています。5章16節以下で、パウロは自己愛に生きる放縦と、御霊に導かれる霊的生活の結ぶ実との違い、その見極めの判断基準を示すことによって、自由の働く機会にも、決して無制限で認められるべきものでないことが明らかにしています。

わたしたちは、信仰の自由を得ています。それは、キリストにある自由です。この自由を、人との不和の機会にすべきでありません。だからといって、信仰の問題を曖昧にしたり、世と妥協するようなことをして、平和を求めるべきでありません。

わたしたちのキリストにある自由は、わたしたちに敵対する人が呪縛されているものから、解放させていく、戦い、辛抱強い祈りを伴なう問題として用いることが求められています。この自由は、キリストにある命、生きることの喜びを人に与えるものでなければ、人々の間に浸透しません。

人々の弱さは、真の救いに対する無知に由来します。真の神と人との関係の無知に由来します。そうであるなら、その真理を知るものとされ、信仰の自由を与えられているものとして、わたしたちは御霊を持つものとされています。御霊は、人の弱さに同情し、その悲しみを深さにおいて捉える自由をわたしたちに与えてくれています。キリストの御霊において開かれた目を持つことが大切です。

だから、キリストにある自由は、わたしたちを高慢や自惚れから解放するのです。

キリストの愛、そこから物事、人の心を見る目が、わたしたちを真に自由な人間に変えるのです。そこからまた、世の人々の苦しみの共感者へとわたしたちを変えていくのです。

新約聖書講解