ガラテヤの信徒への手紙講解

1.ガラテヤの信徒への手紙1章1-5節『人によってではなく、ただ神によって』

新約聖書には27の文書が収められていますが、その内、パウロの名による手紙が13あります。中にはパウロがその手紙の本当の著者であるか疑われている手紙もありますが、たとえパウロが書いたものでないものが含まれているとしても、その名が記されているというところに、新約聖書におけるパウロの占める位置の大きさを物語るものであるということもできます。

『ガラテヤ信徒への手紙』をパウロが書いたことを否定する人は一人もいません。それどころか新約時代の教会の事情を知る歴史の資料としても、パウロその人を知る手がかりとしても第一級の資料であるという評価さえ与えられています。それ以上に、パウロの福音理解を知る上においてもローマ書などと共に最も重要な文書であるといわれています。宗教改革者のルターは、「ガラテヤ書は、わたしの信頼する手紙である、わたしのケート・フォン・ボールである」と言ったと伝えられています。ケート・フォン・ボールはルターの妻の名ですので、ルターにとって、ガラテヤ書は自分の妻のよう存在であるということをいいたかったのです。ルターはこの手紙の注解書を二度にわたって書いています、それは、この手紙に対する特別な思いの表れでしょう。

さて、パウロの手紙には、通常、挨拶にはじまり、感謝のことばが述べられ、その後に本文が続きますが、この手紙の場合、通常の挨拶の言葉や感謝の言葉が記されていません。それはガラテヤの教会が一度受け入れた福音に対する忠誠を失ってしまったことに対するパウロの激しい怒りを抑えることができなかったからだと説明をする人もいます。コリントの教会も大変問題のある教会でありましたが、それでもパウロはその手紙の挨拶において、「コリントにある神の教会」と呼び、「キリスト・イエスによって聖なるものとされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」という呼びかけの言葉を述べた上で、感謝の言葉も述べています。しかし、この手紙にはそのような言葉は見られません。だからといってパウロはガラテヤの信徒たちを愛していなかったのではありません。もはや教会しての標識となるものをまったく失ってしまって、教会とは、もはやいえないといっているかというとそうでもありません。パウロはガラテヤの信徒たちに向かって、「兄弟たち」と呼んで、キリストにある兄弟としての呼びかけをし、他のどの手紙においても表さない特別な思い、本来個人的なことをあまり述べないパウロですが、個人的な問題にも言及して、この教会に語りかけています。

パウロは、なぜガラテヤ地方に行って福音を宣べ伝えることになったか、その理由を4章13節において次のように述べています。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました」と言っています。病気がきっかけで、パウロはガラテヤ伝道をしたというのです。「そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(14節)とさえ言っています。パウロの病気がどれほど人をつまずかせるようなものであったのか、具体的に記されていませんのでわかりませんが、4章15節には、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」というほどのパウロへの愛、親しみを表した群れたちです。パウロの病気は目の病気であったかもしれませんが、これは、その病を癒すためなら、そのような犠牲を払ってもよいという、ガラテヤの信徒たちのパウロへの深い愛の思いが感じとられる言葉です。

しかし、それ程、パウロへの親密さを示したガラテヤの信徒たちに対しパウロは、1章6節で、「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と述べねばならない程、ガラテヤの信徒たちの福音理解は、大きく変質してしまっていました。

パウロがこの手紙を書かねばならなかった理由は、ガラテヤの信徒たちが、パウロが宣べ伝えたのとは違う「ほかの福音に乗り換えようとしている」ことを、教会にとって生命的な危機に陥れる問題と見たからです。新約聖書にある福音書には、「マタイによる」とか「ルカによる」とか名前がついていますが、福音というのは一つしかありません。イエス・キリストの福音だけがあるのです。それらに付いているの名は、一つしかないイエス・キリストの福音を記した人の名です。パウロは、7節で「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではない」といっていますように、パウロがガラテヤの信徒に告げ知らせたのもイエス・キリストの福音です。

では、ガラテヤの信徒が別の福音に乗り換え様とする事態がどうして起ったのでしょうか。その理由は、イエス・キリストの福音を捻じ曲げ、それを根底からひっくり返してしまう人々が、ガラテヤに現れて、吹聴して回ったからです。7節で「ある人々があなた方を惑わし」といっていますが、この人たちは、パウロの使徒としての権能が真性のものではない、したがって、パウロの宣べ伝える福音は正しいものではない、と吹聴して回っていたようです。この人たちとはユダヤ主義のキリスト者で、人が救われるためには割礼を受けてユダヤ人となる必要があり、律法を守る必要があると説いていた人たちです。彼らもクリスチャンですから、イエスを救い主と信じてはいましたが、救いに必要なこととして、イエス・キリストへの信仰だけでは不十分で、割礼を受け、律法を守る必要があると主張し、ガラテヤの信徒たちに割礼を受けさせようとしていたのです。

パウロは、この手紙で、第一に、自分について疑われている真正の使徒であるかという問題に応える必要がありました。そのことは、第二に、自分の宣べ伝える福音が真正のものであるということと一体の事として明らかにする必要がありました。そしてそれら以上に大切なこととして、第三に、ガラテヤ教会を真の福音に立ち返らせる必要がありました。

パウロがこの手紙の書き出しを他の手紙に見られない、「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ」といって、自分が使徒となった事情を記す理由は、今述べたことと深いかかわりがあります。

パウロの福音を真正なものでないと吹聴した人々は、主イエスの復活の証人として選ばれた十二使徒や、主の兄弟ヤコブのように、生前のイエスと特別な関係にあったエルサレムの教会の権威などを持ち出し、パウロにはそのようなものが何もないことを理由に、その福音の真正性に疑問を持たせるようにガラテヤの信徒たちの心を揺さぶったと思われます。そこには使徒職というものが何かについて、まだ教会に定まった考えが確立していないことに対する混乱、思い違い、人間的な思惑に支配される考えが背後にあったことをうかがわせます。

1章17節には、パウロ自身、自分が召命を受ける以前に、既に使徒と呼ばれる人たちがエルサレムの教会にいたことを知っていたことを示す言葉が記されています。しかし、パウロは自分が使徒とされたその権威の源は、そうした先輩使徒たちから任命されて、権威づけを与えられることによるものでないことを明らかにしています。

「人々からでもなく、人を通してでもなく」という言葉が、具体的に何を意味しているか明確ではありませんが、人間の権威によったのでも、人間の機関によったのでもないということは、少なくとも明瞭に語られています。パウロはコリントの信徒への第二の手紙では、「神に召されて」ということを述べていますが、ここでは、それと同じ意味を持つものとして、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされた」という言葉を用いています。

パウロは自分を攻撃する人が、非常に人間的な手段に訴え、人間的な権威を拠り所にしていますから、人間的なものによったということを少しでも述べれば、自分が語る福音は真実ではない、真正なものではないと考えられることを恐れたのでしょう。だから単に神の召命によると書けばすむところを、そのような言葉で済ませず、このように言葉を重ねて用いる必要があったのでしょう。

パウロは自分の召命が神よりのものであるだけでなく、自分が受けた福音についても、人を介してのものでないことを、11、12節において述べています。「イエス・キリストの啓示」という直接的な知らされ方であることを強調しています。パウロが生前のイエスと交わりを持たず、しかもイエスの弟子でないことは改めて申すまでもないことです。使徒言行録にも、この手紙においても他の手紙でもパウロ自身述べている通り、ユダヤ教徒として、「徹底的に神の教会を迫害していた」人物であるからです。パウロは、主イエスとほぼ同じ時期に生まれ、この手紙の5章11節から推測できることですが、パウロは「割礼を宣べ伝える」ユダヤ教の伝道者としての働きに従事していた可能性さえあります。パウロは、クリスチャンに改宗するという出来事と、キリストの使徒への召命は同時に体験しました。パウロの人生を180度転換させたのは、復活の主との出会いです。復活の主の啓示に基づきます。パウロはこの出会いによつて、今まで自分が大事だと思っていたこと、信仰を「塵あくた」と見なすほどの経験であったと、フィリピ書3章で述べています。

パウロは、冒頭の挨拶の言葉において自分の使徒の召命を、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」によると語っていますが、これも特別な意味を持つ言葉です。復活の主イエスとの出会い、その福音の啓示を受けなければ、パウロのイエスへの信仰も、福音理解も、使徒の働きも、ありえないからです。

福音を語ること、また語られる福音の真正なことは、このようにイエス・キリストから直接啓示を受けることによる必要は、必ずしもありません。福音を信じている者であれば、それは誰でもできることです。福音を語ることに関しては、信徒であるとか御言葉の役者として召されているかどうかは関係がありません。しかし福音は、信じていなければ力強く、大胆に語ることはできません。自分がそれによって変えられ、生かされているという信仰がないと福音を本当に語る、語りきるということができません。

しかし、使徒というのは、復活の主を証する証人です。そのような者として、復活の主キリストとその父なる神から召し出された一回限りの特別職です。その権威と働きはただ神からのみ与えられ、その直接的な召しを必要としています。パウロはこの理解を1節において明らかにしているのであります。

パウロのような使徒の務めは一代限りであるというのがキリスト教会の理解です。しかし御言葉を伝えるための伝道者、教師、牧師という務めを、人を通してではなく、神よりの直接的な召しによるという信仰は、そのつとめを全うする意味で非常に重要です。自分の意思で、自分の望みでする伝道というのは、挫折するとそれまでです。しかし、神から遣わされた、神よりのものという信仰があれば、どのような状況においても語ることができますし、また、どのような状況においても語らねばなりません。それは、神が召し、お決めになったことであるからです。もちろん自分を弁護するために召命という言葉を用いることは許されるはずはありません。福音を語るということは、自己を語ることではなく、肉にしか過ぎない者が、神を語るという恐れを覚えるものであり、またそのようなものが神を語るという幸い、特権に与ることでもあります。パウロは預言者エレミヤと同じように、そのつとめを「母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出した神」の業と捉えています。この召命感が使徒パウロを支えた信仰の中心にありました。そしてそれは、私のような貧しい伝道者においてもいつも覚えねばならない召命感であり、信仰の中身として問われている問題であります。そして、パウロのこの手紙をどういうものとして受け取るべきか、それはガラテヤの信徒たちの問われた問題でもあります。教会はいつもこのようにして伝道者と向かい合い、神よりのものを大切に貫き棒の如く棒持する信仰が求められているのであります。

そして、教会を建て上げる力は、人による力ではなく、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」から来る、という信仰を教会が共に持つことによって与えられることを覚える必要があります。ただ神から与えられる召しと導き、その恵みに委ねて生きる教会に、神の恵みと力は、豊かに表されるのです。そして、人としての真の生きる喜び、希望、力が、この信仰に立つことによって豊かにされていくのです。「人によってではなく、ただ神によって」与えられる力で、教会員と共に、教会を建て上げていく恵みに与っていきたいと祈り願います。

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